悪夢
気持ちが悪かった。
頭がグラグラする。胸がムカムカする。
「やっぱり戻った方が……」
誰かの声が聞こえた。
この声は、ヒューリ?
途端に、口の中に違和感を感じる。
そう言えば私は……
ゆっくりと、シンシアが目を開けた。
「大丈夫か?」
すぐそばに、マークの顔がある。
大きく目を開いたシンシアが、もの凄い勢いで跳ね起きた。そのまま飛び退くようにマークから離れて、口元を袖でゴシゴシと拭く。
そこに、ヒューリが水筒を持ってやってきた。
「ほら、顔を洗ってうがいをしろ」
「……」
答えないシンシアの前で、ヒューリが水筒を傾けて待つ。
シンシアはそれをじっと見つめ、やがて両手を、その下に差し出した。
顔を拭き終えたシンシアの周りにみんなが集まってくる。
「背中は痛くない? 肩は?」
「……平気」
ミアに聞かれて、シンシアが答える。
そして。
「ごめんなさい」
小さな声で、謝った。
「謝る必要はないよ。みんな、びっくりしただけだ」
ミナセが微笑む。
ちらりとミナセを見たシンシアが、その背中に隠れるようにしているリリアを見付けた。
「リリア……ごめん」
「ううん、大丈夫」
小さな声に、小さな答えが返ってくる。
だが、リリアはそこから動かない。リリアは、シンシアを見ていなかった。
「社長、やっぱり戻った方が……」
さっきと同じ言葉が聞こえた。それは、やっぱりヒューリだった。
マークはヒューリを見ない。ヒューリを見ずに、シンシアを見て聞いた。
「シンシアはどうしたい?」
問われて、シンシアはうつむく。
「私は……」
つぶやいて、シンシアは拳を握った。
みんながシンシアを見ている。心配そうな目が自分を見つめている。
その目は、みんな同じ答えを待っているような気がした。それを答えれば、みんなを安心させられるような気がした。
だけど。
私はどうしたい?
シンシアは考える。シンシアは迷う。迷ってシンシアは、顔を上げた。顔を上げて、すぐ横にいるマークを見上げた。
マークも、シンシアを見ていた。
すぐ近くから、漆黒の瞳が自分を見つめている。こんなに近くでその瞳を見るのは、とても久し振りのような気がした。
シンシアが思い出す。それは、シンシアが入社する前のこと。
まだシンシアがサーカスにいた頃、マークに強引に連れ出されて、会社に連れて行かれた。無理矢理抱き上げられて、鼓動を感じるほどの距離でその瞳を見た。
あの時のマークは、信じられないくらい強引だった。
逃げるなんて許さない。そんな気を放っていた。
でも、今のマークは違う。
手を引いてもくれないし、背中を押してもくれない。
逃げろとも言わないし、止めろとも言わない。
シンシアが、目の前の静かな瞳を見る。
シンシアは見ていた。シンシアを待つ、黒い瞳。
その瞳を見て、シンシアは思った。
あの時と、今は違う。
社長はきっと、私の答えをそのまま受け入れるつもりだ。
それなら。
シンシアは決めた。
「私は」
シンシアが言った。
「戦う」
マークの目を見て静かに言った。
「分かった」
マークの目は変わらなかった。
やっぱりそうだったと、シンシアは思った。
「だけど、さっきみたいなのはダメだ。あれは、戦いに行ったんじゃなくて、死にに行ったのと同じだ。ちゃんと見て、ちゃんと戦え。そして、ちゃんと戻ってこい」
「はい」
マークに言われて、シンシアは素直に頷く。
ミナセだけは表情を変えなかったが、ほかのみんなは、不安と心配がその顔にはっきりと浮かんでいた。
その一人一人をマークが見る。
「シンシアを全力でバックアップする。ミナセ、悪いがシンシア中心のメニューを考えてくれ」
「分かりました」
シンシアを想う気持ちはみな同じだ。だがそれ以上に、マークへの信頼は、ミナセでなくても絶対だ。
「よし!」
気合いを入れる、ヒューリの声が聞こえた。
「気持ちが悪くなったり、冷静ではないと自分で判断したら、すぐに引け。それもできないなら、頭を守ってその場にうずくまれ。ゴブリンの攻撃なら、一発や二発食らって致命傷になることはないからな」
「分かった」
ミナセに言われて、シンシアはしっかりと返事をする。
「やばいと思ったら、問答無用で手を出すぞ」
こくり
ヒューリに向かってシンシアが頷く。
「フェリシアは周囲の警戒、ミアは治療に備えて待機だ。リリアは、ここで社長を守ってくれ」
「……はい」
リリアが答えた。
うつむくリリアの肩を軽く叩いて、ミナセがシンシアを振り返る。
「準備ができたら、行け」
それを聞いて、シンシアは前を見た。その目がゴブリンを睨む。
ゴブリンまでの距離は、およそ五十メートル。すでにゴブリンたちもこちらに気付いている。
シンシアが深呼吸をした。そして、ゆっくりと剣を抜く。
その姿は、今朝までのシンシアとは別人だ。今朝までの状態を考えれば、シンシアは驚くほど前進していた。
だが、ここからだ
リリアは、ミアの言葉で覚醒した。あの一瞬でリリアは変わることができた。しかし、シンシアはそうは行かないだろう。
ミナセがちらりとマークを見る。その表情から、心の内を知ることはできない。
だが間違いなく、ここにいる誰よりも、マークはシンシアを見ている。ここにいる誰よりもシンシアのことを考えている。
その社長より、今度は絶対先に動く!
そんなことはどうでもいいと、マークは笑うかもしれない。
だが、ミナセは強く思っていた。
私は、今回の訓練を任されたんだ
私が、シンシアを全力でフォローする!
きっとヒューリも同じことを考えている。顔にそう書いてある。
緊迫感をはらんだまま時間が過ぎていった。シンシアが前に出るのを、全員が緊張しながら待っていた。
やがて。
「行く!」
声がした。
シンシアが、ゆっくりと走り出す。ミナセとヒューリがそれに続く。
マークは動かない。フェリシアとミアは、その後ろ。リリアは、マークの隣で駆けていく背中を心配そうに見つめている。
シンシアが加速した。すべてのゴブリンがこちらを向いた。
「やあああぁっ!」
牙を剥くゴブリンに向かってシンシアが叫んだ。
その時。
「うっ!」
シンシアが、剣を手放して口を覆った。
「うぅっ!」
体が崩れ落ちていく。
膝をついて背中を痙攣させる。
「くそっ!」
どちらの声かは分からなかった。だが直後、ゴブリンの群は全滅していた。
「シンシア!」
誰かの叫び声を遠くに聞きながら、シンシアは、また意識を失った。
シンシアが意識を取り戻したのは、拠点にしている小屋の中だった。自分を囲んでいたみんなに謝り、体を洗ってくると言って、小屋を出た。
リリアがついて来たのは分かったが、振り返ることなく小川を下って体を洗う。
夕食は、スープを少しだけ飲んだ。リリアがミアに聞いて作った薬膳スープ。でも、シンシアにはその味が分からなかった。半分も飲まずにお皿を置いたシンシアは、今にも泣きそうな顔をしていた。
その日の深夜。
「いやあああぁっ!」
突然叫び声が響き渡った。
「どうした!?」
全員が飛び起きる。
「もういやだ!」
再び響く金切り声に、全員の顔が青ざめた。
壁に背を預け、髪を振り乱して、狂ったようにシンシアが叫んでいた。その両手は何かを追い払うように振り回され、大きく開いたその目は怯えたように震えている。
「シンシア!」
声を上げ、だがどうしていいのか分からないまま、みんなはシンシアを見ていた。目を見開いたまま、口を押さえたままで、みんなはただシンシアを見つめることしかできなかった。
シンシアが叫ぶ。シンシアが手を振り回す。
怯え、震えながら、シンシアは喚き続けた。
やがて、シンシアが止まった。
「うぇ……うぇ……」
悪夢で目覚めた子供のようにシンシアが泣く。体を力ませ、強く目を閉じて、シンシアは泣いた。
その体を、いつの間にかそこにいたマークが、そっと抱き上げた。
「誰か、毛布を頼む。それと、外の焚き火をおこしてくれ」
その夜シンシアは、毛布とマークに抱かれたまま、焚き火のそばで、いつまでも体を震わせていた。
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