奥義
傾き始めた太陽が長い影を作る。
一日の終わり。戦いの、終わり。
ストラースは動かない。
ウィルも動かない。
それは、おそらく次の、この戦い最後の攻防のための準備。
次で決まる。
次で、終わる。
ストラースが描く結末、ウィルが覚悟する結末、ミナセが否定しようとする結末。
それは、みな同じだ。
「先生」
ストラースが口を開いた。
「俺は、先生を尊敬しています」
長身から見下ろすように話す。
「そしてね、感謝もしているんです」
その目が妖しく揺らめいた。
「俺がこんなに強くなれたのは、先生のお陰なんですからね」
唇が徐々に吊り上がっていく。
「終わりです」
気持ちの悪い笑みを浮かべてストラースが言う。
「俺が、あなたを殺してあげます」
悪魔のような笑みを浮かべて、ストラースが言った。
物語の中に出てきた死に神。幼いミナセを怯えさせた恐ろしい存在。
それが今、目の前にいた。
それが今、ウィルの命を絶つためにそこにいた。
ミナセが歯を食いしばる。
ミナセが拳を強く握り締めた。
神様、お父様を助けて!
ミナセが祈る。
お母様、お父様を守って!
ミナセは祈った。
その願いが、心の声が、言葉になる。
「お父様!」
ミナセの口から魂の叫びが迸る。
「諦めてはいけません!」
ミナセは泣いていた。
「お父様!」
ミナセは叫んだ。
「私は、お父様を失いたくありません!」
その叫びを、ウィルが聞く。
「私はもう、家族を失いたくありません!」
その叫びを、耳で、全身で、魂で、ウィルは聞いた。
肩で息をしていたウィルが、大きく息を吸い込んで、それをゆっくりと吐き出す。
「ミナセ、悪かった」
ウィルが言った。
「俺も、お前と同じだ」
その顔には、微笑み。
その顔には、かすかな微笑みが浮かんでいた。
「俺ももう、家族と離れるのはごめんだ!」
ウィルが叫んだ。
心の底から叫んだ。
次の瞬間。
ウィルの気が急速に鎮まっていく。
その体が、その心がほどけていく。
そして。
「我は鏡、我は水……」
ウィルが何かを唱え始めた。
ミナセの耳が、それを捉える。
何をする気だ?
ストラースが怪訝な顔をした。
「映せ、すべてを映せ。沈め、水底へ沈め」
ウィルの声が響く。低く、涼やかに響く。
ミナセが両手で口元を押さえる。
「その身を捨てよ、心を放て」
ウィルの瞳が不思議な光を帯びてくる。
ミナセの瞳が、その姿を見つめる。
「見ろ、見るな。聞け、聞くな。世界は無なり、故に無限なり」
ウィルの感覚が研ぎ澄まされていく。
時の流れが止まっていく。
ミナセが再び泣き出した。
「我は汝、汝は我」
ウィルは感じる。
ストラースの呼吸、魔力の流れ、血液の流れ。
ミナセは感じる。
父の呼吸、父の心。
「いざ映さん、曇りない鏡のおもてに。いざ参らん、静かなる水の中へ……」
ウィルは捉えた。
ストラースの気配。ストラースの、心。
ミナセは捉えた。
目に見えない世界の広がり。父の体から溢れ出す、未知なる力。
ウィルが言った。
「奥義」
ストラースの目を見て、静かに言った。
「明鏡、止水」
突然、ウィルの足元から水が激しく湧き出した。
急速に、音もなく、水はその領域を広げていく。
「バカな!」
ストラースが目を剥いた。
ウィルとの戦いは、いつもそうだ。
ウィルを中心に水面が広がっている。その水面に、自分の心が波紋となって現れる。自分の動きが事前に分かってしまう。
そんな感覚を覚えてしまうほどの、静かで圧倒的なプレッシャー。
だが、今目の前で起きているのは……。
「本物の水!?」
水は勢いよく湧き出している。それなのに、その水はさざ波一つ立てていない。
静かに、鏡のように、水の領域が広がっていく。
錯覚だ! これは錯覚なんだ!
ストラースは念じた。
消えろ! 錯覚なら、とっとと消えてしまえ!
だが、水はすでにストラースの足元に達している。
その水位が徐々に上がっていく。
これが奥義……
体が動かない。
必死に足掻こうとするが、ストラースは、指一本動かすことができなかった。
奥義、明鏡止水。
流派の始祖と、そしてウィルだけが会得することのできた技。
相手の心と同調し、相手を支配する究極の技。
水がストラースを飲み込んだ。極度に透明度の高い、恐ろしく静かな泉の底に沈んだような感覚。
何もできない。呼吸すらできない。
それなのに。
何かが近付いてくる。
音もなく、静かに何かが近付いてきていた。
それを、ストラースの目が捉えた。
その顔が凍り付く。
あれは……俺?
大剣を構えたストラースがやってくる。
動けないはずの自分が、自分を倒しにやってくる。
恐怖。
ストラースの心に、凍り付くような恐怖が生まれた。
これが、先生の力……
理屈は分かっている。今自分は、先生に心を支配されているだけだ。
そう思うのに。そう分かっているのに。
体が動かない。
心が動いてくれない。
ストラースが、水の中をゆらゆらと近付いてくる。
ストラースが、それを睨み付ける。
何もできなかった。
自分を睨むこと以外、ストラースには何もできなかった。
届かないのか……
絶望がストラースを覆いつくす。
これほどの修行を積んでも、俺は先生に届かないと言うのか!
闘志が消えていく。
ストラースは笑った。
動かすことのできないその顔で、自分を嘲るように笑った。
こんな終わり方もありかな
終焉を、死を、ストラースが受け入れる。
閉じることすらできない目を、ストラースは閉じていく。
……と。
その視界の片隅に、ストラースは、黒髪の美しい女性を見付けた。
自分と、別の誰かを見つめる黒い瞳。
閉じ掛けていた目を、ストラースが再び開く。
その目を大きく開いていく。
あの人に振り向いてほしくて……
その人を強く見つめる。
俺は死ぬ気で修行をしてきたんだ……
奥歯をぎりりと噛み締める。
動け……
自分に命じる。
体よ動け……
全身全霊で自分に命じた。
俺は……
ストラースの心に、小さな炎が生まれた。
あの人の前で……
重ねてきた想いが心の中で弾ける。
負ける訳にはいかないんだ!
強烈な意志が、爆発するように膨れ上がっていった。
「うおぉぉぉぉっ!」
突然、ストラースの体が炎に包まれる。
周囲の水が、炎と激しくぶつかり合う。
「俺は勝つ!」
動けなかったはずのストラースが、叫んだ。
「絶対に勝ぁぁつ!」
猛獣が咆哮を上げるように叫んだ。
目の前の自分が消えた。そこには、刀を構えるウィルがいた。
次の瞬間、ストラースの剣が、目の前に迫っていたウィルに向かって真正面から突き出される。
あり得なかった。
あの奥義を受けて動けるなど、あり得ないはずだった。
「お父様!」
ミナセの叫びに、ウィルが反応した。
近距離からの突き。
信じられない速さ。
ウィルはそれを、刀の腹で受けた。
受けながら、後ろに跳んだ。
だが。
「うおぉぉぉぉぉっ!」
ストラースの気迫がウィルを追う。
燃えさかる炎をまといながら、剣がウィルを追った。
キィーン!
鋭い金属音とともに、ウィルの刀が、ミズキの刀が、砕けた。
それでもなお、剣の勢いは止まらない。
「うおぉぉぉぉぉっ!」
剣がウィルを追い続ける。
そして。
ガシュッ!
気持ちの悪い音とともに、ストラースの剣が、ウィルを、貫いた。
世界が止まって見えた。
ミナセはその光景を、一言も発することなく、瞬き一つすることなく見ていた。
ストラースが剣を引く。
ウィルの体が崩れ落ちる。
「いや……」
ミナセがつぶやく。
「いやよ……」
涙が一筋流れ落ちる。
「いやあぁぁぁぁっ!」
ミナセは叫んだ。
天に向かって、世界に向かって叫んだ。
その右手が、剣を抜く。
「殺す」
その顔が鬼と化す。
「お前を殺す!」
凶悪な殺気をまといながら、ミナセは走った。
「許さない! 絶対にお前を、許さない!」
剣を正面に据え、ストラースに向かって全力で走った。
「あぁぁぁぁぁっ!」
裂帛の気合いと共に、ミナセは剣を突く。
相手が何であろうと貫かんとする激しい剣撃。
ミナセの命を載せた、全力の剣撃。
それなのに。
ガキィィーン!
ストラースが、ミナセの剣を叩き折った。
いとも簡単に、ミナセの剣は叩き折られた。
衝撃で、ミナセの体が地面に叩き付けられる。
それでもミナセの闘志は衰えない。
剣を捨て、素早く起き上がってストラースに向き直った。
そのミナセの両手首を、ストラースの左右の手が掴んだ。
「!」
ミナセがまったく反応できないほど、その動きは速かった。
ストラースの手放した剣が、カランと音を立てて、ようやく地面に落ちる。
「放せ!」
ミナセが叫ぶ。
「放せ、けだもの!」
けだもののように、ミナセは叫んだ。
だが、掴まれた両手はまったく動かない。万力で締め付けられたように、ピクリとも動かせなかった。
両腕が、強制的に広げられていく。
ストラースの顔が、ミナセの顔に近付いていく。
「来るな!」
憎しみに燃え上がる黒い瞳がストラースを睨み付ける。
ストラースが、その瞳を間近でじっと見つめる。
そして言った。
「ミズキさん」
「なに?」
ミナセが一瞬、困惑した。
途端、手首が強烈に締め上げられる。
「くっ!」
思わずミナセは目を閉じた。
次の瞬間。
「!」
ミナセの唇が、何かに塞がれた。
ミナセが止まる。
目を見開いて、ミナセは止まった。
手首を掴んでいた力が緩む。
ミナセがそれを振りほどく。
振りほどいた両腕で、ストラースを突き飛ばした。
だが、突き飛ばしたはずのミナセが逆に後ずさる。
「貴様!」
ミナセは怒鳴った。
唇を拭い、悔し涙を滲ませて怒鳴った。
その目の前で、ストラースが言う。
「強くなれ」
落ちていた剣を拾い、ミナセに背を向けながら言った。
「強くなって、俺を倒しに来い」
そう言って、ストラースは歩き出した。
無防備な背中を晒しながら、ゆっくりと道場から出て行く。
ミナセは動けなかった。
折られた剣を拾って斬り掛かることもできたのに。
折られた刃で、その背中を突き刺すことだってできたのに。
ミナセは、動けなかった。
その耳に、低い呻き声が聞こえてくる。
血の海の中で、ウィルがわずかに動いた。
「お父様!」
ミナセが弾かれたように走り出す。
ウィルのもとに駆け寄って、その体を抱き起こした。
「ミナセ……」
ウィルは生きていた。
しかし、その体からは止めどなく血が溢れ出している。
「誰か! 誰か来て!」
大きな声で、ミナセが助けを求めた。
まさにその時、町の人たちが道場に駆け付けてくる。
「医者だ! 医者を呼べ!」
棟梁が叫ぶ。
若い衆が慌てて走り出す。
「ヒーラーを探してくる!」
宿屋の女将が、真っ青な顔で駆け出していく。
「お父様! 今助けます!」
ミナセは、自分の服の袖を引きちぎって、ウィルの傷口にそれを当てた。
「お願い、止まって!」
必死の形相で傷口を押さえる。
「止まって! 止まってよ!」
両手を血だらけにしながら傷口を押さえ続けた。
でも、ウィルから流れ出る真っ赤な血は止まってくれない。
「棟梁! 助けて!」
側に立つ棟梁を見上げる。
「血が止まらないの!」
悲しそうな顔で自分を見る棟梁を、泣きながら見上げていた。
そのミナセの手を、ウィルが握った。
「ミナセ……」
「お父様!」
ミナセがウィルを見た。
傷口を押さえたまま、その顔を見る。
「ミナセ……聞いてくれ……」
弱々しい声がした。
「俺はもう……助からない」
「そんなことありません! 私が……」
「俺は!」
ウィルの強い声が響く。
「俺は、幸せだったよ」
その顔は、穏やかだった。
「ミズキさんと出会えた。ミナセの父親になることができた」
思い出を辿るように、目を閉じる。
「だからね、ミナセ」
ウィルが、ゆっくりと目を開けた。
「お前も、幸せになりなさい」
ミナセの手を、精一杯の力で握った。
「ミナセ……笑ってくれ」
微笑みながら言った。
「笑って俺を……見送って……ほしい」
「お父様!」
ミナセは泣いた。
泣きながら、笑おうとする。
でも。
だけど。
ミナセは笑えなかった。
大きな悲しみが、どうしても涙を止めてくれない。
「ミナセ……笑って……いるか?」
ウィルが聞いた。
「はい……笑って、います」
ミナセは答えた。
心臓を握り潰されるような痛みの中で、嘘をついた。
「そうか」
ウィルの声が消えていく。
「ありがとう」
命の灯火が消えていく。
「俺は……幸せ……だったよ……」
そしてウィルは眠った。
ミナセの手を握ったまま、穏やかな顔で眠った。
「お父様……」
ミナセは泣いた。
ウィルの体を抱き締めながら、いつまでもいつまでも、ミナセは泣き続けていた。
ウィルと門下生たちの葬儀は、町を悲しみに染めて、しめやかに行われた。
ミナセは、葬儀の間、気丈に振る舞った。
弔問客にきちんと挨拶をし、亡くなった門下生の家族に詫びて回る。
ウィルは、ミズキと同じ場所に埋葬された。
すべてを終えたミナセは、道場をたたんで旅に出た。
腰には形見の太刀。
ウィルとミズキの、形見の刀。
「幸せになりなさい」
ウィルの言葉。
ウィルの願い。
だが、ミナセはそれを捨てた。
「強くなれ」
ストラースの言葉が頭から離れない。
「強くなって、俺を倒しにこい」
その言葉が、ウィルの言葉をかき消していく。
ミナセは戦った。
森で、洞窟で、戦場で、ミナセは戦い続けた。
ミナセは彷徨った。
町を、村を、あの男の姿を求めて彷徨い続けた。
そしてミナセは辿り着く。
アルミナの町で、ミナセは、黒い瞳と黒い髪のマークに出会った。
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