大人の事情と子供の感情
宿屋を出た二人は、アルバートの住む屋敷の前へとやってきた。
夜が明けたばかりのこの時刻では、門を見張る衛兵もおらず、屋敷の周りはひっそりとしている。
「何だか面倒な話になっちゃったわね」
「仕方がないさ。お互いに気を付けよう」
困惑気味のフェリシアに、何も差していない左の腰を気にしながら、ミナセが言った。
昨夜遅く宿に現れた老人は、出発が明朝になったことを二人に告げると、申し訳なさそうに切り出した。
「すまぬが、二人に頼みがある」
そう言うと老人は、ミナセとフェリシアに、旅の間演じてほしい”役割”について説明をした。
フェリシアの言う面倒な話とは、この役割のことを指している。
「この後すぐ出発するのよね。昨日の今日で、ほんとに大丈夫なのかしら?」
老人が屋敷に戻ったのが昨日の昼頃。そこからまだ一日も経っていない。急に決まった役割のことも含めて、何となくバタバタ感が否めなかった。
「まあ、大丈夫だろう」
フェリシアに答えて、ミナセが躊躇いがちに門を叩いた。
朝靄の立ちこめる早朝。見知らぬ貴族の屋敷を訪ねるような時刻ではない。
「失礼します。エム商会から参りました、ミナセとフェリシアと申します」
控え目にミナセが名乗る。すると、ほとんど間を空けずに扉が開いた。
「話は聞いている。中へ」
男の声がした。開いた扉の内側に、衛兵と、そして剣士が一人立っている。剣士の顔は、なぜかいきなり不機嫌だ。
「悪いが、すぐには出発できない。少し待ってもらうことになる」
歩き出しながら剣士が言った。
「分かりました」
ミナセとフェリシアが、慌てて剣士を追い掛ける。
「まったく」
小さくつぶやく剣士の後ろで、二人は揃って首を傾げていた。
華美ではないが、ひと目で上質と分かる調度品。壁に掛かっている風景画は、主張もせず、さりとて埋没もせずに、部屋の雰囲気を上品なものに仕上げている。
応接室に通された二人は、温かなお茶を飲みながら部屋の中を見渡していた。
案内をしてくれた剣士は、最後まで不機嫌だった。とは言うものの、きちんと部屋が用意してあったり、メイドがすぐにお茶を運んできてくれたりと、二人に対する扱いは決して雑ではない。
「想定外のことが起きたのかな?」
「そうかもね」
ミナセのつぶやきに、フェリシアが答えた。
アルバートが屋敷を出る表向きの理由は、療養ということになっている。
アルバートの父親は、数年前に病気で亡くなっていた。アルバートの母親も、生まれつき体が弱い。
そんな両親を持つアルバートに、先頃病気が見付かった。
症例の少ないその病気の治療法を探していたところ、とある場所に名医がいることが分かった。
名医を紹介したのがエム商会。その社員が、アルバート一行を名医の住む場所まで案内するために、今朝屋敷に到着した。
という説明が、屋敷の使用人たちにはされているはずだ。
領民や、王族以外の貴族にも同じ説明がされることになるが、近日中には先王の崩御と次期王の決定が発表される。アルバートが療養の旅に出ることなど、人々にとっては些細な話に感じることだろう。
誰かが何かに気付く前に、アルバートを国外へ逃がす。ゆえに、予定では挨拶もそこそこに出発することになっていたのだが。
「遅いわね」
お茶を飲み切ってしまったフェリシアが、ちょっと頬を膨らませながら文句を言う。
苦笑したミナセが、同じくお茶を飲み干したその時。
「失礼いたします」
メイドが入ってきた。
「お待たせして申し訳ございません。まだアルバート様のご準備ができていないのですが、奥様が、お二人をご案内するようにとおっしゃっておりますので」
歯切れの悪さを残しながら、メイドが頭を下げる。
顔を見合わせたミナセたちは、それでも黙ってソファから立ち上がった。
トントントン
メイドがノックをした。しばらく待つが、返事はない。するとメイドは、少しうつむいた後、返事を待たずに黙って扉を開けた。
途端。
「お母様は嘘をついています!」
甲高い声が響き渡る。
「昨日からお食事も召し上がっていないのでしょう? お熱も下がっていないのでしょう? それなのに、お母様が元気なはずないじゃありませんか!」
ベッドの横で、男の子が声を張り上げていた。
「アル、我が儘を言うものではありません。準備ができたらすぐ出発すると、以前から何度も……」
「いいえ! お母様はおっしゃいました。お母様はすっかり元気になったから、心配することは何もないと!」
男の子は主張する。
「心配することは何もないから、安心してコメリアの森へ行きなさいと!」
男の子は訴える。
「だけど、お母様はお体が悪いのでしょう? お熱があるのでしょう? 僕は心配です。心配で、安心できません。だから、僕はコメリアの森には行きません!」
子供ながらに理屈は通っている。男の子の賢さが見て取れた。
とは言うものの。
「アル、聞きなさい。お前が出発してくれないと、わたくしが安心できないのです。わたくしのことを思ってくれるのなら、どうか笑って……」
「笑えません! お母様こそ、僕のことを思ってくださるのなら一緒にいさせてください!」
大人の事情と子供の感情。完全に平行線で、このままでは埒が明きそうもない。
ベッドの上で、母親が困っていた。
ベッドの横で、男の子が口を結んでいた。
その二人を、オロオロしながら一人の女が見ている。
女の隣には、苦々しげな顔の男が二人。一人は、ミナセたちを案内した剣士だ。もう一人は、服装から見ておそらく魔術師だろう。
ここまで案内してくれたメイドはすでにいない。部屋の中には、母子と、並ぶ男女三人と、そしてミナセたち。
全員が無言だった。
全員が、どうしていいか分からずに黙っていた。
ふと。
「今日の出発は、取り止めにしませんか?」
落ち着いた声がした。
「ちょっと、ミナセ!」
フェリシアの驚く声がする。
「そんなことは許されない」
剣士の男が強い口調で言った。
「アルバート様には、ご自身のお立場を理解していただかなくてはならない。出発を延期するなど……」
「アルバート様を導くことが、お側にいる者の務めのはず。アルバート様に何かを強要することは、お側にいる者の心得として間違っているのではありませんか?」
「なっ、何だと!?」
ミナセの冷静な言葉に、剣士の男が目を丸くした。
「アルバート様も、コメリアの森に行くことの必要性は理解されているはずです。それでも、今が出発の時ではないと、アルバート様は判断されている。それに意見することはできても、判断をねじ曲げることを家臣がしてよいものなのでしょうか」
「それは……」
剣士の男は言い返せない。口をパクパクさせるのみで、何も言葉は出てこなかった。
すると。
「残念ながら、そなたの言う通りだな」
剣士の隣の男が、苦笑いをしながら言った。
「我々が間違っておりました。申し訳ありませんでした。今日の出発は、取り止めにいたしましょう」
アルバートに向かって男が頭を下げる。
皆が驚いていた。その中で一番驚いていたのは、間違いなくアルバート自身だった。
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