第十一章 受け継ぐ者と声を聞く者

尾行

 汗が頬を伝って流れ落ちる。乱れた呼吸を整えるために、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 昇ったばかりの太陽が、輝く日差しを浴びせてきた。それが眩しくて、少しだけ目を細める。

 その瞬間。


 シュッ!


 空気を切り裂くように、正面から木刀が一直線に迫ってきた。動き出しが分からなかった。気持ちが焦る。

 だが、体はきちんと反応してくれた。後ろに上体を反らしながら、左手の木刀を振り上げる。それが相手の木刀をきれいに弾く、はずだったのに、何の手応えもないまま木刀は空を切った。

 直後。

 途中で急減速した相手の木刀が、今度は急加速しながら、再び正面から襲い掛かってきた。

 下半身に力が入らない。これではかわすことができない。苦し紛れに右手の木刀を振り上げる。それは、今度こそ相手の木刀を弾き上げた。だが、その手応えは軽い。

 両手の木刀を使い切り、両腕が上がったがら空きの懐に、するりと相手が飛び込んでくる。

 そして。


 バーンッ!


 豪快な投げで、地面に叩き付けられた。


「くはっ!」


 肺から空気が押し出され、条件反射で思わず目を閉じる。

 痛みをこらえて片方だけ開けたその目が、心配そうに自分を見つめる茶色の瞳を捉えた。


「大丈夫?」

「……大丈夫」


 ブルーの瞳が答える。体を起こしながら、悔しげにシンシアが答えた。



「全然勝てなくなったな」


 双剣を教えたヒューリが、ちょっと残念そうに弟子を見つめている。


「ああ、そうだな」


 先読みを教えたミナセが、ちょっと嬉しそうに弟子を見つめていた。


 朝の修行に参加するようになって、シンシアは、すぐにリリアよりも強くなった。シンシアの持つ特異な力、模倣する能力が、シンシアに急速な成長をもたらした結果だ。

 だが、リリアは止まらなかった。ミナセの言葉を信じ、その教えを忠実に守って日々の鍛錬を続けた。


 やがてリリアは、シンシアを超えた。


 鋭い観察眼、広い視野、魔力に対する高い感度、そして、素直な心。それらがリリアを強くした。ミナセの教える先読みを、リリアは確実に修得していった。


「だが、リリアには決定的に足りないものがある」


 表情を引き締めてミナセが言った。


「今のリリアでは、本当に意味で、敵を倒せない」


 リリアは優しい。その優しさが、生死を賭けた戦いでは仇となる可能性がある。


「まあ、そうだな。でもリリアなら、いざとなれば、何とかなるような気がするよ」

「そう、かもな」


 ヒューリの言葉に、ミナセは頷いた。


 リリアは優しい。だが、同時にリリアは強い。自分の人生を柔軟に受け入れることができる、不思議な強さを持っている。

 そういう事態に直面すれば、リリアは変われる。現実を受け入れる。

 しかし。


「問題はシンシアだと、私は思うんだよなぁ」

「そう、かもな」


 ヒューリの言葉に、険しい目をしてミナセが頷いた。


 シンシアも、リリアと同じく生死を賭けた戦いの経験はない。ミアのような経験はない。

 ならば、そういう事態に直面した時にシンシアは変われるのか。現実を受け入れられるのか。


 答えは、おそらく否だ。


 シンシアは、いまだに真剣を持つことができなかった。

 包丁やナイフは日常的に使っているので、刃物がダメだということではない。しかし、それが武器となった途端、シンシアの目は落ち着きを無くし、その体は震え始めてしまう。

 木刀での手合わせは問題ないし、格闘戦においてもかなりの実力を発揮する。フェリシアとの手合わせでは、すでに五分に近い勝率を上げていた。

 だが。


「走りなさい!」


 シンシアに向かって叫ぶ母。

 鉈を握り締め、盗賊に向かっていく父。

 盗賊たちに取り囲まれ、なぶり殺しにされる、両親の最期。


 悪夢にうなされることはなくなった。

 突然泣き出すことも、今ではなくなっていた。


 みんなといれば、笑うことができる。

 みんなといれば、話すことだってできる。


 だけど。


 鈍く光るその刀身が、思い出させてしまう。

 鋭く尖ったその刃先が、シンシアの心に突き刺さる。


 シンシアはいまだに、真剣を持つことができなかった。


「ミアと同じようにって訳には、いかないだろうなぁ」


 憂いと共に吐き出されたヒューリのため息が、その問題の難しさを物語っている。


 マークが逮捕された一件以来、ミナセもヒューリも、そしてフェリシアも考えていることがあった。


 エム商会を取り巻く環境が、少しずつ変わってきている。

 リリアたちが、いずれ”実戦”を経験する可能性は十分ある。


 だが、今のままでは……


 リリアに埃を払ってもらっているシンシアを見ながら、ミナセの眉間には深い皺が刻まれていた。



「つまらない仕事で悪かったな」

「いえ、そんな」


 マークの言葉に、フェリシアは頬を染めた。


「社長と一緒なら、私はどんな仕事でも……」


 とてもとても小さなその声は、少し前を歩くマークにさえ届かない。


「だけど、あの仕事はフェリシアでなければできなかっただろう。助かったよ」


 振り向いてマークが微笑む。

 嬉しそうにフェリシアも微笑む。


 二人は、金持ちの引っ越しの手伝いに行った帰りだった。


 二人が、というよりフェリシアが運んだのは、一つの岩。その金持ちが神聖なる岩として崇めていた、大きな岩だった。

 昔から庭にあったというその岩は、いざ運ぼうとした時に、地面に埋もれている部分が意外なほど大きいことが分かる。

 掘り起こした結果判明したのは、とても人力では運べないということ。

 それでも金持ちは譲らない。絶対に運べと怒鳴り散らす。そこで、引っ越し業者からエム商会に依頼が来たのだった。


 どうも、その金持ちは面倒な人物らしい。念のためということでマークも同行して、岩の引っ越し作業が始まった。

 フェリシアが魔法を掛ける。岩が嘘のように軽くなる。業者の男たちが狐につままれたような顔でそれを運び、フェリシアも一緒に移動して、無事引っ越しは完了。

 大喜びの金持ちからフェリシアがありがたくご祝儀をいただき、だらしなく鼻の下を伸ばす金持ちの誘いをマークが丁重に断って、仕事は終わった。


「社長にいて頂いて助かりました。私だけだったら、きっとあの人、しつこく誘ってきたと思いますので」


 笑いながらフェリシアが言った。その顔が、突然ふわりとマークの耳元に近付く。

 そして、囁いた。


「少し前から、尾行されています」

「分かった」


 表情を変えることなくマークが答える。二人は自然にもとの位置に戻って、そのまま歩き出した。

 大通りから裏通りへ。裏通りから路地へ。建物の間を縫って、右へ左へ。

 何度か曲がったところで、フェリシアが立ち止まった。


 その手前の物陰には、一人の男。男は目ではなく、索敵魔法で周囲を探る。動かなくなったフェリシアの魔力反応に集中する。

 と、突然。


「動くな」


 男の背後から声がした。男がビクリと体を震わせる。そして両手を挙げ、動くなという言葉を無視してゆっくり振り返ると、男は苦笑した。


「魔力がないってのは、やっぱりやっかいだな」


 振り返った男の顔を見て、マークが驚く。


「あなたは……」


 そこへフェリシアもやってきた。


「あら、お頭。お久し振りね」

「覚えてくれてて、何よりだ」


 男が、にやりと笑った。


 フェリシアの入社前のこと。

 自分のもとに来いとフェリシアに言った、隣国カサールの有力な貴族、ガザル公爵。そのガザル公爵から汚れ仕事を請け負っていた裏稼業の集団。そのお頭が、目の前にいた。

 お頭と会うのは、マークたちがフェリシアを”強奪”した時以来だ。


「こんなところに一人でいるなんて、まさか廃業でもしたのかしら?」


 フェリシアが、軽い調子で問い掛ける。だが、その目は鋭い。さりげなくマークとお頭の間に入ってマークを守っていた。

 そんなフェリシアを、お頭がじっと見つめる。


「私の顔に、何か付いていて?」


 警戒を解くことなくフェリシアが聞いた。

 すると。


「あんた、変わったな」

「変わった?」


 フェリシアが首を傾げる。


「前のあんたは、もっと冷たい感じだった。感情なんてどっかに置いてきちまった、そんな顔をしていた。でも今は」


 挙げていた両手をお頭が下ろす。

 そして、笑いながら言った。


「幸せいっぱいって顔をしてやがる」

「!」


 フェリシアが、腰のナイフに手を掛けてお頭を睨んだ。

 だが、その顔は真っ赤だ。


「本気で惚れちまいそうなほど、いい女になったな」

「いい加減に……」


 フェリシアが、ついにナイフを抜いた。抜いたはいいが、まるで構えがなっていない。

 動揺がありありと見て取れた。


「ははは、冗談さ。いや、いい女になったってのは本当だが、別にあんたをからかうつもりで言ったんじゃあない」


 慌てて両手を挙げ直して、だがお頭は、フェリシアを楽しそうに眺めている。そのお頭が、急速に顔を引き締めて、フェリシアの肩越しにマークを見た。


「困ったことがあったら尋ねて来いって、あんた言ったよな?」

「はい、言いました」


 マークが即答する。

 それを聞いて、お頭が言った。


「あんたに、頼みがある」

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