老人の依頼

「お母様、お薬です」


 紙に包まれた粉薬と、水の入ったコップを持って男の子が言う。

 その目は真剣で、その表情は、固かった。


 母親が目を伏せる。そっと毛布を握り締める。

 そして母親は顔を上げ、穏やかな声で言った。


「ありがとう。でも、今日はいらないわ」

「そうなのですか?」


 驚いて、男の子が母親を見た。


「最近は体調がとてもいいの。お薬はなくても大丈夫よ」

「本当に?」


 小さな瞳が心配そうに見つめる。

 その頬に、母親が優しく手を当てた。


「大丈夫。だから、お薬は置いていらっしゃい」


 暖かな手と、柔らかな微笑み。

 男の子が、安心したように笑った。


「はい!」


 元気に返事をして、男の子は薬とコップをテーブルに戻しに行く。


「さあ、今夜はどんなお話がいいかしら」


 それを聞いて、男の子が本棚へと駆け寄った。そこから一冊の本を引っ張り出すと、それを大事そうに抱えて戻ってくる。


「お母様、このご本を読んでください!」


 差し出された本を見て、母親が言った。


「これは昨日も読んだでしょう?」

「いいんです!」


 母親に本を手渡して、男の子が嬉しそうに笑う。


「仕方ないわねえ」


 男の子からそれを受け取って、母親も嬉しそうに笑った。

 ベッドに潜り込んできた男の子が、母親にぴったりと寄り添う。

 その髪を優しく撫でてから、母親が本を開く。


「昔、あるところに……」


 物語が始まった。

 男の子が目を輝かせ、母親が微笑む。

 部屋の片隅に控えていたメイドが、気付かれないように、そっと部屋を出ていった。



「初めまして。社長のマークと申します」

「マークさんか。すまんの、こんな時刻に」


 マークと向かい合って座る老人は、思いのほか丁寧に答えた。

 だが。


「わしのことは、差し当たり”謎のじじい”とでも呼んでくれ」

「……」


 さすがのマークも黙り込む。


「だけどじいさん、大会のプロフィールにはたしか名前が……」

「ありゃあ偽名だ」


 ヒューリが呆れたように老人を見た。


「ちなみに”拳士”という職業も、適当に書いたものじゃ。実際、わしは足も使うからの」


 ほかの社員たちも唖然としている。


「では、ご老人。早速ですが、ご用件を承りましょう」

「ふむ」


 どうにか言葉を絞り出したマークに、老人が頷いた。


「じつはの、ある要人の護衛を、おぬしたちに頼みたいのだ」

「護衛ですか?」

「そうじゃ。その方は、今エルドアにいらっしゃる。その方を、コメリアの森までお送りしてほしいのだ」


 老人の声は軽い。だがその依頼内容は、簡単に引き受けてよいものとは思えなかった。

  

 イルカナの南にある王国、エルドア。古来より穀物や果物の産地として栄えてきた、長い歴史のある国だ。昔からイルカナとの関係は良好で、両国の間では、経済面や文化面などさまざまな形で交流が行われていた。

 国民たちはみな穏やかで、大陸の中でも類を見ないほど治安がよい。内戦や内乱もなく、建国以来その地を治める王家においては、後継者争いさえ起きたことがなかった。


 そのエルドアが、ここ数年、国内の混乱に苦しんでいた。

 あれほど良かった治安は悪化し、悪党がはびこり、善人は脅えながら暮らしている。統治機構はもはや機能しておらず、王都とその周辺だけがかろうじて秩序を保っている状態だ。

 エルドアに支店を持つファルマン商事が本気で撤退を検討しているほど、エルドアの状況は深刻だった。

 ゆえに。


「エルドアの要人とは、どのような方なのでしょうか」


 慎重にマークが聞いた。


「そこは、聞かないでいただきたい」


 トボケた顔のままで、老人が答えた。

 すると。


「では、お断りいたします」


 驚くほど冷たい言葉がマークの口から出た。

 社員たちが、一斉にマークを見る。

 老人の眉が、ピクリと跳ねた。


「金はいくらでも出す。必要なら前払いでも……」

「お断りします」


 老人の言葉を、マークがばっさり断ち切った。


「護衛をする方の立場や状況、国外に出る理由、そのすべてを把握できなければ、対策が立てられません。引き受けることができるかどうかの判断もできません。あなたのことを信用することもできません」


 老人を見据えてマークが言う。


「護衛に危険は付き物です。それでも、何が起こるかまったく予測できないような仕事を、うちの社員にさせることはできません。そして何より」


 強い意志を込めて、マークが言った。


「俺たちは、金では動きませんよ」


 はっきりとマークは言い切った。


 老人がマークを見つめる。

 その黒い瞳を、老人がじっと見つめた。


 ふいに。


「すまんかった」


 老人が頭を下げた。そして、ゆっくりと顔を上げる。

 その表情は、それまでとはまるで別人だった。

 その顔は、真剣で気迫に満ちていた。


「護衛をしてもらいたい方の名は、アルバート様」


 続く言葉に、社員たちは目を見張った。


「エルドアの、次期国王となられるお方だ」

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