夜を越えて

 毛布を被って、ミアはソファで横になる。お腹の上には、あの箱が載っていた。

 パンとお菓子がぎっしり詰まったその箱を抱えながら、ミアは天井を見上げている。


 マークが言っていた通りだった。きっと夫人は、つらく苦しい日々を過ごしていたに違いない。そして、この箱を私に預けてしまった以上、今夜夫人は大変な思いをすることになるだろう。


 私が夫人を励まさなきゃ

 私がこの箱を守らなきゃ


 首をもたげてベッドを見れば、眠るイザベラの横顔が見えた。


 よし、頑張るぞ!


 決意を新たに、ミアは目を閉じる。そしてミアは、眠りについた。いつでもどこでも眠れる特技を発揮して、公爵夫人の寝室でさえも、ミアはすんなり夢の世界へと落ちていった。



 夜更け。


 苦しい……


 息苦しくて、ミアは目を覚ました。気が付けば、ミアはあの箱を胸の上で強く抱き締めていた。

 それほど重くはないが、大きさはそれなりにある。そんな箱を抱き締めていれば、苦しくなるのも当然だ。


 脇に置いちゃおうかな

 でも、夫人が起きてきて箱を見付けたら、誘惑に勝てないかもしれないし……


 寝ぼけた頭で考える。とりあえず箱をお腹の上に移動させるが、一度自覚してしまった息苦しさが収まることはなかった。


「うぅ」


 小さな唸り声を上げながら、ミアが起き上がる。片手で箱を抱え、片手で目をこすりながら、ミアはベッドに視線を向けた。

 すると。


 夫人がいない?


 ミアの意識が一気に覚醒へと向かう。

 見れば、窓もカーテンも開いていて、月明かりが部屋の中に差し込んでいた。


「夫人!」


 ミアがイザベラを呼ぶ。部屋の中を慌てて見回す。

 すると。


 ガタン!


 音がした。ベッドの向こうだ。


「夫人!」


 飛び起きたミアは、箱をソファに投げ出すと、音のした場所へと走った。

 駆け寄ったミアは、すぐにイザベラを見付けた。イザベラは、ベッドの横のチェストの前で、床にペタンと座り込んでいた。


「大丈夫ですか!?」


 問い掛けたミアが、目を見開く。

 イザベラは、泣いていた。


 そのイザベラの、目の前。


 薄明かりの中に、ミアは見た。

 床に転がる、ふたの開いた宝石入れ。


 月明かりの中で、ミアは見た。

 床に散らばるいくつかの宝石と、床に散らばる、たくさんのクッキー。


「星を、数えてみたのです」


 イザベラが泣く。


「部屋の中を歩いてもみたのです」


 イザベラが、ボロボロと涙をこぼす。


「でも、長いのです。夜が、途方もなく長い。わたくしには長過ぎる……」

「夫人!」


 ミアがイザベラを抱き締めた。


「どうしたらいいのですか? わたくしは一体、どうしたら……」

「夫人!」


 両手を震わせながら、イザベラは泣く。

 イザベラを抱き締めながら、ミアは泣く。


 この夜イザベラは、疲れ果てて眠るまで、床の上で泣き続けた。

 この夜ミアは、何も言わずに黙ったままで、イザベラの肩を抱き続けた。

 開け放たれた窓の向こう側で、一つの影が、二人をそっと見守っていた。



「今夜も参ります」


 侍女にそれだけ言って、ミアは翌朝屋敷を出ていった。

 侍女は、何も言わずにミアを見送った。


 その日から三週間、ミアは毎夜屋敷を訪れ、ベッドの脇で、イザベラの手を握ったまま眠った。

 その日から三週間、イザベラは大きなベッドの端で横になり、ミアに手を握られたまま眠った。


 日々が過ぎていく。

 夜が過ぎていく。


 そしてその日は来た。契約の最終日。


「二人には世話になりました」


 穏やかにイザベラが言って、目配せをする。侍女が小さな袋を持ってきて、二人の目の前で紐を緩め、中身を見せた。

 フェリシアが、一礼してそれを受け取る。袋の中身は銀貨だ。数えてはいないが、おそらくは契約通りの金額が入っている。


「夫人……」


 フェリシアの隣で、顔を伏せたままのミアが、小さな声で言った。


「私たちは、お約束を……」


 ミアが拳を握り締める。瞼をギュッと強く閉じる。閉じた瞼の裏側には、あのドレスが映し出されていた。

 イザベラの寝室にあったドレス。ベッドで寝ていても、横を向けば見えるところに飾ってあったあのドレスだ。

 おそらくイザベラは、あれを娘の結婚式で着たかったに違いない。ボディラインは緩やかで、普通のドレスよりはずっとゆったりしていたが……。


「申し訳ありません」


 ミアが頭を下げた。強く目を閉じたまま、イザベラに詫びる。

 隣のフェリシアも、一緒に頭を下げた。何も言わずに黙って頭を下げる。

 ふと。


「ミア」


 声がした。


「顔を上げなさい」


 ミアが、顔を上げた。

 ミアの目に写るイザベラの姿。ひと月半前に比べれば、その体は間違いなく細くなっている。顎のラインもすっきりしているし、何より顔色が明るくなった。

 でも、あのドレスはきっと……。


「寝室にあったドレスね、あれは、わたくしが嫁いで来た時に持ってきたものなの」


 イザベラが話し出した。


「さすがに若い頃みたいには戻れないだろうと思ってね、ゆったりとした形に直してもらったのだけれど、それでも少し、無理があったわね」


 穏やかに言葉は続く。


「あれを着ることが、わたくしの目標だった。あの頃の自分に戻ることが、わたくしの目標だったの」

「夫人!」


 たまらずミアが声を上げる。

 ミアは、もう話を聞いていられなかった。


「本当に申し訳ありませんでした!」


 ソファから立ち上がって、ミアが叫ぶ。

 深く深く頭を下げて、ミアは叫んだ。


 力が及ばなかった。自分は無力だった。

 イザベラの気持ち、イザベラの状態に気付けなかった最初の三週間が、成否を分けた。そこに気付けなかった自分が無性に腹立たしかった。


 肩が震える。拳が震える。

 ミアの心が、大きく震えていた。


 突然。


 ふわり


 頬が包まれた。暖かな手のひらが、ミアの頬を包み込む。

 驚くミアの目の前、驚くほど近いところに、イザベラがいた。


「ミア」

「はい」


 顔を上げて、ミアが答える。


「あなたは、本当にいい子ですね」


 イザベラが微笑んだ。


「今回は着ることができなかったけれど、わたくしの人生にはまだ先があります。いつかあのドレスが着られるように、わたくし、これからも頑張るつもりよ」


 初めて見るイザベラの表情。

 それは、とても穏やかで、とても優しい微笑みだった。


「夫人……」

「あなたと出会えて、本当によかったわ。本当に、ありがとう」


 ミアは泣いた。ポロポロと涙を流しながら、ミアは泣いた。

 フェリシアがうつむく。侍女がくるりと後ろを向く。


 高ぶる感情、溢れる想いの中で、イザベラだけが微笑んでいる。ミアの涙をハンカチで拭いながら、穏やかにイザベラは微笑んでいた。



 珍しく門まで見送りに来た侍女に向かって、フェリシアが挨拶をする。


「お世話になりました」


 お辞儀をするフェリシアに、侍女はまったく反応しない。


「では、失礼いたします」


 心の中で苦笑して、フェリシアは門を出た。ミアも、ぺこりと頭を下げて後に続いた。

 二人が門を離れていく。その背中を見送る門兵が、隣を見て目を丸くした。

 侍女が、頭を下げている。二人の背中に向かって、深く頭を下げていた。


 門兵は、何も事情を知らなかった。あの二人がよく来るようになった理由も、ミアが毎晩やって来るようになった理由も知らされてはいない。

 それでも門兵は、頭を下げた。侍女と並んで、二人の背中に頭を下げる。道行く人がそれを見て、不思議そうに首を傾げていた。



 歩きながら、ミアが大きく深呼吸をしている。


 すぅー、はぁー

 すぅー、はぁー


 二度三度と深呼吸をして空を見上げる。

 そして、空を見上げたまま大きな声で言った。


「私、この仕事やっててよかったです!」


 笑いながら、ミアが言った。

 その笑顔を隣で見つめ、ふぅと小さく息を吐いたフェリシアが、表情を引き締めてミアに言う。


「ミア。あなた最近、自分の顔を鏡で見てる?」

「えっ? えっと、いちおうは……」

「それなら分かるでしょ。あなた、目の下に隈ができてるわよ」

「あははは……」


 頭を掻くミアを、フェリシアが本格的に叱り出した。


「いい、ミア。お客様のためだからって、いくら何でも今回はやり過ぎよ。毎晩毎晩お屋敷に泊まって、次の日もそのまま別の仕事に行くだなんて」


 立ち止まり、ミアを睨み付けてフェリシアが話す。


「社長が心配していたわ。ううん、社長だけじゃない、みんながあなたのことを心配していたのよ?」

「すみません」

「すみませんじゃないわよ! ほんとにあなたってば……」


 ここぞとばかりにミアを叱っていたフェリシアが、ふと黙った。

 ミアが、いつものミアらしからぬ神妙な面もちをしている。


「私、反省しました。みんなに心配掛けて、それなのに結果も出せなくて」

「そ、そうね」


 あまりに真剣なその顔に、フェリシアの勢いが止まる。


「でも」


 ミアが、顔を上げた。


「私、今度のことで、ちょっとは成長したような気がするんです。だから私、次はもうちょっと上手にやれるんじゃないかって思うんです」


 深刻そうに見えたその顔には、まるで違う表情が浮かんでいる。

 ミアの顔は、やる気に溢れていた。

 その目には、やる気がみなぎっていた。


「フェリシアさん。私、頑張ります! ちゃんと成果を出して、ちゃんとお客様に喜んでいただけるように、もっともっと頑張ります!」


 金色の瞳が煌めく。

 ブロンドの髪が揺らめく。


 この子ったら、ほんとに……


 フェリシアが、呆れたようにミアを見る。

 見つめ続けて、だが、ふいにフェリシアが笑った。


「そうね。もっと頑張って、もっともっと成長しなくちゃね」

「はい!」


 元気いっぱいのミアをフェリシアが見つめる。

 元気いっぱいに笑っているミアを、フェリシアも笑いながら見つめていた。


「ところで」


 急にまじめな顔になって、ミアが心配そうにフェリシアを見た。


「フェリシアさん、最近自分の顔を鏡で見てますか?」

「えっ? ど、どういうこと?」

「フェリシアさん、目の下に隈ができてますよ」

「なっ!」

「フェリシアさんも、あんまり無理はしない方がいいと思いますけど」

「……」


 フェリシア絶句。


「あ、そうだ! 社長、この仕事が終わったら、好きなものをご馳走してくれるって言ってましたよね!」

「……」

「よーし、今日も一日頑張って、今夜は社長のおごりで思いっきり食べるぞー!」


 そう言って、ミアは走り出した。


「まったく、あなたってば」


 フェリシアが呆れる。

 フェリシアが、笑う。


「こらっ、待ちなさい!」


 ミアを追って、フェリシアも走り出した。

 逃げる背中を追い掛けながら、とても楽しそうに、フェリシアは笑っていた。



 第十二章 了

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