箱
「忘れ物を取りにきました!」
ちょうど開いた門の隙間に、ミアが飛び込んだ。
「あっ、こら!」
門兵が慌ててミアを追う。
そこは、カミュ公爵邸の裏門。屋敷に通うようになって以来、ミアはいつもこの門から出入りをしていた。
「忘れ物です! 見逃してください!」
「だめだ! ちゃんと取り次ぎを……」
よく分からないことを言うミアに、走りながら門兵が叫ぶ。
ミアのことは、すでに警備の兵士全員が知っている。フェリシアとミアのどちらが好みかで、密かに盛り上がっていたりもした。だからほかの兵士たちは、走るミアとそれを追う仲間を見ても、即座に動けなかった。
すでに日は落ちているが、屋敷の明かりで敷地内は明るい。ミアは、迷うことなく屋敷の裏口へと走った。
裏口は、使用人の出入り口だ。この時間なら鍵は掛かっていない。
「待て!」
門兵の制止を無視して、ミアが扉を開けた。それを見て、さすがにほかの兵士たちも動き出す。
ピィー! ピィー!
侵入者を知らせる笛が鳴った。バタバタと走り出す音がする。しかし、時すでに遅し。
フェリシアとはまったく異なる方法で、ミアは見事に屋敷への侵入を果たしたのだった。
「こんばんは! 忘れ物です!」
ミアは走る。驚く使用人に謎の言葉を掛けながら、ミアが屋敷の中を駆け抜ける。
「待て! 頼むから待ってくれ!」
門から追い掛けてきた兵士が叫ぶ。
意外なほどの足の速さと、意外なほどの体力を見せつけるミアに、兵士はついていくのがやっとだ。軽武装とは言え、防具を着込んでいるのも完全にハンデとなっている。
「誰かそいつを止めてくれ!」
夜間であれば警備の兵が屋敷内にもいるのだが、この時間はまだ使用人たちしかいない。
「こんばんは!」
ちゃんと挨拶をしながら走るミアを、誰もが呆然と見送るのみだった。
「何の騒ぎですか?」
浴室から私室に戻る途中のイザベラが言った。
「さあ、何でございましょう?」
侍女が首を傾げる。
その時。
「侵入者!」
叫ぶ声。
「忘れ物です!」
どこかで聞いた声。
ダダダダダッ!
荒々しい足音が近付いてくる。
「イ、イザベラ様!」
決死の表情で、侍女がイザベラの前に立った。その目が、思い掛けない人物の接近を捉えた。
「夫人!」
ミアが叫ぶ。
「待て!」
兵士が叫ぶ。
「あなたは!」
侍女が叫んだ。
顔を引き攣らせる侍女の前で、ミアが急停止する。
「あのっ!」
次の瞬間。
「おとなしくしろ!」
背後から兵士がミアを押し倒して、そのまま腕をねじ上げた。
「ちょっと! ハァハァ……やめて……ハァハァ……ください!」
「うるさい! ハァハァ……お前が……ハァハァ……悪いんだろ!」
ゼェゼェ言いながらミアがもがく。汗をびっしょりかきながら、兵士がミアを押さえ込む。
そこにようやくほかの兵士も駆け付けてきて、とうとうミアは完全に捕まってしまった。
「一体何事ですか!」
まなじりを上げる侍女に、兵士が答える。
「はっ! こいつが突然訪ねてきて、制止も聞かずにお屋敷の中へ……」
「侵入を許したのですね?」
「申し訳ありません」
侍女の言葉に、兵士たちはうなだれた。
公爵の命令で、最近警備を強化したばかりだ。それなのに、いくら見知った人物とは言え、イザベラの目の前に来るまで侵入者を捕らえられなかった。
カミュ公爵は国内の視察に出ていて不在だったが、このことが公爵の耳に入れば、比喩ではなく数人の首が飛ぶだろう。
ミアを押さえつける兵士たちの顔は、一様に暗かった。
そこに。
「その子を放しなさい」
静かな声がした。
「はっ! しかし……」
「その子は、わたくしを訪ねてきただけです。侵入者ではありません」
「えっ?」
「イザベラ様!」
兵士たちが、呆然とイザベラを見つめる。侍女が、憤然とイザベラを睨む。
その目を一つ一つ見つめ返して、イザベラが言った。
「その子を呼んでいたのを、わたくしが皆に伝え忘れていました。ですから、これはわたくしの落ち度です」
「そ、そうなのですか?」
「そうです。ですから、この件を公爵に報告する必要はありません。報告をすれば、わたくしが叱られてしまいます」
いつも通りの無愛想な顔で、淡々とイザベラは話す。
兵士たちの顔に、安堵の色が浮かんだ。
「そういうことであれば、我々としては……」
そんな曖昧なことを言いながら、兵士たちがミアを解放する。
起き上がったミアは、驚きで、ただイザベラを見つめるのみだ。
「皆、ご苦労でした。仕事に戻ってください」
「はっ!」
侍女の厳しい視線を無視して、イザベラが兵士たちに告げた。
「失礼いたしました!」
揃って敬礼をした兵士たちが、ぞろぞろとその場を去っていく。
「あなたも、このことは黙っていてください」
「ですが……」
「心配せずとも、この子がわたくしに危害を加えることはありません」
釈然としていない侍女の隣で、ミアが一生懸命首を縦に振っている。
「ミア、こちらに来なさい。とりあえず、お茶でも飲みましょう」
そう言ってイザベラは歩き出した。ミアも慌ててついていく。
はぁ
後ろから、侍女の大きなため息が聞こえた。
テーブルにカップを置いた侍女は、イザベラを心配そうに見つめた後、黙って部屋から出ていった。イザベラは、侍女を一切見ることをしない。
イザベラの私室で、ミアはイザベラと向かい合ってソファに座っていた。
「それで、どのようなご用件なのかしら?」
表情を変えることなくイザベラが問う。先ほどの寛大な措置と、今の無愛想な顔がどうにも噛み合わない。
問われたミアは、焦った。勢いでここまで来てしまったものの、イザベラに何をどう伝えればいいのか、じつは何も考えていない。
「えっと……」
ミアは困った。
「その……」
イザベラが黙っているのが余計にプレッシャーだ。
ミアの頭に血が上っていく。ますます何を言えばいいのか分からなくなる。それでも、ミアは何とか答えた。いろんな思いを全部まとめて、唐突に言った。
「今夜、一緒の部屋で寝てもいいでしょうか!」
さすがのイザベラも目を丸くする。感情らしいものを、初めてその顔に浮かべた。
「なぜ……」
「理由を考えてはいけません!」
ミアはやけくそ気味。自分の言葉に自分で呆れるが、もう後戻りはできない。
「お願いします!」
立ち上がって、ミアは思い切り頭を下げた。理由なし、意味不明、あまりに無理なお願いを押し通すべく、全力で頭を下げ続ける。
修行の成果はここにも出ていた。おでこが膝にくっつくほどの姿勢を維持したまま、ミアは待つ。イザベラの答えを、その妙な姿勢のままでじっと待った。
やがて。
「いいでしょう」
「いいんですか!?」
ガバッと頭を上げたミアが、思わず叫んだ。頼んだ本人もびっくりの答えだった。
「あなたは、若い頃のエレーヌに似ているわ」
イザベラが言った。
「あの子は真っ直ぐだった。真っ直ぐに幸せを追い掛けて、ちゃんとそれを手に入れた」
「あの……」
戸惑うミアに、イザベラが微笑みを見せる。
それは、イザベラが初めて見せた微笑み。ミアが初めて見た微笑み。
だがその顔は、なぜだかとても寂しそうに、ミアには見えた。
「いらっしゃい」
ゆっくり立ち上がって、イザベラが隣の部屋へと歩き出す。そこは寝室。開いた扉の向こうに大きなベッドが見えた。
躊躇うミアを、イザベラが招く。
「さあ」
「はい……」
ミアは、恐る恐る寝室に入った。
部屋に入った瞬間、ミアの目に一着のドレスが飛び込んでくる。洋服をディスプレイする時に使われるトルソーに着せられたそのドレスは、弱いランプの明かりの中から静かにこちらを見ているようだった。
「こちらへ」
ミアの視線に気付いたイザベラは、しかし何も言わずに、ベッドではなく向かいのクローゼットへと近付いていく。そして、引き出しの一つを開けると、洋服を数枚取り出して、それを床の上に置いた。
「夫人、何を?」
困惑したまま、ミアはその動作を見守る。するとイザベラは、引き出しの奥から一つの箱を取り出した。それを持って、ミアの前にやってくる。
「これは?」
首を傾げるミアの前で、イザベラが、箱を開けた。
「あっ!」
思わずミアが声を上げる。
「この部屋の掃除を担当しているメイドの一人に、内密に頼んでいるのです」
イザベラが話し出した。
「毎朝”空になった”この箱をここから取り出して、夜までに”いっぱいにして”戻しておいてくれるようにと」
静かな声で、イザベラは語る。
「最初の日から、三日ほどは大丈夫だったのです。でも……」
そう言って、イザベラはうつむいた。その視線は手元の箱に向けられている。だが、その目はおそらく箱を見ていなかった。
イザベラの瞳が悲しげに揺れ始めた。
「あの夜は、途方もなく長かった。星の数を数えても、部屋の中をいくら歩き回っても朝がやってこない。時が止まってしまったのではないかと思うほど、その夜は長かったのです」
イザベラが、箱を強く握り締めた。
その手が震えるほど強く握り締め、そして、その手を緩める。
「この箱は、もともと隣の部屋にあったものでした。頂いたまま放っておいたこれを、わたくしはその夜、開けました」
イザベラの告白を、ミアが聞く。呼吸をすることも忘れ、黙ったままで、ミアはイザベラの声を聞いていた。
「次の日から、わたくしは、箱のことをメイドに頼むようになりました。長い夜は、来なくなりました。かわりに、苦しい日々がやってきました」
イザベラの顔が歪んでいく。
「わたくしは、あなたがたに会うのが苦痛でした。娘に会うのが苦痛でした。人に会うのが苦痛でなりませんでした」
溢れ出す感情は何に向かっているのか。それは、間違いなくミアにではなかった。それなのに、息が苦しくて、ミアは泣き出しそうになる。
イザベラが、ミアを見た。泣き出しそうなミアを見て、少しだけ目を見開きながら、そのままミアを見つめ続ける。
そして、小さく息を吐き出すと、弱々しく微笑んだ。
「あなたが突然やってきた時に思ったのです。じつはあなたは、このことに気付いているのではないかって」
「あ、いえ……」
曖昧に答えるミアに、今度こそイザベラがちゃんと微笑む。
「いいのです。これですっきりしました」
そう言って箱を閉じると、イザベラはそれをミアに差し出した。
「これは、あなたに差し上げます。どうか受け取ってください」
「でも……」
躊躇うミアに、箱を押し付ける。
「わたくしは決心しました。もう遅いかもしれないけれど、改めて頑張ってみたいと思います」
「夫人……」
きっぱりと言い切ったイザベラを見つめ、箱に視線を落としたミアは、それをしっかりと受け取った。
「分かりました」
「ありがとう」
礼を言うイザベラは、だがいまだその瞳に不安を湛えている。
「もう一つ、お願いをしてもいいかしら?」
「はい、何でしょうか」
「やっぱり今夜は、この部屋に泊まってくださらない?」
意外な願いだった。ミアが、目をパチパチさせて聞き返す。
「でも、この箱が無くなったのなら……」
「お願いよ」
イザベラの声は切実だ。
少しの間考えていたミアが、頷きながら答える。
「分かりました。今夜はご一緒させていただきます」
「ありがとう」
ホッとしたようにイザベラが笑った。翳りを残すその顔に、ミアも笑って返した。
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