白い花

 ミナセは、奪われた視覚以外の全感覚を研ぎ澄まして周囲を探る。

 すぐ近くにいるはずだ。

 どこからやってくるか分からない攻撃を、ミナセは必死に感じようと試みる。

 その鋭くなった感覚が、何かを捉えた。


 ここだ!


 振り向きざま、ミナセは剣を横殴りに払った。

 だが。


「遅い!」


 攻撃は、後ろではなく左からやってきた。


「くっ!」


 遅まきながらそれを感知したミナセが、腰を沈めてかわそうとするが、やはり遅かった。


 シュッ!


 風切り音がした次の瞬間、自分の顔のすぐ横に刃の気配がした。

 動きを止め、目隠しを取ったミナセの目が、寸止めされた剣を睨み付ける。


「参りました」


 悔しそうに唇を噛んで、ミナセはウィルに頭を下げた。



 最近のウィルは、ミナセの感覚を鍛えることに力を入れていた。

 ミナセの剣術の腕は、すでにかなりの域に達している。だが、奥義を修得するためには、それとは違うものを手に入れなければならない。


「我が流派の特徴は、先読みだ。相手のありとあらゆる動きを見極めて、動きを予測する。だが、それだけでは奥義に到達することはできない」


 ウィルが語る。


「体の動きや魔力の流れだけでなく、相手の心の動きまでをも掴み、その心と同調して、相手を支配する。それが目指すべき到達点となる」


 ミズキが頷く。


「静止した水のような心。そして、相手のすべてを感じることのできる鋭敏な心の双方を手に入れた時、お前は奥義を自分のものにすることができるだろう」


 真っ直ぐ自分を見つめるミナセを、ウィルも見つめる。


「剣の修行以外のことにも目を向けなさい。いやなことから逃げず、人から逃げず、それに向き合いなさい。そのすべての経験が、糧となってお前を成長させるのだから」

「はい!」


 力強く返事をするミナセに、ウィルは笑顔を見せた。


「今日はここまで! 着替えを済ませたら、予定通りミズキさんに会いに行こう」


 そう言って、ウィルは優しくミナセの肩に手を置いた。



 春の終わりの暖かな日差しが降り注ぐ、緑の匂いに満ち溢れた草原に父娘はいた。

 あの日三人でやってきた草原。そこに一本だけ立っている木のすぐ横に、ミズキは葬られている。ちょうど花期を迎えたその枝先で、白い花が風に吹かれて揺れていた。

 墓標はない。


「死んだ人間は自然に還るんだ。だから、墓はいらない」


 ウィルの知る限り、ミズキの生まれ故郷では、きちんと墓石を建てて死者を弔うはずだった。そんな風習などまるで無視するような、ミズキらしい遺言。

 ウィルは、それを忠実に守った。


 ミズキの眠っている場所はすでに草に覆われて、その正確な位置はもはや分からない。

 言葉通り、ミズキは、そこで自然と一体となっていた。


「お母様。私、十五才になりました」


 ミナセが、木の根本に花を供えて両手を合わせる。


「いちおう、大人の仲間入りです」


 そう言うと、ミナセはわずかに微笑んだ。

 そんなミナセを、ウィルも微笑みながら見つめている。


 ミズキさん。俺たちの娘は、こんなにも立派に育ちましたよ


 ウィルが、ちょっと誇らしげに胸を張る。

 二人の子供。二人の、生きた証。


 目の前の木を、ウィルが見上げた。木洩れ日が少し眩しい。

 ウィルが、目を細めながら、キラキラと輝く白い花たちに手を伸ばす。その時、ふと懐かしい声が聞こえてきた。


 ウィル、ありがとう


 その目が、愛しい人の笑顔を見る。


「ミズキさん……」


 小さくつぶやいた父を、ミナセが不思議そうに見た。

 ウィルは、泣いていた。

 とても嬉しそうに泣いていた。


 うららかな春の日差しが父娘を包む。

 ミナセ、十五才の春の終わり。


 そしてその日、それは突然、やってきた。



「おい、聞いたか?」

「ああ、今年の武術大会の話だろ? 優勝した男があまりにも圧倒的で、参加者の誰も相手にならなかったって」


 門下生たちが、熱い口調で話している。


 この国で毎年行われている武術大会は、兵士の中から選抜された精鋭や近隣諸国からの招待選手、そして一般参加の強者たちが集う、周辺でも有名な大会だった。

 兵の士気を高めるため、国民のストレス発散のため、そして大会がもたらす高い経済効果のために、毎年国を挙げて開催されている。


 例年白熱した戦いが繰り広げられており、二年続けて同じ者が優勝することは滅多にない。

 その大会で、他を寄せ付けない強さで優勝した者がいるという。


「優勝したのは、長身の剣士だって話だぜ」


 過去の優勝者の中には槍使いや暗器使いなどもいたが、今年の優勝者は剣を使ったようだ。

 魔術師の参加も許されてはいたが、過去に魔術師が優勝したという記録はない。一対一の戦いにおいて、魔法はやはり不利だった。


「うちの先生が出てたらどうだったんだろうな」

「そりゃあ、優勝するに決まってるさ」

「ま、先生そういうの、興味ないけどな」


 ウィルはすでに五十近い。体力のピークはとっくに過ぎている。

 それでも最近、大会の本戦でいいところまで行ったという道場破りの男を、ウィルはあっさりと負かしていた。門下生だけでなく町の人たちも、ウィルが大会に出て活躍する姿を見てみたいと思っているのだが、当の本人にはまったくその気がない。 


「その優勝者、道場破りにでも来ないかなぁ。そうすりゃあ先生の強さが……」


 言い掛けた門下生が、黙り込んだ。


「どうした?」


 話をしていた片方の門下生が、その視線を辿る。

 そして、その門下生も黙った。


 道場の門に、一人の男が立っている。


 背はかなり高い。

 腰には大振りな剣。

 髪はボサボサで、服はボロボロ。

 そしてその目は、獲物を狙う猛獣のようにギラギラしていた。


 その場には十数人の門下生がいたが、みな一様に黙り込んでいる。

 その場にいる全員が、その男の持つ異様な雰囲気に呑まれていた。


 突然、古参の門下生が叫ぶ。


「師範代……? 師範代じゃないですか!」


 そう言いながら、その門下生が男に近寄っていった。


「やっぱり師範代だ。一体どこに行ってたんです? 急にいなくなちゃったから、みんな心配してたんですよ」


 ニコニコと笑う門下生を、男はじっと見下ろしている。

 そして、低い声で言った。


「先生はいるか?」


 地を這うようなその声に、門下生の表情がこわばる。


「あ、いえ、先生は今お出掛けになっています」


 男は、目玉だけをギロリと動かして、道場内を見回した。


「いつ頃戻ってくる?」

「えっと、たぶん、間もなくお戻りになるかと」


 かつての印象とまるで違う相手に、門下生は戸惑った。

 その目の前で、男が、無言のまま剣を抜く。


「師範代、あの、何を……」


 背筋に寒気を感じて、門下生が後ずさった。

 その瞬間。


 ズザアァッ!


 門下生の体から、血飛沫が上がる。


「なんで……」


 断末魔の問いに、冷たい声で男が答えた。


「悪いな、俺の都合だ」

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