絵画の光景
……風?
ふと、頬に空気の流れを感じた。
あり得ない。侵入を防ぐために、窓は必ず閉めて寝ている。
だが。
……やはり、風
男は右手をそっと動かして、枕の下の短剣を探った。
魔力は感じない。
危険な気配も感じない。
昔のような鋭い感覚は失ってしまったが、今とて殺気を見逃すほどには落ちぶれていないはずだ。
敵ではないのか?
男は、ゆっくりと目を開けた。そして、慎重に辺りを見回す。
レースのカーテンがかすかに揺れていた。
やはり開いている
ここは屋敷の最上階。地上からだろうと空からだろうと、この屋敷の警備を掻い潜ってあの窓に辿り着ける者などいない。
そのはずだ。
男はもう一度目を閉じて、神経を集中させる。
そして。
ガバッ!
その体型からは想像できないほど、男は機敏に飛び起きた。
短剣を構え、険しい表情で周囲を警戒する。
やがて。
「誰も、いないのか?」
小さくつぶやいて、でっぷりとした体をドスッとベッドに落とした。
「ふぅぅ」
息を吐き出して、枕元に視線を落とす。
その目が、差し込む月明かりの中に浮かび上がる一通の封書を見付けた。
「!」
心臓が激しく鼓動を刻む。
再び周囲を警戒する。
しかし、部屋の中にはやはり誰もいなかった。
男がじっと封書を見る。そして、それを手に取った。
やけに分厚い封書だ。宛先は自分。はっきりと名前が書いてある。
「ふん、ご丁寧なことだ」
だが、さすがに差出人の名前は書いていないだろう。
そう思いながら、男は封書を裏返した。
「!」
男の心臓が跳ね上がる。大きく開いた目で、そこに書かれた文字を凝視する。
やがて男は、乱暴に封書を破って、中から手紙を取り出した。
薄明かりの中で、その目が文字をたどる。一枚目から二枚目、三枚目へ。小刻みに震える手で、次々と便箋をめくっていく。
すべてを読み終えた男は、手紙をベッドに叩き付けた。
「おのれぇ!」
鬼のような形相で、揺れるカーテンを睨み付ける。
そしてギリギリと奥歯を鳴らし、目を血走らせながら、絞り出すように言った。
「エム商会の、マーク!」
短剣を握り締めた男が、激情に任せてそれを振り上げる。だがそれは、どこにも突き立てられることはなかった。
男がだらりと腕を下ろす。
「奴はいったい、何者なんだ」
散らばった手紙を呆然と眺めながら、男は力無くつぶやいた。
「これと同じ手紙を、公爵に届けたっていうのか?」
「そうです」
「こいつを国中にバラ蒔くって言われたら、そりゃあ言う通りにするしかないわな」
裁判当日の朝。署長のもとに、公爵からの使者が来た。
裁判は中止
エム商会のマークは、すぐ釈放するように
その使者を丁重に見送って、署長は気持ちよさそうに笑った。
そして今、署長室のソファで、そのマークと一緒にお茶を飲んでいる。
今回の件を、一緒に解決してみませんか
伝言を聞いた署長は、中堅の衛兵が心配してしまうほど長い間動かなかった。やがて署長は、中堅を睨みながら言った。
「話を聞こうか」
署長は、そのまま応接室へと向かい、マークと話をした。
いくつかのやり取りの後。
「署長さんが望む結果と、俺が望む結果は、どうやら同じようですね」
マークがにこやかに微笑む。
「そこで、署長さんにお願いがあるのですが」
署長は、マークの願いを受け入れた。部下にいくつか指示を出して、自分はカミュ公爵の屋敷へと向かう。
そして、何食わぬ顔でファルサとアウァールスの扱いについて相談していた。
「お前、いったいどこまで分かっていたんだ?」
ずっと署内に軟禁されていたはずマークが、鮮やかなまでに問題を解決してみせた。
呆れ半分、畏れ半分で署長が聞く。
「いくつか考えていた仮説と、いくつか立てていたシナリオの一つが当てはまったっていうだけですよ」
あっさりとマークが答えた。
「まあ、今回は運がよかったんだと思います。公爵と関係の深い人物を捕らえることができたり、貴重な情報提供者が現れたり」
「情報提供者ね」
署長は苦笑い。
危なっかしい部下たちの顔を思い浮かべる。
「署長さんのおかげでファルサともゆっくり話ができましたし、不思議なことに、裁判の日程もずれてくれましたし。本当に運がよかったです」
マークが微笑む。
署長はやっぱり苦笑い。
「しかし、本当にこの手紙を公爵の部屋に直接届けたのか? あの屋敷に忍び込める奴なんて、少なくともこの国にはいないと思うんだが……」
「まあ、うちは何でも屋ですから」
「何でも過ぎだろ!」
呆れ顔で署長が言う。
「そもそも、あのファルサからどうやってこれだけの情報を……」
「意識の揺らぎを感じるんだそうです。奥義の応用だって言っていました」
「……意味が分からんのだが」
「これ以上は企業秘密です」
もはや署長に言葉はなかった。
「まったく。お前さんは、本当にとんでもない奴だな」
顔に苦笑いが張り付いてしまった署長の前で、マークが笑う。
「いやいや、俺じゃなくて、うちの社員が凄いんです。何たってあの六人は、俺の自慢の社員たちですからね」
迷いなくマークは言った。
本当に自慢げに、マークは言い切った。
「自慢の社員、か」
俺には言えないセリフだな
寂しげに署長がうつむく。
「ところで、よかったんですか? この手紙を読んでしまって」
今度はマークが署長に聞いた。
「署長さんの望んだ通り、”穏便に解決する”ことができたんですから、中身なんて知らない方が署長さんにとっては安全だったと思うのですが」
ファルサの拷問の件は、公爵に知られていない。エム商会に協力していた衛兵がいることも、おそらくバレてはいないだろう。
手紙の内容は、たとえ署長であっても知り得ないようなことばかり。公爵が署長を疑う要素は少ないはずだ。
あえて危険な情報を握る必要はないと思うのだが……。
「あなたが署長に就任する時も、公爵はいい顔をしていなかったと聞きました。あまり下手なことはしないほうがよいのでは?」
自ら手紙が見たいと言ってきた署長を、首を傾げてマークが見ている。
「ほんとにいろいろ知ってやがる」
感心したようにマークを見た署長が、体を起こして、テーブルのカップに手を伸ばした。それをゆっくりと持ち上げて、一口すする。
「まあ、お前の言う通りだ。俺が署長になるなんて、俺だって思ってなかったくらいだからな。どう考えても公爵の望む人事じゃあなかった。だから俺は、ずっと公爵に気を遣ってきた」
また一口すすって、コトリとカップを置く。
「お前の一件も含めて、俺は公爵の言うことをできる範囲で聞いてきた。その甲斐あって、今ではそこそこ信用してもらっているよ」
「だったらなおさら……」
不思議そうなマークに、署長が言う。
「何たって、うちの馬鹿どもがやっちまったからな」
ニヤリと笑って、署長が言った。
「俺も、”首を突っ込んではいけない”ってことに、首を突っ込んでみたくなったのさ」
その表情は、晴れやか。
晴れやかに署長は笑っていた。
マークも笑う。
にこやかにマークも笑い、そして言った。
「困ったことがあったら連絡をください。絶対に、とは言えませんが、力を貸すことはできるかもしれませんので」
「まったく。衛兵本署の署長に、一般市民が偉そうな口叩きやがって」
ちょっと怖い顔で、署長がマークを睨んだ。
「だが」
その目はやっぱり笑っていた。
「まあ、そうだな。困った時は、そうさせてもらおう」
「はい。その時は、良心価格で対応させていただきます」
「はっ、ちゃっかりしてやがる!」
笑い声が室内に響く。
爽やかな風が、楽しげにカーテンを揺らしていた。
「本当にいろいろお世話になりました」
「いや、俺たちは何も……」
中堅、ベテラン、若手の三人が、ちょっと気まずそうに、だがちょっと嬉しそうに笑う。
「お母様とご自身のお体を、どうぞ大切になさってください」
「この恩は、絶対に忘れない」
左の胸に手を当てて、一人の衛兵が真っ直ぐにマークを見つめる。
「では」
署内に向けて深く一礼をして、マークは、正面玄関から建物の外に足を踏み出した。
明るい日差しを浴びて、マークが少し目を細める。その目が、正面を見て微笑む。
一歩、二歩、三歩。
数歩進んだところでマークが止まった。
少しだけ足を広げて、自然に、緩やかに、マークは立った。
そこに。
「社長! ぐえっ!」
駆け出すミアの首根っこを、ヒューリが掴んで引き戻す。
その隣で、ミナセが少女の背中をそっと押した。
「さあ」
「でも……」
少女がうつむく。
「行きなさい」
「フェリシアさん……」
少女がフェリシアを見上げる。
「じれったい!」
珍しくシンシアが大きな声を出した。
そして、両手で少女の背中をグイグイと押し始める。
「ちょ、ちょっと!」
押されるがままに、少女は前へと進んだ。数歩進んだところで急に手を放されて、慌てて半歩下がって体を支える。その足をゆっくりと戻して、マークの目の前に、少女は立った。
胸の前で両手を組み、地面を見つめて少女は立つ。
視界の片隅に、マークの足が見えた。それだけで、少女の心臓は早鐘を打ち出す。
感情が高ぶっていく。
胸が熱くなっていく。
おかえりなさいって、言わなくちゃ
お疲れ様でしたって、ちゃんと笑わなくちゃ
少女はそう思っていた。そうしようと、思っていた。
なのに、言葉が出てこない。顔を上げることもできない。
少女はぎゅっと、目を閉じる。
溢れ出す想いを必死に押さえ込む。
だけど。
「リリア」
声を聞いた、その瞬間。
「ただいま」
大きな手が髪に触れた、その瞬間。
リリアの我慢はどこかに飛んで行ってしまった。
そしてリリアは飛び込んだ。
「社長!」
優しくて暖かくて、大好きなその人に、リリアは飛び込んでいった。
「社長!」
五人が駆け寄る。
五人が、リリアごとマークに抱き付く。
「みんな、ただいま」
「おかえりなさい!」
優しい風が吹く。
暖かい日差しが降り注ぐ。
七人の笑顔と涙が創り出したその光景は、心を震わせる美しい絵画のように、道行く人々の記憶に、見送る衛兵たちの胸に、強く、深く刻まれていった。
第十章 了
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