白銀の光

 輝き始めた太陽が二人を照らす。

 一日の始まり。戦いの、終わり。


「三人まとめて、斬る」


 静かにストラースが言った。


 そしてストラースは、剣を構えて静止する。

 ミナセも、刀を構えて動かない。


 次で決まる。

 ミナセはそう感じた。


 次で決める!

 ストラースはそう決意した。


 次で負ける。

 ミナセは、そう思った。


 次で勝つ!

 ストラースは、そう確信した。


 風が吹く。

 ミナセの黒髪が揺れた。

 静止していたミナセの心に波紋が広がっていく。


 旅に出てから、ミナセは父以上の相手と巡り会うことがなかった。その美しい体には、小さな傷一つない。

 父と過ごした修行の日々で、死ぬかもしれないと思ったことは何度もあった。だが、そんな時でも、近くには必ず父がいた。


 対して。


 生と死の狭間を、ストラースは渡り歩いてきた。体に刻まれた無数の傷が、その戦歴を物語っている。

 孤独の中で、ストラースは常に死と隣り合わせにいた。


 肉体の強さとは別の強さ。

 本物の死地を知る者と、知らない者。

 二人の決定的な違いが、最後の場面で出る。


 ミナセは、震えていた。


 死ぬのは怖い

 死ぬのはいや


 ミナセの心が乱れる。


 生きていたい

 私は、もっと生きていたい!


 ミナセの心が叫ぶ。


 ミナセは後悔していた。

 戦いを始めてしまったことを、戦う決断をしてしまったことを、ミナセは後悔していた。


 ミナセの瞳から光が消えていく。

 闇がミナセを支配していく。


「残念だ」


 ストラースが言った。


「お前がそれほど無様な姿を晒すとは、本当に残念だよ」


 震えるミナセを見て、ストラースがため息をつく。

 もはやミナセは、戦える状態ではなかった。


 焦点の合わない目。

 その目には、涙。


 こわばる体で必死に刀を構えてはいるが、その姿は、剣士でもなんでもない、ただの無力な女でしかなかった。


 無敵のミナセ。

 エム商会最強の剣士。


 そのミナセが、誰も見たことのない姿で立っている。

 青ざめた顔で、やっとの思いで立っている。


 お父様助けて!


 ミナセが叫ぶ。


 お母様、私を助けて!


 子供のミナセが叫ぶ。


 ミナセの切っ先が下がっていった。

 ストラースの剣が振り上げられた。


 ミナセが目を閉じる。

 ストラースが、前に出る。


 終わりだ


 二人は、そう思った。


 ……と。


「……貴様、何をする気だ?」


 ストラースの声がした。

 固く閉じていた目を、ミナセがゆっくりと開く。

 ストラースが、何かを見ていた。

 剣を下ろして間合いを取りながら、警戒するように誰かを見ている。


 ふいにミナセは気付いた。

 背中が暖かい。

 

 これは……手のひら?


「ミナセさん」


 声がした。

 それは、マークの声。


「最初の仕事、覚えていますか? ミゼットさんのお店のお手伝い。ミナセさん、うまく笑えなくて苦労していましたよね」


 突然昔の話をされて、ミナセは戸惑う。


「でも、ミナセさんはきれいに笑えるようになりました。最高にステキな顔で笑えるようになりました」


 そんなこと、急に言われても分からない。

 自分がうまく笑えるようになったのかなんて、分からない。


 だけど、社長にそう言われると、ちょっと嬉しい


 落ち着いた静かな声。

 いつものマークの声。

 ミナセの気持ちも落ち着いていく。


「二人から始まったうちの会社も、いつの間にか仲間が増えていきました」


 そう、最初は二人だった

 それがだんだんと仲間が増えていって……


「リリア、ヒューリ、シンシア、フェリシア、そしてミア」


 五人の顔が浮かんできた。

 五人の声が聞こえてきた。


「仕事も増えて、うちの会社は大忙しです。だからね」


 ポン


 軽く背中を叩かれた。


「ミナセさんには、もっともっと活躍してもらわなければ困ります」


 そうだった

 明日も私は、仕事が入っているんだった


 刃を前にして思うことではなかった。

 そんな日常的なことを考えている状況ではなかった。


 だけど。


 そんな日常的なことが、ミナセの気持ちを変えていく。


「こんなところでヘコタレている場合じゃないんですよ」


 ミナセが、顔を上げた。


「何たって、ミナセさんは、俺の自慢の社員なんですから!」


 マークの言葉が体に染み込んでいく。

 その手のひらから、不思議な力が流れ込んできた。


 その時。


 穏やかだった空気が変わる。暖かだった空気が変わる。

 マークの放つ気が、変わった。


「ミナセ」


 ピクリとミナセが反応する。


 そしてミナセは聞いた。

 それは大きな声ではなかったが、心に響いたその声は、ミナセが驚くほど、力強かった。


「俺がお前のそばにいる。だから、安心するといい」


 その声を聞いて、ミナセは安心したように体から力を抜いていった。

 息をゆっくり吐き出しながら、穏やかに微笑む。


「社長」


 ミナセが言う。


「私って、やっぱりバカでした」


 そう言って、少しうつむく。


「こんなに近くにいたのに……」


 ミナセの心が開いていく。


「こんなに近くにいてくれてたのに……」


 ミナセの心が広がっていく。


「私は一緒にいたい」


 ミナセは認めた。


「私は社長と、ずっと一緒にいたい」


 ミナセは今、はっきりと自分の気持ちを認めた。


「私は、あなたのことが……」


 続きの言葉は、ミナセの口から出なかった。

 しかしその言葉は、胸の中でマークに伝えたその言葉は、ミナセの心を無限の彼方までいっぱいの幸せで満たしていった。


 ミナセの頬がかすかに染まる。

 少女のようにはにかむ。


「私は帰ります」


 穏やかにミナセが言う。


「みんなのところに、社長のところに、私は必ず帰ります」


 マークが答える。


「待っているよ」


 マークが笑って答えた。


「ミナセ。俺はお前を待っている」


 マークが離れていく。

 ミナセが前を向く。


 ミナセの気が急速に鎮まっていった。

 その体が、その心がほどけていった。


 そして。


「我は鏡、我は水……」


 ミナセが何かを唱え始めた。

 ストラースの耳が、それを捉える。


「映せ、すべてを映せ。沈め、水底へ沈め」


 ストラースの目に動揺が走った。


 まさか!


 ミナセの声が響く。低く、涼やかに響く。


「その身を捨てよ、心を放て」


 ミナセの瞳が不思議な光を帯びてくる。

 ストラースの目が広がっていく。


「見ろ、見るな。聞け、聞くな。世界は無なり。故に無限なり」


 ミナセの感覚が研ぎ澄まされていく。

 時の流れが止まっていく。


「我は汝、汝は我」


 ミナセは感じる。

 ストラースの呼吸、魔力の流れ、血液の流れ。


 ストラースは感じる。

 あの時感じたものと同じ恐怖。


「いざ映さん、曇りない鏡のおもてに。いざ参らん、静かなる水の中へ……」


 ミナセは捉えた。

 ストラースの気配。ストラースの、心。


 ミナセが言った。


「奥義……」


 ストラースの目を見て、静かに言った。


「明鏡、止水」


 突然、ミナセの足元に水が湧き出した。

 水は、音もなく、急速にその領域を広げていく。


「そんなバカな!」


 ストラースが叫んだ。

 目は限界にまで広がり、全身には鳥肌が立っている。


「こいつ!」


 水は勢いよく湧き出している。それなのに、その水はさざ波一つ立てていない。

 静かに、鏡のように、水の領域が広がっていく。


 この状況で、奥義に到達したっていうのか!?


 水はすでにストラースの足元に達していた。

 その水位が、徐々に上がっていく。

 

 奥義、明鏡止水。


 ウィルが会得した奥義。相手の心と同調し、相手を支配する究極の技。

 いまだかつて二人しか到達し得なかった至高の境地に、ミナセは、今辿り着いた。


 体が動かない。

 ストラースは、指一本動かすことができなかった。


 水がストラースを飲み込んだ。極度に透明度の高い、恐ろしく静かな泉の底に沈んだような感覚。


 何もできない。呼吸すらできない。

 それなのに。


 何かが近付いてくる。

 音もなく、静かに何かが近付いてきた。


 まただ。また、俺がやってくる。


 大剣を構えたストラースがやってくる。

 動けないはずの自分が、自分を倒しにやってくる。


 あの時と同じだ!


 ストラースの心に小さな炎が生まれた。

 

 俺はこの奥義を……


 その炎が大きく燃え上がっていく。


 何度でも破る!


 突然ストラースの体が燃え上がった。

 周囲の水が、炎と激しくぶつかり合う。


 俺はこいつを斬る!


 水の中で、ストラースの炎が勢いを増していく。

 地獄の業火と見まがうほどの真っ赤な炎が、水を寄せ付けまいと激しく噴き出していた。


 自分の姿が消えた。

 ミナセの姿が見えた。


 勝てる!

 俺は今度も勝てる!


 そう思った。

 そう思ったのに。


 そんな!


 水の圧力が、さらに増していった。

 生まれ出る炎が次々と消されていく。


「父は言っていた。自分はまだ奥義を極めてはいないと」


 ミナセの声が聞こえた。


「私は、父の意志を受け継いだ」


 動けないストラースの耳が、その声を聞く。


「父が歩くはずだったその道を、その道の先を、私がかわりに歩いていく!」


 ミナセが刀を振り上げた。

 何も抗がえないまま、ストラースはそれを見ていた。


 俺は勝てないのか


 動かせない唇を噛む。


 俺はやっぱり手に入れられないのか


 閉じることのできないその目でミナセを見据えた。

 そのミナセに、違う女性の姿が重なる。


 初めてその人を見た時、それは運命だと思った。

 剣一筋で生きてきた人生に、突然飛び込んできた美しい女性。

 

 眠りにつく前に、必ずその人の姿を思い浮かべた。

 朝起きて、何より最初にその人のことを考えた。


 愛おしくて、切なくて、やるせなくてどうしようもない気持ち。


 この人と一緒に生きていけたら。

 この人と一緒に暮らしていけたら。


 俺は思った。

 俺はそう、思ったんだ。


 だから俺は……

 

 目の前のその人を強く見つめる。


 この人に振り向いてほしくて……


 奥歯をぎりりと噛み締める。


 死ぬ気で修行をしてきたんだ……


 自分に命じる。


 動け……


 自分の体に命じる。


 体よ動け……


 全身全霊で自分に命じた。


 俺はこんなところで……


 ストラースの炎が再び燃え上がる。 


 この人の目の前で……


 重ねてきた想いが心の中で弾ける。


 死ぬ訳にはいかないんだ!


 錯綜する想いが、爆発するように膨れ上がっていった。


「うおぉぉぉぉっ!」


 ストラースの体が高温で揺らめく。

 高まる水の圧力を、激しく噴き出す炎が押し返す。


「俺は絶対、こいつに勝つ!」


 動けなかったはずのストラースが叫んだ。


「俺は勝ぁぁつ!」


 猛獣が咆哮を上げるように叫んだ。


 ミナセの刀が真上から落ちてくる。

 それを弾き返さんと、ストラースが剣を振り上げる。


 あり得ないことが、また起きた。

 ウィルより高みに辿り着いたミナセの奥義を受けてなお、ストラースは動いた。


 そんな!


 ミナセが驚愕の表情を浮かべる。


 この男に奥義は通用しないのか!?


 ミナセの心が震えた。

 ミナセの心を、再び恐怖が覆っていった。


 その時。


 大丈夫。心配いらないよ、ミナセ


 ふわり


 柔らかな光がミナセを包み込む。

 肩と、頭と、頬が暖かい。

 ほんの少しのびっくりと、すごくたくさんの安心で、ミナセの震えが止まった。


 心が凪いでいく。

 心が満たされていく。


 ミナセが両手を広げた。

 自分を包む柔らかな光。暖かくて優しくて、とても懐かしい光。

 穏やかに微笑みながら、ちょっと甘えるように、しっかりとミナセは、それを抱き締めた。



「うおぉぉぉぉぉっ!」


 ストラースが叫ぶ。全身に炎をまといながら、ストラースが叫ぶ。


 ミナセの刀を下から弾き返す。そしてそのまま大剣をミナセに叩き付ける!


「終わりだ!」


 ストラースは描いた。戦いの終焉を。


「お前たちの技は通用しない!」


 ストラースは描いた。地に横たわるミナセの屍を。

 しかし、ストラースはそれとは違う現実を見る。


 刀が光っている?


 目の前にミナセの刀が迫る。

 その刀が、白銀色の光を放っていた。


 突然ゆっくり流れ出した時間の中で、ストラースは見ていた。

 ミナセの刀が、自分の大剣を切り裂いていく。

 アダマンタイトできた秘宝が、人の手では作り出すことのできない秘剣が、まるで紙のようにあっさり両断されていく。


 光が自分に迫ってきた。

 その光の中に、ストラースは見た。


 吸い込まれそうな黒い瞳と、美しい黒髪。


 ズザァァァ!


 大剣を切り裂き、ストラースの体を切り裂いて、ミナセの刀が振り切られる。

 血飛沫を上げながら、ストラースが地面に倒れていく。


「ミズキさん……」


 吹き上がる血潮にかき消され、その最期の言葉は、ミナセでさえも聞き取ることはできなかった。



「はあ、はあ……」


 両腕を垂らしたミナセが、肩で息をしながらストラースを見る。

 その不思議な死に顔を、黙って見つめる。


「お父様」


 ぽつりとつぶやいた。


「お母様」


 小さくつぶやいた。


「私はやっと……」


 そしてミナセは目を閉じた。支えを失った体が崩れ落ちていく。

 その体を、力強い腕が受け止めた。


「よく頑張ったな。お疲れ様」


 暖かな腕の中で、ミナセは微笑んでいた。

 それはまるで、うららかな春の日差しの中にでもいるような、とても穏やかな微笑みだった。

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