幕間-おじちゃん-
人質
「どけ! どいてくれ!」
血まみれのナイフを振り回して走る男に、通りを歩く人々は悲鳴を上げながら逃げ惑った。慌てて道の端に避けた人たちは、しかし駆け抜けていく男の背中を見て首を傾げる。
男は、衛兵の制服を着ていた。
「そっちへ行ったぞ!」
「逃がすな!」
続けて聞こえてきた怒号に、人々は首の向きを変えた。その目が捉えたのは、衛兵の集団。
人々は、口をぽかんと開けたまま、奇妙な追跡劇を見送っていた。
逃げる男は、左手に大きな封筒を抱えている。それを抱えるように持ち直して、男が怒鳴った。
「どけっ!」
「ひえっ!」
体のすくんだ女性が、動けなくなって棒立ちになる。男はそれをかろうじてかわしたが、そのせいで大きく減速してしまった。
人が多過ぎる!
男は、再び加速しながら考える。そして、突然進路を北へと変えた。
「曲がったぞ!」
後ろの衛兵たちも、それを追って角を曲がる。
追跡劇は、人の多いアルミナの中心部から、比較的人気の少ない北東区域へと移っていった。
男が走りながら周りを確認する。この辺りは、区画整理が進められている地域だ。空き家や、建物を取り壊した跡地が目立つ。おかげで、人はほとんどいない。
格段に走りやすくはなったが。
ここに来たからって、向かう当てがある訳じゃあないんだけどな
苦笑しながらも、男は追跡を逃れる手段を考えていた。
すると。
「いたぞ!」
正面から、別の衛兵の一団が向かってくる。振り向けば、追跡してきた一団もすぐそこにいた。両側が建物に囲まれた一本道。逃げ場はない。
「くそっ!」
咄嗟に男は、左手の建物の扉に手を掛ける。しかし、扉は鍵が掛かっていて開かなかった。
「そこまでだ!」
衛兵の声を間近に聞きながら、それでも男は諦めない。通りの反対側には廃屋。かろうじて玄関扉は残っているが、二階の窓にはガラスもない。男は、そこに飛び込もうとした。
その時。
ガチャ
住人がいないはずの廃屋の玄関が開く。
「!」
驚いて目を丸くする男の目の前で、それ以上に目を丸くして立ちすくんでいる、小さな女の子がいた。
一瞬のためらい。
次の瞬間。
「動くな!」
男は、女の子を後ろから抱きすくめると、衛兵にナイフを突きつけて叫んだ。
「貴様!」
憎々しげな表情で、衛兵たちが男を睨む。
はぁ、はぁ、はぁ……
走り続けてきた男たちの荒い息遣いだけが聞こえてくる。男も衛兵たちも、すぐには言葉を交わすことができないほど呼吸が乱れていた。
突然の出来事に呆然としているのか、それとも恐怖で声が出ないのか、女の子も無言だ。
不思議な睨み合いの中で、息を整えながら男は考える。
もう逃げられない。ならば……
「ごめんな」
小さな声で、男が囁いた。
続けて。
「動くんじゃねぇぞ! 動けばこの子を殺す!」
ナイフを女の子の喉元に当てながら叫んだ。
男の真正面にいた衛兵が叫び返す。
「脅しは通用しないぞ! 貴様に罪のない子供を殺せるはずが……」
「甘いな!」
男の声に、衛兵は黙った。
「追い詰められた犯人ってのは、何をしでかすか分からない。お前だって知っているだろう?」
「くっ!」
「人質を取った犯人に下手な刺激を与えてはならない。そうだよな?」
ニヤリと笑う男の前で、衛兵が唇を噛んだ。
「動くなよ!」
もう一度言って、女の子を抱えたまま男は廃屋へと駆け込んだ。そして扉を閉め、女の子を放す。
「持ってろ!」
封筒を強引に女の子に押しつけ、ナイフをベルトに差すと、男は部屋に残っていた大きな食器棚をズルズルと引きずって、驚くほど素早く玄関を塞いだ。
「これが火事場の馬鹿力ってやつだな」
やけくそ気味につぶやいて、男は再び小さな手を取った。
「来い!」
無言のままの女の子を強引に引っ張りながら、二階へと駆け上がる。そして、窓枠しか残っていない窓から身を乗り出して、声を張り上げた。
「入ってくるんじゃねぇぞ!」
悔しげな衛兵たちを一瞥して、男は部屋の奥へと引っ込んでいった。
「応援を呼べ!」
外の怒号を聞きながら、男は女の子の前に立った。走り続け、怒鳴りまくっていた今の自分が、優しい顔をしているはずもない。そんな顔で言ったところで意味などないとは思いながらも、男は言わずにいられなかった。
「まあその、何て言うか……ごめんな」
関係のないことに巻き込んでしまった女の子を、男はまともに見ることができない。ちらりと目をやると、押しつけられた封筒を、女の子はしっかりと両手で抱えていた。
「お前に危害は加えない。だから……」
「おじちゃん」
突然、声がした。驚いた男が、初めてまともに女の子を見る。そして男は、さらに驚くような言葉を聞いた。
「右手、痛いの?」
「えっ?」
女の子が近付いてくる。
「血がいっぱい出てる。手、痛い?」
「あ、いや……」
戸惑う男の目の前で、女の子は封筒を床に置いて、ポケットからハンカチを取り出した。それをぎごちない手つきで、男の右腕に巻いていく。
「私、お母さんみたいな魔法、使えないの。だから、これで我慢してね」
そう言いながら、女の子は一生懸命ハンカチを結ぼうとしている。
男は目を見開いた。言葉が出てこなかった。
鍛えられた太い腕に対して、女の子が持っていたハンカチは、少しだけ小さかった。女の子は、苦労をしながら真剣な表情でハンカチを結んでいる。
やがて。
「できた!」
嬉しそうに女の子が笑った。
おひさまみたいに、女の子は笑った。
「お嬢ちゃん、名前は?」
我に返った男が、ちょっとぶっきらぼうに聞く。
女の子が答えた。
「私、リリアっていうの」
栗色の髪を揺らし、茶色の瞳を真っ直ぐに向けて、元気に女の子は答えた。
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