幸せの記憶
「もう三十分は経ったわよね」
「そう、ね」
「ほんと、こういう時男ってダメね!」
「……そう、ね……」
「ちょっとあんた、寝てんじゃないわよ!」
「えっ? そうね、そうよね」
「もういいわ……」
茂みに隠れる二人の女将が、小屋の前に立つウィルを見ていた。
三十分は大げさかもしれないが、たしかにウィルは、小屋の前に立ったまま結構長いこと動かずにいる。
「まあ、信じて待ってやろうや」
女性二人の後ろから、棟梁が腕組みをしながら言った。
その三人の視線を受け続けて、ウィルは困っていた。
自分に向けられる鋭い視線は、たとえ視界の外からでもはっきり感じ取ることができる。まさに修行の賜物だ。
三人に見送られて歩き出したウィルが、自分を凝視しながらついてくる気配に気付かぬはずがない。
「はあ……」
巻いたところで意味がないその尾行をずっと意識しながら、とうとう鉱山までやってきたウィルは、諦めて覚悟を決め、小屋に向かって呼び掛けようとしていた。
だが。
「いったいどうやって話をすればいいんだ?」
呼び掛ければ、ミズキは出てくる。
出てきたら…‥。
やあ、来たよ!
……だめだ、軽すぎる。
こんにちは。今日はいい天気ですね
……で、どうする?
本題に入る前の挨拶でさえ、何を話していいのか分からない。
「やっぱり棟梁の言った通り、当たって砕けるしかないのか」
ウィルは、会話の予行練習を止めて、目を閉じた。
背中の視線を意識の外に追い出しながら、瞼の裏にミズキを描く。
背筋を伸ばして、すらりと立つミズキ。
恥じらうように頬を染め、目を伏せるミズキ。
真っ直ぐな目で、真っ直ぐ自分を見つめるミズキ。
瞼の裏のその姿が、徐々に鮮明になっていく。
同時に、ミズキへの思いがはっきりと形を成していった。
愛おしくて切なくて、やるせなくてどうしようもない気持ち。
誰かのことを思い出して、こんなに胸が苦しくなることはなかった。
今何をしているのか、こんなに気になる人はいなかった。
会いたい。
その声が聞きたい。
眠りにつく前に、必ずその人の姿を思い浮かべた。
朝起きて、何より最初にその人のことを考えた。
この人と一緒に生きていけたら。
この人と一緒に暮らしていけたら。
ウィルが、瞼の裏のミズキを見る。
俺は、ミズキさんが好きだ
鼓膜の奥に響く、その涼やかな声を聞く。
俺は、ミズキさんと一緒にいたい
ウィルの心が、柔らかな光で満たされていった。
俺は、ミズキさんと二人で生きていきたい!
ウィルの気持ちが決まった。
強い意志を言葉にのせて、ウィルが言った。
「俺は、ミズキさんと結婚したい! 一緒に未来を築いていきたい!」
口に出して、力強く言った。
その時。
カラン……
すぐ近くで、何かが落ちる音がした。
驚いて、ウィルが目を開ける。目を開けて、ウィルは正面を見た。
そこには、足元に桶を転がして目をまん丸くする、ミズキがいた。
ウィルが息を呑む。
呼吸を忘れ、瞬きすることも忘れてミズキを見る。
二人は、まん丸い目をしたまま、身動き一つせずに互いを見つめ合っていた。
「先生って、間が悪いわよね」
「いきなり結婚だなんて……」
「惚れたぜ先生!」
茂みの三人が勝手なことを言っている。
その三人と、ウィルの視線を受けて立ち尽くしていたミズキが、動いた。
くるり
突然ウィルに背中を向ける。
目の前の小屋を見つめ、空を見つめ、地面を見つめる。
「何というか……強引なのも、嫌いではないのだが……その……できればもう少し、手順というか、雰囲気というか……」
小さな声で、ミズキが言った。
ウィルは、一言も発することができずに固まったままでいる。
「私は、自分が普通の女とは違うという自覚がある。でも、それでも、そんな私でもいいと言うのなら」
ミズキが両手を強く握り締める。
少しだけ顔を上げて、ちょっとだけ踵を浮かせながら、全身に力を込めて、ミズキが言った。
「その申し出、受ける!」
「……えっ?」
自分で引き起こした事態がまるで飲み込めないまま、ウィルは呆然としている。
すると、後ろからいきなり大きな声が聞こえてきた。
「やったぁ!」
「良かったね、先生!」
「めでたい! 本当にめでたい!」
茂みから飛び出してきた三人に、ミズキが驚いて振り返った。
ウィルは、口をあんぐりと開けたままやっぱり固まっている。
「先生、何とか言ってやりなよ!」
背中をバンバン叩かれて、ウィルが正気を取り戻した。
「えっと……」
「ほら、先生!」
棟梁の太い腕で、ウィルがミズキの前まで押し出される。
「あの……」
弱々しい声で、ウィルが言った。
「本当に、俺なんかでいいんでしょうか?」
ウィルが目を泳がせる。
「私は、ウィルがいい」
ミズキがうつむく。
「あ、ありがとうございます」
ウィルが顔を真っ赤にする。
「こ、こちらこそ」
ミズキが、同じくらい顔を真っ赤にする。
ウィルの顔に喜びが溢れた。
ようやく実感が湧いてきた。
そして言った。
「お、俺、ミズキさんを幸せにします! だから……その……よろしくお願いします!」
腰を直角に曲げて、大きな声で言った。
「こちらこそ、よろしく頼む」
肩をすぼめ、両手を前で組みながら、ミズキが小さな声で言った。
ウィルが体を起こす。その目がミズキを見る。
下を向いていたミズキが視線を上げる。その目がウィルの瞳を捉える。
目が合った二人は、それを慌てて逸らし、また目を合わせて、互いにうつむいた。
「何だか締まらないねぇ」
「まあいいんじゃない」
「いいんだ、これでいいんだ」
三人がまたもや勝手なことを言っている。
ウィルは、ワイワイと賑やかな声を背中で聞きながら、静かに姿勢を正した。
その目が、今度ははっきりとミズキを見る。
ミズキは恥ずかしそうに下を向いていたが、ウィルの視線を感じて顔を上げた。
ウィルがミズキを見つめる。
ミズキがウィルを見つめる。
お互いに、顔は上気したまま。
「フフッ」
ミズキが思わず笑った。
ウィルが可愛く思えて笑った。
「フフッ」
ウィルもつられて笑った。
ミズキが愛おしく思えて笑った。
「これからは、ずっと一緒です」
「そうだな。ずっと一緒だ」
ウィルがミズキに歩み寄る。
ミズキがそっと目を閉じる。
騒いでいる三人を別の世界に放り出して、ちょっと恥ずかしそうに、とても幸せそうに、二人は唇を重ねた。
この出来事は、瞬く間に町中に知れ渡った。
「めでたい! いやー、本当にめでたい!」
町のあちこちで祝福の声が上がり、それはやがて大きな盛り上がりをみせていく。
「先生の結婚じゃ。盛大に祝おうぞ!」
町長の一言で、二人の結婚式は町を挙げて行われることになった。
この騒動を、ウィルはともかくミズキは嫌がるかと思われたが、意外にもミズキはあっさりと受け入れた。
「私の国でも、祝い事は村全体で行うものだった。よそ者の私のことを、祝ってもらえるだけでもありがたい」
そう言って、ミズキは屈託なく笑った。
かろうじて宿屋がやっているだけで、ほとんどの店が臨時休業。修理や工事も休み、もの作りも農作業もすべて止めて、町は晴れの日を迎える。
広場の真ん中に作られた雛壇の上で、二人は生涯添い遂げることを誓い、そして口づけを交わした。
広場に詰め掛けた人たちも、通りすがりの旅人も、空も鳥も、風も花も、その姿を見て微笑む。
嬉しそうに、ちょっと羨ましそうに微笑む。
厳かで穏やかな光景。
人々の心に深く刻まれた幸せの記憶。
暖かい気持ちで満たされた人たちが、全方位から二人を祝福した。
式が終わると宴会が始まる。
広場で、道場で、道端で、人々は食べて飲んで笑った。
ウィルとミズキも、次々とやってくるたくさんの人たちと一緒に笑った。
こうして二人は夫婦となった。
そしてこの日、一人の男が、町から姿を消した。
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