隣に立つ人
「シンシア、どうする?」
マークが聞いた。
シンシアが目を閉じる。
全員が口を閉ざす。
やがて。
「戦う」
声がした。
ざわめきと、息の止まる音。
「分かった。ミナセ、今日も頼む」
「……分かりました」
さすがのミナセも、返事をするのに数秒の努力が必要だった。
「たあああぁっ!」
シンシアの剣がゴブリンを斬り裂く。仲間をやられたゴブリンたちが、狂ったようにシンシアに襲い掛かる。
シンシアが、飛び退いて距離を取った。
「はあ、はあ」
戦いは始まったばかり。倒したゴブリンは、たったの一体。双剣を構え、肩で息をしながら、シンシアはゴブリンを睨む。だが、その目からはボロボロと涙がこぼれていた。
「いや……」
シンシアは泣く。
「来ないで……」
シンシアが後ずさる。
「いやああぁっ!」
シンシアが、ゴブリンに両手の剣を投げつけた。そしてそのまま地面にうずくまる。
迫り来るゴブリンたちは、しかし直後、全滅していた。
その日シンシアは、三回ゴブリンに立ち向かった。
その日シンシアは、二度胃の中のものを吐き出し、最後の戦いで、気を失った。
深夜。
「お父さん!」
声が響く。
「お母さん!」
悲痛な叫びが聞こえてくる。小屋の中にいても、毛布をかぶって耳をふさいでいても、その声は心をえぐった。
今夜は、初めからシンシアは外で眠っている。本人の強い希望だった。
そしてマークも、シンシアと共に外にいた。
叫び声が止んだ。
五人が、呼吸を始めた。
涙をこらえ、体を丸めて夜明けを待つ。
過酷な夜が、今夜も更けていった。
「シンシア」
マークがシンシアを見る。
「……」
シンシアは無言。
朝日を浴びるその顔には、くっきりと隈が浮かんでいる。
乱れた髪。精気のない瞳。
シンシアの姿は、まるで亡霊のようだった。
五人がマークを見つめる。ミナセでさえも、その目は何かを訴えていた。
「今日は、一日休むんだ」
マークが言った。一斉に安堵のため息が漏れる。
シンシアが、涙を浮かべてマークを見た。
そのシンシアに、マークが言う。
「今日一日休んだら、また、明日聞く」
音のしないざわめきがした。
「はい」
シンシアが答える。
「朝食は食べるんだ。食べたら、小屋で眠りなさい」
「はい」
素直にシンシアは頷いた。
その朝シンシアは、軽めの朝食を取った後、一人で小屋の中へと入っていった。
「もうやめだ! もう私は手伝わない!」
大きな声でヒューリが叫ぶ。
「無理ですよ! 無理なんだ!」
こらえてきた感情が、ヒューリの心から噴き出していた。その目がマークを睨み付ける。全身で抗議の意志を示す。
だがマークは、表情を変えることなく言った。
「俺は、シンシアを信じる」
「くっ!」
静かなままの黒い瞳。その瞳に宿る、強い意志。
ヒューリは、反論の言葉を見付けられない。黒い瞳を睨み、唇を噛み、やがてヒューリは激しく振り向いた。
「ミナセ、もう止めよう。こんなの絶対おかしいだろ!」
ミナセは答えない。しかし、その表情は苦渋に満ちていた。その拳は葛藤で震えていた。
「ミナセ!」
ヒューリが怒鳴る。怒鳴られて、ミナセが顔を上げた。
「私は、社長を信じる」
「くそっ!」
ヒューリが吐き出した。
「くそーっ!」
もう一度叫んで、ヒューリは森へと駆けていく。
森の中から怒声が聞こえた。何かが砕ける音や、鈍い打撃音が聞こえてくる。
「ミア。後で、あいつのケガを治してやってくれ」
掠れた声で、ミナセが言った。
ミアは頷くこともできない。リリアとフェリシアは、青ざめた顔でそこに立ち尽くしていた。
「走りなさい!」
シンシアに向かって叫ぶ母。
鉈を握り締め、盗賊に向かっていく父。
盗賊たちに取り囲まれ、なぶり殺しにされる、両親の最期。
しばらく見ることのなかった光景。
何度も何度も繰り返し見てきた光景。
これは夢だ
シンシアには分かっている。
目覚めれば、現実に戻れるんだ
シンシアには分かっていた。だから、一生懸命目覚めようとした。
だけど、その体はなかなか目覚めてくれない。開くことのできないその目が、見たくもない光景をじっと見つめ続ける。
いやだよ……
涙が溢れてくる。
もう見たくないよ……
恐怖が溢れてくる。
助けて!
誰か助けて!
シンシアは叫ぼうとした。
もがこうとした。
逃げようとした。
その時。
誰?
隣に人がいた。
あなたは、誰?
顔をその人に向けようとする。
だけど、シンシアの体はやっぱり動いてくれない。
隣の人は、何も言わずにただ黙ってそこにいる。
自分よりも、背が高いことだけは分かった。
何となく、知っている人のような気がした。
気が付くと、父も母も、盗賊たちも消えていた。
隣の人は、やっぱり隣にいた。
シンシアの体が動きを取り戻す。
そしてシンシアは、ゆっくりと、目を開いた。
「あれは……誰?」
天井を見上げたままシンシアがつぶやく。その自分の声で、シンシアは完全に目を覚ました。
体を起こして周りを見る。そこは、小屋の中。そこには誰もいない。
「おなか、すいた」
またつぶやいて、そのつぶやきに自分で驚く。
「おなか、すいた」
もう一度言って、シンシアは小屋の外へと出て行った。
翌朝。
「シンシア、どうする?」
マークが聞いた。
シンシアが目を閉じる。
全員が口を閉ざす。
やがて。
「……戦う」
声がした。
ざわめきと、息の止まる音。
「分かった。ミナセ、今日も頼む」
「分かりました」
覚悟を決めたミナセが答えた。
「たあああぁっ!」
シンシアの剣がゴブリンを斬り裂く。仲間をやられたゴブリンたちが、狂ったようにシンシアに襲い掛かる。
シンシアは、飛び退いてゴブリンたちと向かい合った。
「はあ、はあ」
戦いは始まったばかり。倒したゴブリンは、一体。双剣を構え、肩で息をしながら、シンシアはゴブリンを睨む。だが、その目からはボロボロと涙がこぼれていた。
「いや……」
シンシアは泣く。
「もういや!」
シンシアが後ずさる。
だが、その足が止まった。
「いやああぁっ!」
シンシアがゴブリンに斬り掛かっていった。棍棒をかわし、そのまま背後に回って剣を振る。
血が流れることはない。返り血を浴びることもない。
それでも、肉を切り裂くその感触は、剣を通してはっきりと伝わってくる。
「ギャァ!」
崩れ落ちるゴブリンと一緒に、シンシアも崩れ落ちる。
体を震わせるシンシアを、ミナセの太刀が守っていた。
腕を組んだまま、マークは動かない。
拳を握ったまま、リリアは動かない。
フェリシアもミアも、顔を強張らせたまま動かない。
シンシアに背を向けたまま、ヒューリは動かない。
その日シンシアは、四回ゴブリンに立ち向かった。
その日シンシアは、一度胃の中のものを吐き出し、戦いの最中、ずっと涙を流し続けていた。
「走りなさい!」
シンシアに向かって叫ぶ母。
鉈を握り締め、盗賊に向かっていく父。
盗賊たちに取り囲まれ、なぶり殺しにされる、両親の最期。
これは夢だ
シンシアには分かっている。
目覚めれば、現実に戻れるんだ
シンシアには分かっていた。だから、一生懸命目覚めようとした。
だけど、その体はなかなか目覚めてくれない。開くことのできないその目が、見たくもない光景をじっと見つめ続ける。
ふと。
誰?
隣に人がいた。
あなたは誰?
顔をその人に向けようとする。
だけど、シンシアの体はやっぱり動いてくれない。
隣の人は、何も言わずにただ黙ってそこにいる。
自分よりも、背が高いことだけは分かった。
何となく、知っている人のような気がした。
その人の隣は、何となく、安心できるような気がした。
気が付くと、父も母も、盗賊たちも消えていた。
隣の人は、やっぱり隣にいた。
シンシアの体が動きを取り戻す。
そしてシンシアは、ゆっくりと、目を開いた。
パチパチと薪が弾ける音が聞こえる。小屋の外で寝ていたことを、シンシアは思い出した。同時に、シンシアは気が付いた。
自分を包む暖かい毛布。自分を包みこむ、大きな温もり。
シンシアが、また目を閉じた。シンシアは、そのまま眠りに落ちていった。
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