二つの気持ち

 テーブルを挟んで、ミナセとフェリシア、そしてアルバートが座っている。クロエは、立ったままアルバートの後ろに控えていた。


「先ほどは恥ずかしいところを見せてしまった。それと、本当ならすぐ出発するはずだったのに、そなたたちをここに足止めしてしまった。どちらも、私の我が儘から出たことだ。すまないと思っている」


 そう言うと、アルバートは二人に向かってきちんと頭を下げた。

 

「いえ、そんな」

「お気になさらないでください」


 二人が慌てて答えた。

 自分を”私”と呼ぶことも、言っている内容も言葉遣いも、八才の子供には何とも不釣り合いだ。いずれは王となる自覚がそうさせているのだろうが、背筋を伸ばして椅子に座るアルバートの足は、つま先しか床に届いていない。

 もしかすると、この部屋を訪ねてきたのも、クロエに言われたからなのかもしれない。二人に謝りに行くという発想を、アルバートのような子供がすること自体考えにくかった。

 それでも。


「アルバート様はお優しいのですね」


 ミナセが微笑みながら言った。

 理由はどうあれ、アルバートの態度はとても好感の持てるものだった。


「あ、いや」


 言われたアルバートが、頬を染めてうつむく。そして、ちらりと後ろを見た。やはりクロエに言われて来たらしい。

 もう一度微笑んで、ミナセがアルバートに話し掛けた。


「アルバート様は、一族の皆様の決定にご不満がおありなのですか?」

「そんなことはない!」


 勢いよく顔を上げて、アルバートが否定する。


「今の状況を考えれば仕方のないことなのだ。石と私の安全を確保しておいて、国内の混乱の収拾を図る。それが一番いい方法なのだと、お母様もおっしゃっていた」


 真っ直ぐにミナセを見てアルバートが答えた。

 そんなアルバートを、ミナセが正面から見つめ返す。


「では、コメリアの森に行くこと自体は、必要だと思っていらっしゃるのですね?」

「それは……そうだ」


 アルバートの視線が、ミナセから逸れた。


「一日も早くアルバート様が国外に逃れる。それが重要だということも、お分かりなのですね?」

「それも……分かっている」


 アルバートが、下を向く。


「アルバート様が国内にいる間は、一族の方が動けない。アルバート様が旅立たなければお母様が困る。そのことは、ご理解されていると思ってよろしいのでしょうか?」

「……」


 アルバートは、とうとう完全にうつむいてしまった。

 その後ろで、クロエもうつむく。小さな背中を見つめたまま、苦しそうな顔でクロエもうつむいた。

 その二人を、心配そうにフェリシアが見つめる。そして、何かを訴えるようにミナセを見た。

 空気が重い。それをミナセが感じていないはずがない。

 だが、ミナセの言葉は続いた。


「今のアルバート様の言葉に、嘘はないのだと思います。でも、今朝のアルバート様の言葉には、嘘がありましたよね?」

「嘘?」

「そうです」


 アルバートが、わずかに顔を上げた。


「安心できないからコメリアの森には行けない。アルバートがおっしゃったあの言葉は、嘘ですよね?」

「嘘なんかじゃない! 僕は本当にお母様のことが心配で……」

 

 アルバートが大きな声で言う。

 その反論を、ミナセが絶つ。


「いいえ、あれは嘘です。アルバート様の本当のお気持ちではありません」


 アルバートが黙った。


「森に行けない本当の理由は違うはずです。それをごまかしてはいけません」


 クロエが、エプロンをぎゅっと握った。

 空気がさらに重くなる。フェリシアが、ミナセに何かを言い掛ける。

 その時、ミナセが立ち上がった。そのままテーブルを回り込んで、アルバートの真横に膝をつく。

 アルバートは、ミナセを見ない。すぐ横にある黒い瞳を、アルバートは見ることができなかった。


「アルバート様」


 呼び掛けられても、アルバートは返事をしない。

 構わずミナセは話し始めた。


「アルバート様の中には、二つのお気持ちがあるのだと思います」

「二つの気持ち?」


 わずかに横を向いて、アルバートが聞き返す。


「一つは、次代の王としての責任感。そしてもう一つは、大好きなお母様への想い」


 アルバートの目が広がった。


「森に行けない理由。それは、お母様と離れたくないから。そうですよね?」


 そうだ、とはアルバートも答えられない。

 それは我が儘だ。次代の王として許されることではない。


「お母様と離れたくないから森に行かない。それは、我が儘です」


 やはりミナセもそう言った。

 アルバートが、またうつむく。


「それは、アルバート様もよく分かっていらっしゃる。だから」


 ふいにミナセが、アルバートの片手に手を乗せた。小さな手に、暖かな手のひらが重なる。

 アルバートが、その手を見た。

 微笑みながら、ミナセが言った。


「きっとアルバート様は、決断をなさいます。誰かに何かを言われなくても、きっとアルバート様は、自らお屋敷を出る決断をされると思います」


 驚いて、アルバートが顔を上げた。


「次代の王としての責任感。それがある限り、アルバート様は大丈夫です」


 黒い瞳がアルバートを見つめた。


「ですが、その前に、お母様への想いに決着をつけなければなりません」

「決着?」

「そうです」


 アルバートが首を傾げる。


「その想いに決着をつけずに森に行くことは、アルバート様にとっても、お母様にとってもよくありません」

「お母様にとっても?」


 頷いて、ミナセが続ける。

 

「今朝のアルバート様の行動は、お母様にとても悲しい思いをさせてしまいました。あの時も、そして今も、お母様は悲しい気持ちをお持ちのままなのです」


 ミナセの言葉にアルバートは動揺した。


 自分が悪いことをしたという自覚はあった。

 お母様に嫌われてしまうかもしれない。そんなことも思っていた。


 でも、お母様に悲しい思いをさせているだなんて、思ってもみなかった。


「お母様に謝りにいってください」


 柔らかだった声が、険しくなる。


「我が儘を言ってしまったこと、悲しい思いをさせてしまったことを、お母様にきちんと謝ってください」


 厳しい声がアルバートに迫る。

 アルバートが、両手を握った。


「そして」


 握られた両手を、ミナセの両手が包み込む。


「きちんと謝ることができたなら、お母様に、素直なお気持ちを伝えてください」


 優しい声がした。


「お母様と離れたくない。それでも旅立たなければならない。そのすべての想いを、お母様に届けて差し上げてください」


 小さな両手が、ミナセの手の中で強く握られる。


「ごまかしではない本当のお気持ち。取り繕うことのない素直なお気持ち。そのお気持ちは、必ずお母様も受け止めてくださいます」


 深くて神秘的な黒い瞳。その瞳を、アルバートが見つめる。


「きっとお母様も、アルバート様とお話がしたいと思っていらっしゃいますよ」


 穏やかにミナセが微笑んだ。

 その微笑みを、アルバートが見つめていた。


「すべてをお話しして、すべてを伝えることができたなら、明日、私たちと一緒に出発いたしましょう」


 ミナセを見つめたまま、真剣な顔でアルバートが頷く。


「分かった」


 クロエが驚いた。フェリシアも驚いていた。

 ミナセにそっと背中を押されて、アルバートが立ち上がる。


「クロエ、行こう」


 扉に向かってアルバートが歩き出す。慌ててクロエがついていく。

 扉を開けてアルバートを部屋の外に出すと、ミナセとフェリシアに深く頭を下げて、クロエも廊下へと出て行った。


 パタリと閉まった扉を見つめ、椅子にストンと座ったフェリシアが、大きなため息をついた。


「やっぱり、ミナセって凄いわね」

「ん、何がだ?」


 よく分からないという顔でミナセが聞いた。

 その顔をじっと見つめて、フェリシアがまた大きなため息をつく。


「そういうところが凄いっていうのよ」

「?」


 ミナセが首を傾げる。

 その目の前で、フェリシアが拳を握った。


「でも私、負けないから!」


 不屈の闘志が燃え上がる。

 鼻息の荒いフェリシアを、ふわりと椅子に腰掛けながら、不思議そうにミナセが眺めていた。

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