罰
「久し振りね」
「……はい」
樽の前には、一人の女が立っていた。
「ご主人はどうしたの?」
「……」
女は答えない。かわりに、鞄から小さな壷を取り出した。
女が、それを両手でそっと包み込む。
「そう……」
風が吹いた。
髪が、さらさらと揺れた。
「ダンジョンが見付かったあの年」
女が話し始める。
感情の見えない声で、女が話し始めた。
「武具を作る技術を学ぶために、あの人は、クランに行くと言い出しました」
ヒューリの故郷、今は無き東の小国クラン。質のいい鉱石が産出することと、高度な鍛冶の技術を持っていることで有名だった。
「私は、あの人が大好きでした。あの人がいれば、どこにいたってやっていけると思っていました。だから、迷うことなくあの人と一緒に村を出ました。でも」
言葉が途切れる。
わずかに瞳が揺らぐ。
「私は、反対するべきだったのかもしれません」
無表情な声が言った。
一瞬だけ見せた感情は、すぐに姿を消していた。
「はやり病に掛かったあの人は、故郷に想いを馳せながら、志半ばで亡くなりました」
女がうつむく。壷をじっと見つめる。
「村に戻ったら、店を継いで繁盛させるんだって、あの人はいつも笑っていたんです。それなのに……」
小さな声は、そこで途絶えた。
涙もない。感情が高ぶることもない。涙も感情も、とうの昔に枯れ果てていた。
女は佇む。そこにいるというのに、その存在を感じさせないほどに気配が薄い。その目には、生きる意志がない。その目には、何も映っていなかった。
ふと。
「あなたたちは、幸せではなかったの?」
穏やかな声が聞いた。
女の瞳が動く。両手が壷を、ぎゅっと握る。
女が顔を上げた。女の感情が、動いた。
「いいえ、幸せでした。短い間でしたけど、私たちはとても幸せな日々を過ごすことができました」
女が答えた。
「私は、あの人に救われました。私のすべてを受け入れてくれた。こんな私を好きだと言ってくれた。こんな私に、幸せとは何かを教えてくれた」
眠っていた感情が溢れ出す。
その目は、はっきりと正面を見つめていた。
「それなら……」
「あの人が亡くなった後」
意外なほどの強い声が、言葉を遮る。
「私は、どうしたらいいのか分からなくなりました」
しかし、その声は急速に力を失っていった。
「悲しくて寂しかった。苦しくて、怖かった」
声が震える。瞳が震える。
両手が小さく震えていた。
「だから、私は旅に出ました。その途中で、私は一人の男と出会いました」
女が語る。
「その男に言われたんです。行くところがないのなら、俺たちのところに来いって。お前ならきっと役に立つって」
震える声で語る。
「私は、その男について行きました。そして私は、罪を、犯しました」
自分の犯した罪を、女が語った。
重ねてきた罪と、最後に犯した罪。
北に行くと言われて心が動いた。
木の陰から仲間の二人が倒されたのを見て、女は決めた。
語り終えて、女は壷を抱き締める。
「戻ってきてはいけないのだと、そうも思いました。だけど、帰してあげたかったんです。あの人の大好きだったこの村に、あの人だけは……」
頬を涙が流れ落ちた。
枯れ果てたはずの涙がこぼれ落ちていった。
「これから、どうするつもりなの?」
問われて、女は涙を拭いた。
抱いていた壷を両手で持ち直して、それを力なく見つめる。
「あの人の実家にこれを預けたら、私は去ります」
「それで?」
「それで、私は……」
寂しそうに、女が笑った。諦めたように女は笑っていた。
自分を見つめる瞳を女は見ていない。女は、すでに自分の未来を見ていなかった。
少し強めの風が吹く。
パタパタと、女の服がはためいた。
「あなたに、お願いがあるのだけれど」
唐突に言われて、女が顔を上げる。
「お願い?」
「そうよ」
穏やかな瞳が女を見つめている。
その瞳が言った。
「癒し手を、あなたに継いでもらえないかしら」
「癒し手を?」
驚く女に指輪を見せながら、声は続く。
「長いこと役目を果たしてきたけれど、そろそろ私も引退したいと思っていたところなの」
「無理です。私には、癒し手になる資格なんてありません」
女が、首を横に振る。
それを無視するように言葉は続いた。
「あなたが死んだところで、あなたの罪が消える訳ではないのよ」
声は穏やかだが、言葉は鋭い。
痛みが走る。女が、視線を落とした。
「だからね」
ふいに両手が包まれた。冷たい壷とは真逆の暖かさ。硬い壷とは正反対の柔らかさ。
女が、顔を上げた。
「罪を、きちんと償いなさい」
「罪を、償う?」
「そうよ。罪を、償うの」
意外なほどの強い力を両手に感じる。
「あなたは責任から逃れようとしている。でも、それは卑怯な選択だわ」
強烈な言葉が鼓膜を打った。
その通りだと、心が認める。許してほしいと心が叫ぶ。
「あなたの死からは何も生まれない。あなたが死んでも、いいことなんて一つもない。でも、あなたが生きて罪を償うならば、そこから生まれるものがある。生きていてこそ、できることがある」
「そんなこと……」
自分が何かを生み出せるなんて思えない。自分にできることなんてあるはずがない。
閉じた心は否定した。うずくまる心が耳を塞ごうとする。
そんな心に、容赦なく、強烈な言葉が迫ってきた。
「答えなさい。あなたは、罪を放り出して逃げるつもりなの?」
女は狼狽えた。
「答えなさい。あの世であなたは、ご主人に顔を合わせることができるの?」
女は怯えた。
罪悪感が膨れ上がる。罪の意識に苛まされ、のたうち回った夜の記憶が、扉をこじ開けて女に襲い掛かってきた。
「私は、もう……」
心は抵抗を続ける。
侵入を防ごうと、必死に扉を押さえ続ける。
「私の目を見なさい」
言われて女は、目をそらす。
「こちらを向きなさい!」
言われて女はビクンと震えた。恐る恐る、女が前を見た。
自分と同じ色の瞳。その瞳が言った。
「よく聞きなさい。これから、あなたが受けるべき罰を伝えるわ」
目をそらすことができない。
女は覚悟した。自分を打ちのめすであろう宣告を、黙って待った。
そして女は聞く。自分が受けるべき罰を、女は聞いた。
「作り出した不幸と同じだけ、幸せを作り出しなさい」
「幸せを、作り出す?」
思わず女が聞き返す。意外な罰の内容に頭がついていかない。
「十人を不幸にしたのなら、十人の人を幸せにしなさい。百人を不幸にしたのなら、百人分の幸せを作り出しなさい」
宣告は続いた。
「ご主人の愛したこの村で、たくさんの幸せを作り出す。それが、あなたの罰なのよ」
意味は、やっぱりよく分からない。
だが、一つだけ、女の心を打つ言葉があった。
あの人の愛した、この村で……
「思い出しなさい。あなたがこの村にやってきた日のことを」
私が、この村にやってきた日
「思い出しなさい、あなたがご主人と出会った時のことを」
私が、あの人と出会った時
「あなたはこの村に救われた。あなたは、ご主人に救われた」
いくつもの場面が霞の中に浮かび上がってくる。
モノクロームの記憶が、鮮やかに色づいていく。
「この村で、あなたはご主人と結ばれた。あの時のあなたは、とても幸せそうだった」
静止していた記憶が動き始めた。
幸せの記憶。輝いていた記憶。
女の胸に、小さな明かりが灯る。
「ご主人は、何を望むのかしら。ご主人はあなたに、どうしてほしいと思うのかしら」
少しずつ、心に意味が入り込んできた。
扉の隙間から、少しずつ、罰の意味が染み込んでくる。
「あなたは苦しみを知っている。だから、苦しむ人の気持ちが分かる。あなたは歌が歌える。指輪を持つ資格も持っている」
女は聞く。
扉を押さえることを忘れていく。
「癒しの歌は、体を癒すことができる。だけど、あなたなら、相手の心も癒すことができるはず」
声が語る。
扉が徐々に開いていく。
「たくさんの人を癒しなさい。たくさんの人を助けなさい。この村を、あなたの歌で守りなさい。それがあなたの罰なのよ。それがあなたの責任なのよ」
たくさんの人を癒す
たくさんの人を助ける
あの人の愛したこの村を、私の歌で守る
それが、私の罰
「この村で、あなたは罰を受けなさい」
女は聞いた。
「ご主人が笑ってくれるようになるまで、罰を受け続けなさい」
神託を聞くように、真剣な表情で女は聞いた。
「罰の終わりを決めるのは、あなたよ。それまであなたは、幸せを作り続けなければならない。人を幸せにし続けなければならない」
女がうつむいた。
自然と涙が溢れてきた。
「あなたは罰を受けなさい。あなたは、幸せを作り続けなさい。そしていつの日か、あなたはあなたを、許してあげなさい」
暖かな手のひらが、両手から離れていった。
その手のひらが、女の頬を包み込む。
「あなたは癒し手になる。いいわね?」
優しい声だった。
慈愛に満ちた、優しい瞳だった。
「はい」
女は答えた。
頬が暖かい。胸が、暖かい。
女は、目の前の瞳に向かって微笑んだ。
自分と同じ、茶色の瞳。その瞳も、優しく微笑んでいた。
「とりあえず、うちに来なさい。久し振りに、故郷の料理をご馳走してあげるわ」
言われて女は涙を拭いた。
「ありがとうございます。私もお手伝いします」
歩き出した背中を追って、女も歩き出す。
風を感じた。日差しを感じた。今までとは違う景色が女には見えていた。
遠くを見れば、真っ白な峰々。
「いつかまた、あの山を越えて来る人がいたら、今度はあなたが助けてあげるのよ」
「はい。必ず私が、その人を助けます」
女が力強く答えた。
メェェェ
モォォォ
家畜の鳴き声が響く。
チュンチュンチュン
ピピピピ……
小鳥のさえずりが聞こえる。
のどかな村の一日は、今日も穏やかに過ぎていった。
受け継ぐ者たち 了
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