先生
「先生!」
門下生たちが、喜びの声を上げながら男のもとへと駆け寄っていった。
「お帰りなさい!」
「よくぞご無事で!」
笑い、涙を流し、手を握りながら、門下生たちが男を取り囲む。
「ただいま。みんな元気でしたか?」
先生と呼ばれた男は、集まってきた一人一人を見ながら穏やかに笑った。師範代は、驚きで構えることも忘れている。
その師範代に穂先を向けたまま、大男が怒鳴った。
「誰だてめぇ! 俺はこいつと戦ってんだよ!」
勝負はすでについている。だが、相手はまだ降参していない。降参しない以上、手加減はしない。
それが大男の流儀だった。
「こいつはまだ戦う気だ! てめぇがしゃしゃり出てくるところじゃねぇ!」
顔を真っ赤にして唾を飛ばす大男に、先生と呼ばれた男が静かに言った。
「それは申し訳ないことをしました」
言いながら頭を下げる。
続けて、師範代に命じた。
「ストラース、降参しなさい」
「くっ!」
命じられた師範代、ストラースは、悔しげな声を漏らしたが、やがて諦めたように言った。
「参り、ました」
「ちっ!」
頭を下げるストラースを、大男が忌々しげに睨む。
スッキリしない、まさにそんな顔を大男はしていた。
「お前、こいつの師匠ってことでいいんだよな? だったら、俺と勝負しろ!」
持て余した闘志を全身にみなぎらせて、大男が吠える。
言われた男は、ちょっと困ったような顔をしたが、やがて腰の剣を”鞘ごと”抜きながら答えた。
「仕方ありませんね。お相手いたしましょう」
そう言うと、近くにいた門下生に荷物と剣を預けて、男は無手で大男の前に立つ。
その姿を、大男が黙って睨み付けた。武器を手放した相手に不満の声を上げるかと思われたが、意外なことに、一言も発することなくハルバートを構え直す。
先生と呼ばれた男は、構えてすらいない。だた静かに大男を見つめ、ただ静かに立っているだけだ。
しかし、幾多の実戦で積み重ねてきた経験が、大男にはっきりと伝えてきていた。
向き合うまでは分からなかったが。
こいつは、強い
師範代の男もそれなりに強いと感じたが、やつは、向かい合った時点で心が揺らいでいた。付け入る隙があった。
だが、こいつは違う
その身体には一切の力みがなく、その心には、一切の乱れがない。
まるで、静止した水のよう。
こちらが少しでも動けば、その水面に波紋が起きて、動きが事前に分かってしまう。
そんな錯覚すら覚える。
大男の頬を汗が伝う。
その頬が、微かに笑った。
「いくぜ!」
咆哮を上げて、大男が全身に力を込める。同時に、極限まで集中力を高めていく。
こいつは強い
それでも、俺は勝つ!
大男は、持てる力のすべてを使い、持てる技術と経験のすべてをハルバートに乗せて、渾身の突きを放った。
だが。
「なっ!?」
その突きは、放たれた直後、中途半端な位置で止まった。その大きな目が、誰もいなくなった空間を呆然と見つめる。
そして大男は、ゆっくりと、自分の真下を見た。
「どうも」
男が一人、そこに立っている。
その身体には一切の力みがなく、その心には、一切の乱れがない。
「なんで?」
何が起きたのか理解できない。
どうやって男が目の前に現れたのか、まるで分からない。
大男は、震えた。
次元が違う……
「参り、ました」
ハルバートを構えたまま、大男が、小さく言った。
「先生が帰って来たって?」
「そこどいて!」
「うわぁ!」
「先生、お帰りなさい!」
バタバタと人が駆け込んでくる。
「ご無沙汰しておりました。無事に帰って参りました」
穏やかに、男が笑った。
道場の大部屋には、たくさんの酒と料理が並んでいる。門下生たちが忙しそうに動き回る中、部屋の一番奥に座る男のもとに、老若男女問わず次々と人が訪れていた。
「どんな国に行ってきたんですか?」
「成果はあったのかい?」
「相変わらずいい男だねぇ」
男が答える間もなく、立て続けに質問が飛び交う。
だが、誰もがとにかく嬉しそうだった。男が帰ってきたことを心から喜んでいる。
「先生はお疲れなんです。もうちょっと遠慮を……」
宴を仕切っているストラースが群がる男女に注意をするが、そんなことで引き下がるような雰囲気ではない。
「あんたはほんとに固いねぇ」
「そうだそうだ! せっかく先生が帰ってきたんだ。話くらいさせろ!」
凄い剣幕で反撃されて、長身をのけぞらせながらストラースが後ずさる。
「ストラース、ありがとう。俺は大丈夫だよ」
当の本人に言われては、ストラースもそれ以上文句は言えない。不満をその顔に浮かべたまま、ストラースは、酒を取りに台所へと足を向けた。
ちょうどそこへ、数人の門下生が挨拶にやって来る。
「先生、我々は見回りに行ってきます」
「見回り?」
「はい。最近賊が若い娘をさらっていく事件が起きていまして」
「それは大変ですね。気を付けて行ってきてください」
「はい! では、行って参ります」
一礼して去っていく門下生の背中に、ストラースが声を掛けた。
「鉱山も頼むぞ」
「分かってますって」
若い門下生が、にやっと笑いながら頷いた。
「鉱山に人が住んでいるのですか?」
男の疑問に、近くにいた中年の女が答える。
「そうなんだよ。五年くらい前にふらっと来た女の子がね、一人で住んでるんだ」
「女の子?」
「そうさ。何とも不思議な子でねぇ。ここいらじゃ見掛けない、真っ黒い髪に真っ黒い瞳の、凄いべっぴんさんなんだよ」
「黒髪に、黒い瞳……」
男の目が、記憶を辿るように宙を見た。
「鉱山の鍛冶場で何かを作ってるみたいなんだけどね」
女の説明を、変わらず穏やかな表情で男は聞いている。だが、その目がわずかに落ち着きをなくしてることに、気付く者は誰もいなかった。
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