エルドアへ

 風切り音はするものの、風はあまり感じない。

 地上に灯りはほとんど見えないが、夜空に輝く月の明かりが眼下の地形をはっきりと照らし出していた。


「寒くないですか?」

「大丈夫じゃよ」


 ミナセの声に、背中の老人が答えた。


「しかし、何ともまあ、こんな魔術師がこの大陸にいたとはのぉ」


 感心しきりに老人が言う。


「自分以外の人間と飛ぶというだけでも信じられぬのに、風除けのシールドを張りながら、なおかつこの速度。まったくもって、何ともまあ」

「やあねぇ、おじいちゃんたら。誉めても何も出ないわよ」


 フェリシアが、背負子に座る老人を笑いながら振り返った。


 ロダン公爵の息子ロイの命を救うために、セルセタの花の咲く洞窟まで移動した時と同じ方法で、三人はエルドアに向かって飛んでいる。その時と違うのは、人目を避けるため夜に移動しているということだ。夜明け頃には、国境を越えてアルバートの住む屋敷の近くに着く予定になっていた。

 向かっているのはエルドア。ミナセやフェリシアが、護衛で何度も通ったことのある道だ。月明かりさえあれば、たとえそれが空の旅であろうと迷うことはない。


「馬車で四日は掛かる道のりが、たったの一晩とは。ほんとにまあ」


 手をつなぐミナセとフェリシアが、驚くばかりの老人の声を、微笑みながら聞いていた。



「アルバート様の護衛、お引き受けいたします」


 真っ直ぐに老人を見てマークが言う。


「心から、礼を申し上げる」


 老人が、静かに頭を下げた。

 老人がエム商会にやってきてから数日後。老人を招き、答えを伝えたマークは、老人や社員たちと作戦を練り上げた。

 護衛を担当するのは、ミナセとフェリシア。老人と共にエルドアへ行き、アルバートを含めた計四人を護衛しながらイルカナに戻ってきて、さらにコメリアの森へと向かう。

 老人は、復路のメンバーに入っていない。老人には、エルドアの命運を左右するであろう重要な仕事が任されていた。


 行きはフライで移動できるが、帰りは人数が多過ぎてそれはできない。アルバートだけでもフライで運ぶという案も出たのだが、それには老人が反対した。


「アルバート様と、供の者が離れることは避けたい」

 

 アルバートは、エルドア王国の次期国王。老人がそう言うのももっともだ。

 検討の結果、復路は馬車や徒歩で移動することになった。


 作戦は決まった。

 そして翌日、三人はエルドアに向けて飛び立っていった。



 東の空が曙色に染まり始めた頃。


「この辺りでいいじゃろう」


 老人がフェリシアに言った。


「ここからならお屋敷までそう遠くないし、これ以上飛び続けると、早起きの農夫に見付かってしまいそうじゃからな」

「分かったわ」


 頷いて、フェリシアが下降を始める。同時に、索敵魔法を全開にして周囲を探った。


「あの草地でいいかしら?」

「そうだな」


 ミナセに確認を取って、フェリシアが一気に高度を下げていく。そして三人は、街道から少し外れた草地に降り立った。

 アルバートの住む屋敷は、エルドアの王都よりも北にある。三人が降り立った草地は、そこよりさらに北、屋敷まで徒歩で半日弱という距離にあった。


「わしが先行して段取りをつけておく。おぬしらは、お屋敷近くの宿で待っていてくれ。夜、その宿で最後の打ち合わせがしたい」


 そう言うと、老人は宿の名を書いたメモをミナセに渡した。そして、移動の疲れも見せることなくスタスタと歩き出す。


「あの歳であの動き、尊敬するわね」

「まったくだ」


 あっという間に離れていく背中を、二人が見送った。


「じゃあ、こっちも休むとするか」

「そうね。さすがにちょっと疲れたわ」


 朝露でかすかに濡れる草の上に、マジックポーチから取り出した毛布を敷いて、フェリシアが横になる。

 フェリシアは、昨夜から今朝まで一度も休むことなく飛び続けていた。これ以上動くことは、さすがのフェリシアでも無理だった。

 とは言え。


「本当にお前は凄いよな」

「そう? ミナセに褒めてもらえるのは、ちょっと嬉しいわね」


 セルセタの花入手作戦の時、フェリシアは、一時間に一度の休憩を挟んでいた。それが、今回は一晩ぶっ通しで飛んでいる。

 フェリシアは、どちらかと言えば、リリアやシンシア、そしてミアの成長を助ける立場だった。もともと規格外の力を持つフェリシアが、その三人のように目を見張るほどの能力向上は望めない。

 それでもフェリシアは止まらなかった。ミナセやヒューリと同じく、どこまでも自分の力を磨いていった。

 魔力の量も、フライの技量も、そのほかの魔法の精度や威力も明らかに向上している。入社当時と比べると、フェリシアは間違いなく進化していた。


「ゆっくり休んでくれ」

「ありがと。時間になったら起こしてね」


 フェリシアが目を閉じる。

 ミナセに見守られながら、フェリシアは深い眠りに落ちていった。



 交代で休憩を取った二人は、午後から移動を開始して、老人に指定された宿へと向かった。

 そこそこ大きな町の、そこそこ大きな宿。その宿に部屋を取ると、二人は近くの酒場で情報収集を始める。声を掛けてくる酔っぱらいを適当にあしらいながら、エルドアの現状について、疑われない程度に聞いていった。


 エルドアの状況は、おおむね老人の言った通りだった。教団の教えは、南部の穀倉地帯だけでなく、果物やワインの産地で有名な北西地域にまで広がっている。

 王都のある北東地域にも徐々に教団の拠点は増えていて、最近ではとうとう王都内にも道場が建てられたということだ。


「本当に、教祖の話を聞くだけで病気が治ったんですか?」

「信者たちは、そう言ってたな」


 ミナセに酒を注いでもらいながら、行商人が答えた。


「一度目の話で熱が下がり、二度目で体が軽くなり、三度目で病魔が退散する。そんな感じだったらしい」


 美女二人に見つめられて、行商人はご満悦だ。


「謎の病気が一掃されてからも、坊主は辻説法を続けた。病気が治ってからも、坊主のもとには人が集まってきた。やがて、坊主と熱心な信者たちが教団を立ち上げて、坊主は教祖となった」


 行商人の説明は流れるようだ。おそらく、エルドアではよく知られた話なのだろう。


「教祖の説法を聞いてると、とにかく幸せな気分になれるって話だ」


 フェリシアが酒を足す。

 行商人の舌が、さらに滑らかになっていく。


「特に、教団の道場で聞く説法はやばいって言ってたな。不思議な香り漂う中で説法を聞いてると、それが教祖より徳の低い弟子の話だとしても、幸福感に包まれて、自然と涙が出てくるそうだ」

「それは凄いですね」


 驚きながら、ミナセが相づちを打つ。


「そんなにありがたいお話なら、何度でも通いたくなっちゃうわよね」

「そこだよ!」


 フェリシアに向かって行商人が身を乗り出した。


「信者でない者が、説法をタダで聞けるのは最初だけ。もう一度聞きたければ、教団に入信して寄付をしなきゃならない。高位の弟子に会いたければ、多額の寄付が必要だ。教祖の話が聞きたいと思ったら、それこそ全財産を差し出すことになる」

「ちょっと怖いわね」

「そうだな。それでも説法を聞きたいって奴が増えてるってんだから、よっぽどありがたい話なんだろうよ」


 行商人が肩をすくめる。


「寄付をするために、手っ取り早く金を稼ぐ手段に走る信者がかなりいるらしい。教団が、それをそそのかしてるって噂もあるくらいだ」

「教団がそんなことを?」

「ま、あくまで噂だけどな。だけど、信者が多ければ多いほど、その町や村は荒れている。信者以外の人間は、怯えながら生きていくか、家や土地を捨てて逃げ出すかのどっちかだ」


 ミナセもフェリシアも言葉がない。

 酒を一口飲んで、行商人が続けた。


「逃げ出した連中が向かうのは、教団の影響力の少ない北東地域だ。ところが、北東地域にも信者は確実に増えている。だからみんなは、さらに北のイルカナを目指す。この国を捨てて、みんなイルカナに行っちまうのさ」


 逃げ出した民が、西でも東でも南でもなく、北を目指す。

 それは、地理的に見ても必然と言えた。


 エルドアの南には、大河が流れている。その恵みを受けて、南部地域は昔から農業が盛んに行われていた。

 河の向こうには別の国があったが、河の利用を巡って度々争いが起きていて、国同士の関係は良いとは言えない。


 国境線を兼ねるその大河は、エルドアの東端で、進路を大きく南に変える。その付近から東には、広大な荒れ地が広がっていた。

 水の確保が難しいその土地は、住む人もほとんどおらず、よって国と呼べるようなものも存在しない。エルドアの東は、国境線さえ曖昧な荒野だった。

 その荒野を越えた先にはキルグ帝国があるのだが、国土拡張を進めるキルグでさえ、西に軍を進めることはない。不毛な荒野は、エルドアにとって非常にありがたい防壁なのだ。


 エルドアの西側は、大河の源流にもなっている山岳地帯だ。山々を越えた先にはやはりいくつかの国があったが、山越えの困難さもあって、西の地域との交流は古来よりほとんどなかった。


 エルドアの民が逃げ出すとしたら、北になる。生まれた土地を捨て、国を捨てて逃げる民が向かうのは、必然的にイルカナになるのだった。


 行商人が、酒を飲む。ガブリガブリと酒を飲む。

 そして行商人は、なぜか黙り込んでしまった。

 陽気に話していたその顔に、笑みはない。わずかに残ったグラスの酒を、ただただ黙って見つめている。

 突然の変貌に驚きながらも二人は待った。


 やがて。


「多くの民が、この国に絶望している」


 行商人が話し出した。


「病気を治してくれたのは、あの坊主だ。心の平安を与えてくれるは、教団の教えだ。国は何もしてくれない。国王も、安心を与えてはくれない」


 行商人が、グラスを握る。


「それでも、これまでこの国を守ってきてくれたのは、国王なんだ」


 強くグラスを握る。


「南の国と戦争になった時、国王は、先頭に立って戦ってくださった。日照りや水害に苦しむ地域があれば、そこに駆け付けて、一人一人に声を掛けてくださった」


 グラスの酒が小さく震えた。


「重い税金を課すこともない。私腹を肥やすようなこともしない。いつだって国王は、国民のことを考えてくれていたんだ」

 

 悔しそうなその顔を、二人が見つめた。

 

「北にあるこの地方にはまだ王の威光が残っているが、残念ながら、それも時間の問題だろう」


 ため息をついて、行商人がグラスを飲み干す。


「エルドアは王の国であってほしいと、俺は思ってるんだけどな」


 空になったグラスをコトリと置いて、寂しげに行商人が笑った。

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