秘伝と秘密
「あの子!」
誰かが叫んだ。その声と、店長たちの視線で男が気付く。
後ろを向いて、男はまた動かなくなった。
月明かりのように神秘的なブルーの瞳。
人形のように美しく整った顔立ち。
サラサラでキラキラな空色の髪。
男の目の前には、一人の美少女がいた。
「てめぇがやったのか?」
かろうじて男が声を絞り出す。
突然起きた信じられない出来事と、突然現れた美少女の存在に、男の頭は混乱を極めていた。
発動した魔法が消える。それは、この世界の常識ではあり得ないことだ。
術者が発動を途中で止めるとか、発動に失敗するとかであれば分かる。だが、男のファイヤーボールは完成していた。そして男は、まさにそれを放とうとしていたのだ。
男がじっと少女を見つめる。
その男に向かって、少女が言った。
「あなたが買ったのは、クッキー。なら、同じクッキーで、手を打つべき」
「……」
冷静な言葉に、男は返す言葉がない。
「あなたの行為は、違法。これ以上ごねるなら、衛兵さんに通報する」
恐れ気もなく少女は言い切った。
「それと」
少女が一歩下がる。
そして。
「あなたの香水、くさい」
少女が顔をしかめた。
店長たちが、口をあんぐりと開けた。
「てめぇ!」
男の怒りが爆発した。
小柄な少女に向かって拳を振り上げる。
「ふざけんな!」
混乱した頭に血が上っていく。
冷静さを欠いたまま、男は、振り上げた拳を少女に向かって叩き付けた。
「あっ!」
店員たちの声が響く。
直後。
ダーンッ!
「ぐはっ!」
拳をきれいにかわし、懐にするりと滑り込んだ少女が、鮮やかな投げで男を床に叩き伏せた。
そのまま流れるように、男の腕をとって捻り上げる。
「いてててっ!」
苦痛で顔を歪める男の背中に片膝を載せて、少女はふぅっと息を吐き出した。
美しく整ったその顔には汗一つ浮かんでいない。ブルーの瞳は神秘的なままで、怒りも焦りも感じられない。
まさにあっという間に、少女は男を制圧していた。
「速い!」
店長が驚嘆の声を漏らす。
引退して久しいとは言え、店長はもと傭兵。その店長の目をもってしても、少女の動きを完全に捉えることはできなかった。
声もなく少女を見つめていた店長が、やがてゆっくりと立ち上がる。そして少女に歩み寄ると、微笑みを浮かべながら言った。
「助かったよ、ありがとう」
大きな体を折り曲げて、少女にきっちり頭を下げる。
少女が店長を見上げた。その瞳を見つめ返して、店長が聞いた。
「お嬢ちゃん、名前は?」
少女が答えた。
「シンシア。エム商会の、シンシア」
「なにっ!?」
押さえ込まれている男の肩が、ピクリと震えた。
「エム商会!」
「無敵のエム商会!」
「美人揃いのエム商会!」
途端に様々な声が聞こえてくる。
「なるほど」
「それなら」
「納得だな」
それぞれが、それぞれに頷いていた。
以前から、何かと噂の的だったエム商会。突然の休業で町の話題を総なめにしたかと思えば、今度は待望の営業再開で、さらにその名をアルミナ全域に知らしめていた。
直接は知らずとも、エム商会の名を知らぬ者は、もはやこの町にはいない。
「そうか。お嬢ちゃんは、エム商会の社員なのか」
店長も大きく頷く。
「何にせよ助かった。お礼に、うちの商品の中から好きなやつを何でも持っていってくれ」
満面の笑みの髭面が、ご機嫌に言った。
すると。
「お菓子は、いらない。そのかわり」
シンシアが答えた。
「お菓子の作り方を、教えて欲しい」
真剣な表情で、店長に言った。
「……は?」
店長がポカンとする。
シンシアが、もう一度言った。
「私に、お菓子の作り方を、教えて欲しい」
真っ直ぐに店長を見つめて、シンシアは繰り返した。
店長が、コホンと一つ咳払いをする。
「お嬢ちゃん。残念ながら、それはできないよ。お菓子の世界は男の世界。師から弟子へと技を受け継ぎ、味を守っていく。レシピは、家族にさえも知らせることはしない。菓子作りは職人の世界なんだ」
なだめるように店長が言った。
この世界において、お菓子は職人が作るものだった。しかも職人になれるのは、伝統的に男のみ。
材料のほとんどは町で買えるし、凝ったものでもない限り作り方もそう難しくはないのだが、レシピが門外不出ということもあって、クッキーのような簡単なものでさえ一般家庭では作られていない。
普通の人たちにとって、お菓子作りは未知の世界。庶民にとって、お菓子は贅沢品だったのだ。
シンシアが黙る。目を伏せて考える。
やがて。
「教えてくれないなら、この男を解放して、私は店を出ていく。どうなっても、もう私は助けない」
「おいおい」
呆れたように店長が言った。
「私は本気。どうなっても知らない。私は何もしない」
店長を睨みながら、低い声で続ける。
「店員さんとお店を守りたいなら、私に作り方を教えるべき。それが最前」
ブルーの瞳は、神秘的な輝きを失っていた。
美しく整ったその顔は、驚くほど強張っていた。
「この子もクレーマー?」
誰かがつぶやく。
シンシアの言い分は、床に押し付けられている男と大して変わらなかった。まったくもって意味不明な主張だった。
店長がシンシアを見つめる。呆れ顔だったその表情が、真剣になる。
「どうして、そんなに作り方が知りたいんだ?」
店長が聞いた。
「お礼が、したいから」
シンシアが答えた。
聞いた店長も、答えたシンシアも、それきり何も言わない。
余裕のない瞳と、静かな瞳が見つめ合う。
ふと。
「お嬢ちゃん。さっき、こいつの魔法を消したよな?」
唐突に店長が問い掛けた。
「……消した」
シンシアが、目をそらしながら答えた。
急に慌て出したシンシアに、店長が言った。
「お嬢ちゃんがどうやって魔法を消したのかを教えてくれたら、菓子の作り方を教えてやってもいい」
「!」
思わぬ申し出に、シンシアは目を見開いた。
「他人が発動した魔法を消すなんて、見たことも聞いたこともない。そんなことは、普通あり得ない。だが、お嬢ちゃんはそれをやった」
店長の言葉は続く。
「その方法を、俺は知りたい。お嬢ちゃんには、何か特別な力があるんだろう?」
「……」
「菓子のレシピは秘伝。だから、お嬢ちゃんの秘密と交換なら、教えてやる」
もと傭兵だからなのか、それとも単なる好奇心なのか。店長は、真剣にシンシアを見つめていた。
シンシアは黙る。目を伏せて考える。
やがて。
「誰にも言わないなら、教える」
シンシアが、真っ直ぐに店長を見た。
「誰にも言わん」
店長が、真っ直ぐにシンシアを見つめ返した。
またもや沈黙。
そして。
「なら、教えてもいい」
「よし、取引成立だ!」
にかっと笑って、店長が右手を差し出した。
男の腕を解放して、シンシアがその手を握る。
「絶対に、秘密にして」
「お嬢ちゃんも、レシピは誰にも言うなよ」
「分かった」
がっちりと二人が握手を交わす。
弟子たちが呆れている。
男は、腕も体も痺れてしまって動けない。
何とも奇妙な光景の中で、店長とシンシアだけが、満足そうに微笑んでいた。
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