一センチ

「右です!」


 声を上げたリリアが、振り向きざまに剣を払った。


「キャオン!」


 悲鳴とともに、ウルフが地面に倒れ込む。同時にミアが、右から来たウルフを叩き潰した。


「ミアさん、大丈夫ですか?」

「はあ、はあ……大丈夫……だよ」


 つらそうなミアと比べて、リリアには相当余裕がある。


「リリア……はあ、はあ……強過ぎ……」

「そんなことないですよ」


 リリアは謙遜するが、実際はミアの言う通りだった。



「私は、守る人になります」


 あの瞬間から、リリアは変わった。迷いなく戦うようになった。

 鋭い観察力と、驚くほどの広い視野。魔法への高い感度と、ミナセ直伝の先読みの技術。

 ミナセが睨んでいた通り、いやそれ以上にリリアは強くなった。迷いがなくなったことで、その本来の力を余すことなく発揮するようになった。

 ミアが魔物を一体倒す間に、リリアは二体以上の魔物を倒した。全体を見渡して、自分とミアと魔物の位置を把握しながら、戦い全体を完全にコントロールしている。


「五日目でこれって、スゴ過ぎだろ」


 ヒューリが唸ってしまうほど、リリアの成長は早かった。


「別メニューが必要だな」


 さすがのミナセも、驚きながらつぶやいた。


 その様子を、マークとフェリシアが見守っている。その二人の目の前には、シンシア。地面を睨み付けるその目には、涙。

 訓練が始まってから、シンシアはまだ一度も魔物と戦っていなかった。五日間、ずっとシンシアは地面を睨み続けている。


 フェリシアは、そんなシンシアに何度も声を掛けようとした。でも、結局何も言えていない。フェリシアは、掛ける言葉を見付けることができずにいた。

 ヒューリも、ずっとシンシアのことを気にしていた。小屋に戻れば、その視線は常にシンシアに向けられている。

 リリアは、この二日ほどシンシアの目を見ていない。シンシアと出会ってから初めて、リリアはシンシアとの接し方に悩んでいた。

 ミナセは無言を貫く。同じくマークも。

 そして。


 夜。


「殴るだけじゃだめ。柄もうまく使って」


 みんなが眠りについた後。小屋の前の河原で、ブツブツとつぶやく声がする。


「攻撃を受け止めると流れが止まっちゃう。なるべくかわしながら」


 ジリッ、ブン!


 小石を踏み締める音と、太い風切り音。

 月明かりの中で、ミアが一人、メイスを振るっていた。


 ミアは、リリアを叱り付けることでその強さを引き出した。だがそれが、ミアをリリアの足手纏いにさせていた。一緒に訓練するにはもう無理があることは、ミアにも分かっていた。


「強くならなくちゃ!」


 汗が飛び散る。


「もっと頑張らなくちゃ!」


 歯を食いしばってメイスを振るう。


 リリアは強くなった。ミナセの言った通り、それは覚醒したとしか表現できないほどに急激で、劇的な変化だ。

 それを、ミアは心から喜んでいる。

 リリアを妬むことなどミアはしない。自分が足手纏いになっていることを誰かのせいにするなんて、ミアの頭にはこれっぽっちもなかった。

 だから。


「私は絶対、強くなる!」


 ミアはメイスを振るう。


「絶対絶対、強くなる!」


 みんなのために、自分のために、ミアはメイスを振るい続けた。


「でも……はあ、はあ……ちょっと休憩」


 さすがのミアも、疲れてきた。魔法で疲労を回復させることはできるが、無理をすれば長続きしないことはよく分かっている。脳天気に見えるミアもいろいろと考えているのだ。

 川辺に膝をついて水を飲む。一息ついて、ミアは河原に座り込んだ。

 そこに。


「どうして?」


 突然、後ろから声がした。


「うわっ!」


 びっくりしたミアが、飛び上がるようにして立ち上がる。その目が、月明かりに浮かぶ少女を見付けた。


「シンシア! もう、びっくりさせないでよ」


 脱力しながら文句を言う。

 文句を言われたシンシアは、だが、それを聞いていないかのように言葉を続けた。


「ミア、全然強くならない。リリアに全然、ついていけてない。それなのに、どうして……」


 ミアに向かって話すシンシアは、しかしミアを見ていない。うつむくその目は少し苛立っていて、それなのに、その目は泣きそうだ。


「頑張ってもできない。できないなら、やらない方がいい。やらない方が……」

「シンシア」


 少し強い声が、シンシアを遮った。

 ひどいことを言われているようで、それが自分に向けられたものではないことくらい、ミアにも分かっている。

 だがミアは、とてもミアらしい見解を持っていた。

 だから言った。深刻な顔をしているシンシアに、平然と言ってのけた。


「やってみなきゃ、分からないと思うよ」


 さらに。


「シンシアは、剣を抜いてすらいない。まだ何にもやってないじゃない」


 シンシアは驚いた。あまりの直球な指摘に、怒るとか言い訳をするとか、そんなことすらも思い浮かばない。


「言っとくけど、私、ちゃんと強くなってるからね。昨日はできなかったことが、今日は少しできるようになった。明日はきっと、また少しできるようになってると思う。リリアみたいにはなれないかもしれないけど、一年経ったら、私だって分からない」


 真顔でミアは言う。


「何かをしなきゃ、何も始まらない。合ってるとか間違ってるとかじゃない。やってみなきゃ、一歩も進まない」


 ミアが、一歩前に出た。そして、シンシアの前に立つ。


「私ね、社長にいっつも怒られてる。たぶん、シンシアの何倍も怒られてる」


 シンシアを見つめる。


「でね、怒られた後、時々言われることがあるの。”でも、これで一センチくらいは進んだぞ。まあ、ゴールは何百キロも先だけどな”って」


 シンシアが、ミアを見上げた。


「何百キロのうちの、たった一センチだよ! いつになったらゴールできるのよって、言われる度に思っちゃうのは仕方がないことだよね? シンシアもそう思うでしょ?」


 同意を求められて、しかしシンシアは、どう答えていいのか分からない。ミアを見上げたまま、シンシアは黙っていた。

 

「でもね」


 ミアが言う。


「私は進んでる。一センチでも進んでるって、社長が言ってくれる。だから私、絶対に止まらないよ」


 シンシアの目が大きく開いていく。


「いつか社長に、いっぱい進んだなって言わせてみせる。いつか社長に、いっぱい褒めてもらえる社員になる。いつか社長に、お前は俺の自慢の社員だって、言わせてみせる!」


 力強くミアは宣言した。

 目を伏せて、シンシアが顔を歪めた。

 立ち尽くすシンシアの横をすり抜け、ミアは小屋に向かって歩き出す。


「とりあえず、剣を抜くことから始めてみれば。それができないなら、魔物に向かって一歩近付くだけでもいい。それもできないんだったら、私たちをちゃんと見ているだけでもいい」


 そこまで言って、ミアは歩みを止めた。


「いちおう言っとくけど、シンシアは今夜、一センチくらいは進んだんだよ」

「!」


 シンシアが、ミアを振り返る。


「だって、私にちゃんと話し掛けてきたじゃない」


 ミアは、シンシアを見ていた。

 シンシアを見て笑っていた。


「大丈夫。シンシアならできるよ」


 またもや驚くシンシアを残して、ミアは再び歩き出す。


「さあ、明日も頑張るぞー!」


 夜空に向かって腕を振り上げ、まるで月でも掴もうとするかのように、拳を握る。


「フン!」


 煌めくブロンドの髪が元気に飛び跳ねた。

 その背中を見送って、シンシアも月を見上げる。


「一センチ」


 小さな声がした。


「一センチ!」


 大きな声がした。

 シンシアが月を睨む。その手が月を掴む。

 その夜シンシアは、月を睨んだまま、いつまでもそこから動くことをしなかった。

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