幕間-家路-

家路

「逃げろ!」


 言われても、少年は動かない。


「何してるの、逃げるのよ!」


 それでも、少年は動けなかった。

 揺らめく炎、怒号と悲鳴。そして、吹き上がる血潮。


 少年は泣いた。

 少年は、赤い色が、嫌いになった。



「止まれ!」


 言われても、少年は止まらない。


「このクソガキが!」


 追い付かれて、少年は引きずり倒される。

 髪を掴まれ、殴られて、盗んだパンは取り上げられた。


 少年は泣かなかった。

 少年は、この世界が、心の底から嫌いだった。



「覚悟はできてるんだろうなぁ?」


 問われても、少年は答えない。


「やっちまえ!」


 襲い掛かってくる連中を無言で睨み、拾った角材を振り上げる。

 殴り、折れた角材で突き、容赦なく相手を倒していく。


 少年は無表情だった。

 少年は、なぜ自分が生きているのか、分からないままに生きていた。



「突撃!」


 上官の声にも、男の感情は動かない。


「わあああぁ!」


 走りながら、恐怖を振り払うように叫ぶ仲間たちを冷めた目で見る。

 斬り、突き、殴り、蹴り倒して、男は今日も生き残った。


 男は空っぽだった。

 それでも男は、何かを探して生きていた。



「何やってんだ、この役立たずが!」


 平手打ちをくらって床に倒れ込む女を、男は黙って見ている。


「あんなことされても、あの子、表情一つ変えないぜ」

「目の前で両親を殺されて以来、ずっとあんな感じなんだとよ」

「客商売には向かないだろ、あの子。この店、そんなに人手不足なのか?」


 ヒソヒソと話す客の間から、男が立ち上がった。

 そのまま店主の前に行って、無造作に袋を突きつける。


「こいつは、俺が買う」


 驚く店主を無視して、男が女に言った。


「お前は、今日から俺のものだ」


 一瞬だけ感情を見せて、だが女は、小さく答えた。


「分かりました」


 男は、何も言わずに女を見ていた。

 それでも男は、何かを見付けたような、そんな気がしていた。



「お食事ができました」


 女の声で、男は席に着く。


「今月の給金だ」


 テーブルの上に金を置いて、男が言った。


「……ありがとうございます」


 視界の片隅で、女が頭を下げている。

 その姿も、その言葉も、男は気に入らなかった。

 自分の態度も自分の言葉も、どうしようもなく男は気に入らなかった。



「あなたはもっと、笑うべき」


 少女に言われて、男が反論する。


「お前だって笑ってないだろうが!」


 周りのみんなも驚いていたが、男も驚いていた。

 少女の言葉に反応した自分に、心の底から驚いている。


 男に言われて、少女は笑った。

 だから、仕方なく男も笑った。

 あまりにぎこちない笑顔。

 遠い昔、炎と血の中に置いてきたはずの笑顔。


「あなたは、頑張った」


 言われて男は、横を向いた。


「あなたは、えらい」


 言われて男は、自分にも感情があることに気が付いた。


 そして男は、笑った顔が見てみたいと、そう思った。



 ガラガラガラ……


 馬車は、国境を越えてカサール領内に入っていた。

 だからなのだろうか。目を閉じていただけのはずなのに、いつの間にかまどろんでいたようだ。


 男が目を開けた。

 男の前には、女がいた。

 女は刺繍をしている。時間があると、女はいつも、針と糸を取り出しては何かに刺繍をしていた。


 そんなに面白いのかと訊ねたら、そうでもないと、女は答えた。

 なぜ刺繍をするのかと訊ねたら、分かりませんと、女は答えた。


 止めさせる理由はなかった。だから家の中は、女が刺繍を施したもので溢れている。

 ハンカチやタオル、テーブルクロスにシーツ。そして、男の服。


 使うものにも着るものにも関心はない。

 刺繍があろうと無かろうと、タオルはタオル、服は服だ。

 だが、男はいつの頃からか、手に取る前にそれを探すようになっていた。

 男は、いつの頃からか、必ずそれを確認するようになっていた。



 ガラガラガラ……


 馬車は走る。

 女が、刺繍を続ける。


「なぜお前は、俺のところにいるんだ?」


 唐突に男が聞いた。

 女が手を止めた。少し驚いているようだ。

 男を見つめ、目を伏せて、女が答える。


「それは、旦那様が、私を買ったからです」


 その通りだ。それが事実。

 だが、男は不満だった。どうして不満だと思ったのか、男には分からなかった。


「ならば、お前は命令に従う必要がある」


 ざわつく心のまま、男が言った。

 

「今、ここで笑え」


 女は、今度は本当に驚いていた。

 男の顔は、驚くほどこわばっていた。


 ガラガラガラ……


 馬車は走る。

 無言の二人を乗せて走り続ける。


 やがて、女が言った。


「では、旦那様が笑ってくださったなら、私も笑ってみせましょう」


 男が目を見開く。

 男が目をそらす。

 男が両手を握り締める。


 そして男は女を見た。

 そして男は……。



 ガラガラガラ……


 馬車は走る。

 穏やかな日差しの中を、二人の家に向かって真っ直ぐに走っていった。




 家路 了

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