嫉妬
呼びつけておいて長く待たせるのは、偉い人たちがよくやりたがることらしい。たっぶり一時間近く経ってから、あの侍女がやってきた。
「イザベラ様がお会いになります。ついていらっしゃい」
相変わらずの目線で二人を促して、侍女が歩き出す。
ぷくぅ
ミアの頬が膨らんでいく。フェリシアは、苦笑しながら侍女の後ろを歩いて行った。
二人が案内されたのは、夫人の私室ではなく、客間だった。
「ここでお待ちなさい」
またもや待てと言われて、あからさまにミアの表情が変わる。それをごまかすように、少し大きな声でフェリシアが答えた。
「かしこまりました」
侍女が出ていくと、フェリシアがミアを睨んだ。
「ミア、さっき言ったでしょう? 気を付けなさいって」
「だって!」
「だってじゃないわよ。はい、笑って」
「むぅ」
「笑いなさい!」
「あ”ー、いだい! いだいえす!」
左右のほっぺたをつままれて、ミアが涙目でもがく。まともに発音できないほど、フェリシアは本気で頬を引っ張っていた。
「いい、ミア。これは仕事なの。我慢する基準をもっと引き上げなさい。でなければ、この先やっていけないわよ」
「あい!」
「分かった?」
「あい! わあいあいあっ!」
言葉にならない返事をしながら、ミアが必死に頷く。
「じゃあ笑って」
ほっぺたを解放して、フェリシアが言う。
「うー、分かりましたよ、もう」
ミアが、無理矢理笑顔を作った。
「それでいいわ。でも……ちょっと、ほっぺたが赤いわね」
「ひどい!」
文句を言いながら、ミアは自分にヒールをかけていた。
ガチャ
十五分ほど経った頃、扉が開く。最初に侍女が、続いて一人の夫人が入ってきた。
ふくよかという表現ではちょっと収まらないその夫人は、事前の情報通り、気難しそうな顔をしている。
「お初にお目に掛かります。エム商会のフェリシアと申します」
「ミアと申します」
素早く立ち上がって、二人が挨拶をする。それをちらりと見たのみで、二人は正面のソファまでやってきて、夫人だけがそれに座った。
ぎしっと音を立てて、ソファが大きく沈み込む。
「こちらが公爵夫人、イザベラ様でいらっしゃいます。イザベラ様、本日はこの二人から説明をさせていただきます」
「分かりました」
夫人が初めて声を出した。落ち着いた静かな声だ。
「では、説明をなさい。なるべく簡潔に話すのです」
「かしこまりました」
侍女に答えて、しかしフェリシアは、少しの間黙ってしまった。フェリシアとミアは、立ったままだ。普通なら、何も言われなくても「失礼いたします」と断ってソファに腰掛けるのだが、それをしていいのかどうかと迷う。
同じく立ったままの侍女をちらりと見て、結局フェリシアは、そのまま説明を始めた。
席を勧めるでもなく、夫人は黙って説明を聞いている。
この夫人も、苦手なタイプだわ
そんなことを思いながら、いつも説明している内容をフェリシアが話していった。話に集中してもらうために、今回は説明資料を渡していない。その甲斐あって、二人はフェリシアの話を最後までじっと聞いていた。
説明が終わると、夫人が言った。
「とりあえず、お座りになったら?」
「はい、申し訳ありません」
やっぱり苦手……
心でつぶやいて、フェリシアがソファに腰を落とす。さりげなく隣のミアを見ると、予想通り、その表情は堅かった。
「効果が出るのは、最短で何日くらいなの?」
「個人差はありますが、一週間くらいで変化が出始める方もいらっしゃいます」
「一週間?」
「はい。ただ、目に見える効果という意味ですと、一ヶ月以上は必要です。場合によっては、二ヶ月以上掛かることもございます」
「……」
夫人が黙った。不満とも落胆とも取れる顔で、フェリシアを見つめる。
「ひと月半あれば、何とかなるかしら?」
夫人が再び話し出した。
「ひと月半……それなりの成果は、出るとは思いますが……」
「それなり?」
「はい」
夫人の目を見ながらフェリシアは答えた。視線が下に動かないように、ちょっと努力をして夫人の目を見る。
その時。
「それなりとは何ですか!」
侍女が大きな声を上げた。
「食事やら運動やらと、イザベラ様に大変なご負担をお掛けするにも関わらず、ひと月半もあってそれなりの成果しか出せないとは、失礼にもほどがあります!」
背筋を伸ばしたままでフェリシアを睨む。
険しい表情に厳しい言葉。だが、そんなことくらいでフェリシアは動揺しない。
「申し訳ございません。しかし私どもの方針は、健康に、美しく痩せることです。急激な変化は体に負担が掛かります。まずは生活を変えること、そして体質を変えること。そうしなければ……」
「お黙りなさい! そこを何とかするのがあなたたちの仕事でしょう?」
侍女が畳み掛けてくる。
フェリシアの表情は変わらない。その表情の裏で、フェリシアはため息をついていた。
「申し訳ございません。ですが、痩せるかどうかについてはとても個人差があるものなのです。夫人の努力も大きく関係してまいりますし……」
「何ですって!」
途端に侍女のボルテージが上がる。
「イザベラ様に責任をなすりつけるつもりですか? 何という思い上がり!」
「そんなことは……」
完全な言い掛かりである。さすがのフェリシアも、その目に感情を浮かべた。
「ご説明差し上げました通り、私どもはお客様と一緒になって……」
「一緒に!? 平民の身でありながら、イザベラ様と一緒に!?」
侍女が叫んだ。
「あなた、わたくしたちを見下しているの? まさかあなた、他人は自分のようにはなれないなどと思っているのではないでしょうね?」
意味がまったく分からない。理屈も何もあったものではない。
だが。
しまった!
フェリシアが、顔を歪めた。
「あなたはそうやって人のことを……」
文句を言い続ける侍女の前で、フェリシアが初めて動揺を見せる。
過去にも何度か味わってきた、苦い思いと苦い経験。
嫉妬。
少し話しただけなのに、ひどい時には目を合わせてさえいないのに、いきなり相手が自分に向けてくる感情。
エム商会に入る前のフェリシアは、それらをすべて無視してきた。決して気持ちのよいものではなかったが、同性から向けられる厳しい視線など、仕事をする上で関係がなかった。
だが、今は違う。無視していい状況ではない。
思えば、侍女の目は最初からフェリシアに向けられていた。挑戦的な視線で、背伸びをするようにフェリシアを見下ろす。ミアのことなどほとんど見ていない。その目は、常にフェリシアを見下ろしていた。
気付くべきだったのだ。侍女のその感情に、最初の時点で気付くべきだったのだ。
説明はミアに任せて、自分は後ろで控えている。そうしておけば、こんなことにはならなかったかもしれないのに……。
「失礼なことを申し上げてしまいました」
フェリシアが、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
フェリシアが詫びた。
詫びながら、フェリシアは考える。この状況を打破する方法を必死に考えた。
だが、どうしても考えが浮かんでこない。どうしても言葉が浮かんでこなかった。
かわりになぜか、マークの顔が浮かんでくる。
社長、すみません
フェリシアが詫びる。
任せるっておっしゃっていただいたのに……
頭を下げたまま、フェリシアが目を閉じる。
その目から、じわりと涙が溢れてくる。
こんなところで泣いたらだめ
フェリシアは、奥歯を噛み締めて堪えた。際限なく続くヒステリックな声を聞きながら、フェリシアは、必死になって涙を堪えていた。
突然。
「いい加減にしてください!」
とんでもなく大きな声がした。
フェリシアと、そして侍女の肩が、ビクンと跳ね上がる。
「あなたがごちゃごちゃ言うことではないじゃないですか! ちょっと黙っててくださいよ!」
天井のシャンデリアが揺れるのではないかと思うほどの大音声。
「な、な……」
侍女の唇がわなわなと震える。
「平民かどうかなんて関係ないでしょう? あなた、バカなんじゃないですか!?」
侍女の目の前で、金色の瞳が燃えていた。その瞳が怒りで燃え上がっていた。
「夫人! だいたいなんであなたは黙ってるんですか! これはあなたの問題なんですよ? この人なんて関係ないでしょう?」
ブロンドの髪が揺らめく。全身から溢れ出す激しい感情が、輝くその髪を揺らしていた。
「あ、あなた、何という……」
「うるさい!」
何か言い掛けた侍女を、一言で黙らせる。
「夫人、答えてください! あなたはどこまで本気なんですか? やる気がないなら、私たちは帰ります。時間の無駄ですから!」
怒濤の勢いで攻め立てる。口を半開きにしたフェリシアの隣で、ミアが吠えていた。身を乗り出し、拳を握り締めて、ミアが全身で叫んでいた。
すると。
「わたくしは本気ですよ」
イザベラの声がした。
「それを疑っていただいては困ります」
イザベラが、静かにミアを見つめる。
「だ、だったら……」
ミアの勢いが一気に減速した。
ミアが、怯む。
「あなた方の言う通りにすれば、ひと月半で、それなりの成果は出せるのですね?」
「そ、そうです」
「それは間違いないのですね?」
「だ、大丈夫だと、思います」
威厳に溢れた声が、ミアに問う。
「で、でも!」
必死になって、ミアが反撃する。
「夫人にも頑張ってもらわないと、絶対にうまくはいかないんです! そこは忘れないでください!」
負けてなるものかと、ミアはその瞳を全力で睨み返した。
強烈な緊張が部屋に満ちる。さすがの侍女も、言葉を挟むことができない。フェリシアでさえ、なす術なくただ黙っていた。
「分かりました」
ふいに、イザベラが言った。
「あなた方に、お願いしたいと思います」
「イザベラ様!」
声を上げる侍女を片手で制して、イザベラが続ける。
「わたくしとしては、できるだけ早く始めたいと思っています。いつから来ていただけますか?」
「え? えっと……」
冷静に問われて、ミアが慌てる。咄嗟に答えが出てこない。というよりも、そもそもミアだけではスケジュールを決めることができなかった。
そこに、落ち着いた声がする。
「早急にプランを立てて、改めて伺わせていただきます。明日の午後以降で、ご都合のいい日時はございますか?」
フェリシアが答えた。
「明日は一日屋敷にいます。いつでもいらっしゃい」
「かしこまりました。では、明日の午後、なるべく早い時刻に参ります」
「分かったわ」
イザベラが頷く。
フェリシアは、一礼して立ち上がると、扉へと歩き出した。ミアも慌てて頭を下げて、後に続く。
扉の前で振り返り、一言も発しない侍女を一切見ることなく、夫人の目だけをしっかりと見て、フェリシアは深くお辞儀をした。そして、あたふたしているミアを連れて、部屋から静かに出ていった。
屋敷の門を出ると、ミアがタタッと駆け出して、フェリシアの前に回り込む。そしてくるりと向きを変え、フェリシアを見た後、大きな声で言った。
「すみませんでした!」
ひざに頭がつきそうになるほど深く頭を下げる。
「えっと、その、どうしても我慢できなくて……それで、その……本当にすみませんでした!」
詫びの言葉を一生懸命伝える。日頃の修行の賜物か、その不安定な姿勢のままで、ミアはフェリシアの言葉を待っていた。
すると。
「ふふ……」
声が聞こえた。
「ふふふふ……」
それは、明らかに笑い声。
ミアが体を起こす。その目が、口に手を当てて笑いをこらえているフェリシアを不思議そうに見つめた。
「えっと、フェリシアさん?」
首を傾げるミアの前で、フェリシアは笑い続ける。いい加減笑った後で、やっとフェリシアは話し出した。
「あの人の顔見た? 口を開いたり閉じたり、目をパチパチさせたり。ほんとに楽しかったわ!」
まさかの反応に、ミアの目はまん丸だ。
「今頃きっと、沸騰したやかんみたいに、頭からシューシュー湯気を立てているわよ。ちょっと見てみたかったわね」
唖然とするミアに、フェリシアが笑顔を向ける。
「ミア」
「はい」
ミアに近付いて、フェリシアが言った。
「ありがと」
パフ
ミアが、大きな胸に包まれた。やっぱりびっくりしたミアは、だがそのまま黙ってフェリシアに抱かれている。
一瞬だけ見えたのだ。抱き締められるその瞬間、ミアには見えた気がしたのだ。
フェリシアが泣いていた。
そんな気がした。
ミアには分からなかった。涙の理由をいろいろ想像してみたけれど、分かるようで、分からなかった。
黙ったままのフェリシアと、抱き締められたままのミアを、屋敷の門兵が怪訝な顔で見つめていた。
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