今だけは

「クロエはここで待ってて。僕、ちゃんとお母様に話してくるから」

「かしこまりました」


 心配そうなクロエに笑って見せて、アルバートは扉を叩いた。


 トントントン


 静かな廊下に乾いた音が響く。


「はい」


 小さな声と共に、扉がゆっくり開いていった。

 隙間から顔を覗かせたメイドが、驚いて声を上げる。


「アルバート様!」


 慌てたように、メイドが廊下に出てきた。


「お母様は、まだ起きていらっしゃるかな」

「はい。起きていらっしゃいます」


 声を落としてメイドが答える。


「お母様に、お話ししたいことがあるんだ。中に入れてもらいたいのだけれど」


 今朝まで、アルバートはこの部屋で母親と一緒に過ごしていたのだ。今さら許可をもらう必要もないと思うのだが、やけに緊張した様子でアルバートが言った。


「お待ちください。奥様に伺って参ります」


 アルバートに答え、後ろにいるクロエをちらりと見て、メイドが部屋の中へと戻っていった。

 閉じた扉をアルバートがじっと見つめる。

 その扉が、開いた。


「どうぞ、中へ」

「ありがとう」


 緊張したまま礼を言って、アルバートは部屋に入った。

 入れ違いに外に出たメイドが、静かに扉を閉める。そして、クロエと並んで廊下の壁際に立った。


「大丈夫かしら?」


 今朝の騒ぎを思い出して、メイドが言う。


「大丈夫よ」


 右手を左手でぎゅっと握りながら、クロエが笑って答えた。



「アル、こちらに来なさい」


 少し離れて立つアルバートに、ベッドの上から母が言った。


「はい」


 答えて、だがアルバートは動かない。

 床を見つめたまま、アルバートはそこから動けなかった。


 何て言おう


 上手な言葉が見付けられない。


 変なことを言って、叱られたりしたら……


 そんな心配をしてしまう。

 しかし、アルバートが動けない理由は、そんなことではなかった。

 本当の理由は、別にあった。


 お母様への想いに決着をつける


 ミナセに言われてアルバートは納得した。納得したから、こうしてここまでやってきた。

 だが、決着をつけてしまえば、決断をしなければならなくなる。屋敷を出ていかなければならなくなる。

 母から離れなければならなくなってしまうのだ。


 アルバートは動かない。

 アルバートは、動けなかった。


 ふと。


「わたくしは、よい母親ではなかったのかもしれませんね」


 小さな声がした。

 驚いてアルバートが顔を上げる。数歩先にあるベッドの上で、母が壁に飾られた肖像画を見つめていた。


「わたくしは、あなたとあまり一緒にいてあげませんでした。お父様が亡くなった時も、寂しい思いをしていたあなたに、余計厳しく接してしまいました」


 アルバートにも母にも優しかった父。

 穏やかに微笑むその顔は、母と息子の記憶のままだ。


「あなたはまだ八才。歴代の王の中でも、その年齢で即位した者はいません。王になるというだけでも大変なことなのに、石に選ばれたことを公にもできず、突然国外に行けだなんて、大人であっても心が揺れてしまうことでしょう」


 初めて聞く母の想いに、アルバートが目を見開く。


「それなのに、あなたは文句も言わずに王になることを受け入れた。コメリアの森に行くことにも黙って頷いた。言いたいこともあったでしょう。聞きたいことも、たくさんあったでしょう。それなのに、あなたは……」


 ミナセたちに言った強い言葉とは反対の、弱々しい言葉が震える声で語られていた。


「あなたは頑張っていた。あなたは、ちゃんと旅に出ようとしていた。それを台無しにしたのは、わたくしです。大丈夫だって言ったのに。安心しなさいって言ったのに」

 

 震える声は、ついに涙声へと変わる。


「ごめんなさい」


 母が両手で顔を覆う。


「ごめんなさい」


 母がうつむく。


 泣いてはいけない


 そう思った。


 ここで泣いたら、余計にあの子の決心を鈍らせてしまう


 そう、思った。

 そう思って必死に涙をこらえるが、溢れる感情が、理性の垣根を越えてこぼれ落ちていく。


 アルバートが不憫でならなかった。

 病弱な自分が許せなかった。

 今朝の自分の態度、これまでのアルバートへの接し方、過去のたくさんの行いを後悔した。


 母は泣く。

 声を殺して母は泣き続ける。


 ……と。


「お母様は悪くありません!」


 大きな声がした。

 ピクリと肩を震わせて、母が両手を下ろす。


「悪いのは僕です! ちゃんと約束していたのに、我が儘を言いました。僕は、お母様を困らせてしまいました」


 床を睨み、両手を握り締めるアルバートを、驚きながら母が見る。


「僕は怖かったんです。ここを出てしまったら、もう二度とお母様に会えなくなっちゃうんじゃないかって。お母様が、お父様のところに行っちゃうんじゃないかって」


 母の目が、大きく広がっていった。


「お体が弱くてもいいです。一緒にいてくれなくてもいいです。お母様が生きていてくれたら、僕はそれでいいんです!」


 アルバートが顔を上げた。その目には、いっぱいの涙。

 母が毛布を撥ね除ける。


「僕は、お母様が大好きです! お母様と離れたくない。本当は、お母様とずっと一緒にいたい!」


 アルバートが叫んだ。

 母がベッドから立ち上がった。


「でも、僕はエルドアの王です。だから、僕は行きます。コメリアの森で、ちゃんと勉強してきます。そして、絶対お母様のところに戻ってきます!」


 涙を拭いて、アルバートが言った。

 母が、アルバートに駆け寄った。


「だからお母様、ずっとお元気でいてください。僕が戻った時に、おかえりって言ってください。僕も頑張るから。絶対に頑張るから……」

「アル!」


 母が、強く息子を抱き締めた。


「お母様!」


 息子が、強く母を抱き締めた。


 せめて今だけは


 涙にむせぶ母と子を、壁に飾られた優しい顔が、そっと見守っていた。

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