大切なもの
「行ってまいります」
「体に気を付けるのですよ」
涙はない。抱擁もない。
母は、微笑みながら息子を見送った。
子は、引き締まった顔で別れを告げた。
馬車に乗り込んだ一行は、屋敷の門を出て北へと向かう。揺れる馬車の中で、話す者はいなかった。
口を真一文字に結ぶアルバートを、クロエが心配そうに見つめている。何か言いたそうな剣士と魔術師も、時々アルバートに目を向けるが、結局は黙ったままでいた。
一行が乗っているのは、貴族が使う華美な馬車ではなく、使い古された幌馬車だ。地面の凹凸が直接感じられるほど乗り心地は悪かったが、目立たないよう移動するためには仕方がなかった。
手綱を握るのはミナセだ。馬車を操るのは初めてだったが、生家の道場に馬がいたおかげで、馬の扱いには慣れている。旅立つ前に、ヒューリから短いレクチャーを受けただけで、ミナセはすぐ馬車の操作を覚えてしまっていた。
ミナセの隣にはフェリシアが座っている。その顔は、なぜか不機嫌だ。
「どうしてフードなんて被らなくちゃいけないのかしら」
アルバートたちに聞こえるほどではないが、ミナセにははっきり聞き取れる声で、文句を言う。
「こんなにいい天気なのよ。風も心地いいし、景色も素敵。それなのに、このフードのせいで全然気持ちよくないじゃない」
ブツブツ言い続けるフェリシアに、ミナセは苦笑い。
「だいたい、どうして私たちが御者台にいなくちゃいけないのよ。この国の男は、女子に対して冷た過ぎるわ」
あまりに続く不平不満に、怒るというよりミナセは笑ってしまった。
「フードを被って移動するのは目立たないようにするためだ。御者台に座るのは、私たちが一般市民で、この旅の案内役だからだ。どれも打ち合わせの通りだろう?」
「そうなんだけどぉ」
諭すようなミナセの声に、フェリシアがむくれる。
ミナセの言う通り、今のこの状況は、すべてが打ち合わせ通りだった。
ミナセとフェリシアが”護衛”であることを、じつは後ろに乗っている四人は知らない。そうした方がよいとアルバートの母親が判断し、影の老人もそれに賛成している。
剣士と魔術師は、コメリアの森での滞在中、アルバートの護衛をすることになっていた。同時に二人は、アルバートの教育係としての役割も負っている。剣や魔法、そして様々な知識と教養をアルバートに教授することが、二人に課せられた重要な使命だ。その使命を与えられたことに、二人は誇りを持っていた。
ゆえに、ミナセとフェリシアが、二人を遙かに凌ぐ力を持っていることは伏せられた。ミナセの太刀も、フェリシアお気に入りの短剣も、屋敷を訪れる前からマジックポーチにしまってある。
影が連れてきたのは、護衛ではなく案内役だった。旅の間も森での滞在中も、護衛は後ろにいる剣士と魔術師。
貴族としてのプライド、優秀と認められた剣士と魔術師のプライドに配慮した結果だ。もちろん、いざとなれば二人とも全力で四人を守ることにはなっている。
一般市民で案内役の二人が、その美貌で目を引かないようにフードを被って御者台に座る。後ろの四人も、地味な服や帽子などで、身分を隠して移動する。
すべてが打ち合わせ通りのはずなのに、なぜかプンプン怒っているフェリシアに、ミナセが聞く。
「いったい何が不満なんだ?」
何となく理由は分かっていたのだが、あえてミナセは聞いてみた。
すると、予想通りの答えが返ってくる。
「だって私、この旅でアルバート様と仲良くなるって決めたのよ。それなのに、これじゃあお話しすることもできないじゃない!」
小声のまま、フェリシアが全力でミナセに訴える。
「案内役が御者台にいなくたっていいと思わない? 一般市民が貴族と一緒の客車に乗ったっていいと思わない? もうちょっと女の子に気を遣ってくれてもいいと思わない?」
「まあ、そうかもな」
生返事をするミナセに、フェリシアの熱い言葉は続く。
「今夜は宿に泊まるでしょう? そうしたら部屋も別々でしょう? チャンスがどんどん減っちゃうのよ?」
「……」
もはやミナセに返事をする気力はない。
黙ってしまったミナセを見ながら、拳を握り締めてフェリシアが言った。
「こうなったら、馬車が使えなくなってからが勝負ね。山道に入れば歩いて移動だし、夜は野宿も多くなる。もうそこしかないわ!」
「フェリシア。索敵忘れるなよ」
「もう、ミナセ!」
のどかな農村の道を馬車は走る。
呆れるミナセとプンプン怒るフェリシア、そして無口な四人を乗せた馬車は、北に向かって走っていった。
初日は穏やかな旅だった。予定通りの行程を終えて、一行は街道筋にある宿に入った。
エルドア国内でゆっくり休めるのは、この宿が最初で最後だ。次にまともなベッドで眠れるのは、イルカナに入ってからとなる。
今日一日走ってきたのは、エルドアとイルカナを結ぶ最も主要な街道だ。エルドアの混乱で、以前に比べれば人の通りは減っていたが、それでもそれなりに整備はされているし、立派な宿もある。
その街道は、国境線の中央よりやや東側にあった。明日からは、人目を避けるため、さらに東を通る裏街道を進むことになっている。
イルカナに向かう街道は、西側にもあった。距離で言えば、その道がコメリアの森への最短経路となる。しかし、今やその街道を使う者は一人もいない。エルドアの北西部、イルカナから見て南西部に、大量の魔物が発生しているからだ。
東の裏街道は山賊も少ない。そして、一行が北西に向かっていることを隠すこともできる。
遠回りにはなるが、一行にとってはそれが最も安全な選択と言えた。
「アルバート様は、今何をしているのかしら?」
宿の部屋で体を拭きながら、フェリシアがつぶやく。
「護衛の仕事の難点は、体が洗えないことだな」
同じく体を拭きながら、フェリシアを無視してミナセがぼやく。
「まあ、そうよね」
無視されて怒るかと思いきや、意外にも、フェリシアが頷いた。
この世界では、一般市民に入浴の習慣がない。よって、普通の宿には風呂もない。
今も二人は、フェリシアが持ってきた桶に水を張って、タオルを濡らしながら体を拭いていた。
「あの小屋、一つ持ってくればよかったわね」
「それはやめろ」
冷静なミナセの言葉にフェリシアがむくれた。
仕事でアルミナを離れる時以外、社員たちは、毎日中庭の小屋で体を洗っていた。それに慣れてしまうと、体を洗わないことが気持ち悪く感じてしまう。
「お話に出てくる収納魔法みたいに、このポーチが何でも収納できたらよかったのに。そうしたら、あの小屋を解体せずに持ち運べるでしょう?」
「しまうのも取り出すのも、重くて大変そうだけどな」
「つまらないことを気にしちゃいけないわ。物語には、夢が必要なのよ」
タオルを絞りながら、フェリシアの話は続く。
「お話の中ではね……」
なぜか収納魔法について語り出したフェリシアを横目に、体を拭き終えたミナセが荷物を片付け始めた。
楽しそうにフェリシアがしゃべり続ける。
そのフェリシアが、ふいに黙った。そして、ミナセに聞く。
「どうして、そんなボロボロの布を持っているの?」
ミナセが鞄から取り出したものを見て、フェリシアが首を傾げた。
あちこち擦り切れている、ちょっと汚れたボロ布。それをミナセは、とても慎重に鞄から取り出していた。
聞かれたミナセがうつむく。そして、小さな声で答えた。
「これは、とても大切なものなんだ」
あの夜捨てそびれたそれを、ミナセはずっと大切に持っていた。擦り切れたままで、汚れも染み付いてしまっていたが、できるだけきれいに洗って、きちんと丁寧に畳んである。
少女と出会ったのは、イルカナの東、カサールとの国境付近。どこから来たのかと聞かれた少女は、南を指さした。
見渡す限りの深い森と、その先にそびえる国境の山々。
少女は、エルドアの北東から来た可能性が高かった。
もし少女とゆかりのある人に出会えたなら、ミナセはそれを、その人に託したいと思っていた。
もし少女の家族と出会うことができたなら、ミナセはそれを、家族に返したいと思っていた。
商隊の護衛でエルドアに来ることは多かったが、通るのはいつも主要街道。そこからさらに東に行くことはない。
でも今回は……
ミナセの顔には微笑み。
寂しげで、泣きそうな微笑み。
それ以上問うことをやめて、フェリシアも荷物を片付け始めた。
片付けながら、フェリシアが言った。
「私にできることがあったら何でもするわよ。遠慮しないで言ってね」
驚いて、ミナセが顔を上げる。
優しく笑うフェリシアを見て、ミナセが笑った。
「ありがとう」
心が暖かくなる。
それなのに、なぜだか泣きたくなる。
心許せる仲間がいるということは、本当に幸せなことだとミナセは思った。
「悪いけど、先に寝かせてもらうよ。時間になったら起こしてくれ」
「分かったわ」
アルバートをコメリアの森まで送り届ける。その仕事を完遂するまで二人は油断しない。
ミナセがベッドに潜り込む。フェリシアに任せてミナセは眠る。
慣れない宿の、慣れないベッド。それでもミナセは、すぐ眠りに落ちていった。
ミナセの寝顔に微笑んで、フェリシアが灯りを消す。窓とドアを少しだけ開け、索敵魔法の魔力を一段引き上げて、フェリシアは、窓辺のイスにそっと腰掛けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます