第九章 明鏡止水
二つの背中
水鳥が川面を漂っている。餌を探している訳でも、どこかに行こうとしている訳でもないらしく、のんびりと流れに身を任せているようだ。
水鳥の動きを追うのを止めたミナセは、周囲に注意を向けた。
風に揺れる草木の葉音。
暖かい日差し。
ふとミナセは、ゆっくりと、慎重に川べりを移動する動物らしきものを見付けた。
水鳥を狙う野犬だろうか?
もう一度水鳥に注意を向けると、残念ながら、水鳥は自ら危険な場所へと近付いているようだ。しばらく様子をみていたミナセは、「ふぅ」と小さく息を吐き、そしてゆっくりと、目を開けた。
「悪いな。ただの気まぐれだ」
そう言いながら、足元の小石を拾ってヒュッと川に投げ入れる。
チャポン!
バタバタバタ!
水音に驚いた水鳥が、慌てて空へと逃げていった。
葦の茂みから、野犬が恨めしそうにミナセを睨んでいる。
「かわりに、これで我慢してくれ」
ミナセは、なじみの八百屋がくれたリンゴを半分に割って放り投げた。残った半分をうまそうに食べるミナセを見ると、警戒していた野犬も茂みから出てきて、それをかじり始める。
シャクシャクという心地よい音を聞きながら、ミナセは穏やかに微笑んだ。
最近のミナセは、時間があると、人気のない場所で静かに目を閉じていることが多くなっている。
ヒューリと出会ってから、ミナセの剣の腕は大きく上達した。
速さだけなら、ヒューリはミナセよりも上だ。そして、その双剣は変幻自在。
ヒューリと手合わせをする度に、ミナセは磨かれていった。先読みの精度も、反応速度や瞬発力などの地力も確実に進歩していった。
山賊や盗賊たちとの戦いでは、もはや負ける気がしない。仕事で一緒になる傭兵や冒険者たちの中にも、自分より強いと思える者は一人もいなかった。
それでも。
「まだ、足りない」
ミナセが再び目を閉じる。
リンゴを食べ終わった野犬は、しばらくそこにじっとしていたが、それ以上ミナセから何ももらえないことが分かったのか、茂みの中へと戻っていった。
その動きを、ミナセが追う。
魔力を持たない相手は、視覚や聴覚などの五感で関知するしか方法がない。馬も野犬も、マークのような人間も。
しかしミナセは、そしておそらくヒューリも、そんな相手を五感以外で感じ取ることができる。それは、気配と呼ばれるもの。戦いの中で身につける、勘のようなもの。
「だが父は、その先を……」
ミナセはこの頃、旅に出る前の記憶を辿ることが多くなっていた。そこには、以前のように負の感情がともなうことはほとんどない。
イメージの中で、父の動きを追う。胸の中で、父の言葉を聞く。
ミナセは、ゆっくりと目を開いた。
「道のりは遠いかな」
ぽつりとつぶやいて、ミナセは歩き出す。
戻ってきた水鳥が、川面にきれいな軌跡を描いていた。
金曜日の夕方。
買い物客や帰宅を急ぐ人たちが行き交う賑やかな通りを、エム商会の女性六人が歩いている。
「最初はお肉屋さんですよね」
「まずはデザートでしょ」
「いーや、酒が先だな」
「そういう重たいのは最後に……」
みんなは、食材の買い出しに来ていた。ミアが教会から野菜をたくさんもらってきたので、食材を揃えていつもの手料理パーティーを開くことになったのだ。
華やか、鮮やか、艶やか、可憐。
この六人が集まると、町の風景が変わる。
初めて目にする人はその場で動かなくなり、知っている人は、こっそりあるいは堂々と視線を向ける。
顔見知りは、小さくあるいは大きく手を振り、社員たちに手を振り返されて嬉しそうに笑った。
注目を浴びながら、六人は歩く。
楽しげに、軽やかに六人は歩いていた。
「ところでシンシア、何かいいことでもあったのか?」
八百屋の主人に会釈を返しながら、ミナセが突然シンシアに聞いた。
「えっ?」
返事をしたのは、リリア。
シンシアは、目を見開いて、驚いたようにミナセを見ている。
「何でも、ない」
それだけ言うと、シンシアはなぜか顔を赤くしてうつむいた。
「そうか」
ミナセもそれ以上は追求しない。
だが、リリアはそのやり取りが気になった。
「どうしてシンシアにいいことがあったって思ったんですか?」
ちょっと詰め寄るようにミナセに聞く。
リリアは知っていた。シンシアがご機嫌な理由。
今朝、マークのシャツのボタンが取れ掛けているのをシンシアが見付けて、それを付け直してあげた時に、マークが言った一言。
「ありがとう。シンシアは、きっといいお嫁さんになるな」
シンシアは、顔を真っ赤にして、逃げるようにマークから離れた。驚くマークに背を向けて裁縫道具を片付けるシンシアの顔は、だらしないほどニマニマしている。そんなシンシアを、リリアがニコニコしながら眺めていた。
盛り上がる気持ちを抑えるためか、それ以降のシンシアはとても無表情だった。いつも通り絡んでくるヒューリに、いきなりパンチを食らわすほど愛想がなかった。
どう見ても不機嫌。そんなシンシアを、リリアだけがこっそり楽しんでいたはずなのに。
「私も、ミナセがどうしてそう思ったのか聞きたいわ」
横からフェリシアが割って入ってきた。
「ミナセって、私が落ち込んでいると、いつもさりげなく声を掛けてくれるじゃない?」
飄々としているフェリシアだが、それでも気分を害したり落ち込んだりすることはある。それを表に出すことは滅多にないのだが、そんなフェリシアにミナセがすっと寄ってきて、「何かあったのか?」と聞いてくれるのだ。
「あんまりにもタイミングがいいから、ほんとにびっくりすることがあるわ。ぜんぜんイヤじゃないんだけれど」
二人から聞かれ、みんなから注目されながら、ミナセが答える。
「理由なんてないよ。何となく、そう思っただけだ」
その答えには、リリアもフェリシアもちょっと不満顔だ。
「もしかして、私たちの頭の中まで読んでるのか?」
「それはさすがに無理だな。私が読めるのは、体の動きと魔力の流れだけだよ」
真剣な顔のヒューリに、ミナセが笑いながら答えた。
でも。
答えて、ミナセは思う。
そう言えば最近、相手の感情の揺らぎを、何の根拠もなく感じることが増えたような気がする。
エム商会に入社したばかりの頃は、周りの人が見えていなかった。相手の気持ちを考えることもできていなかった。
それが、様々な人たちと出会ううちに変わっていった。
マークを見ているうちに、いつしか変わっていった。
マークは、人を拒絶しない。
マークは、相手に変わることを要求しない。
いつでもマークは、そのままの相手を丸ごと受け入れる。
だから、なのだろうか。
自分のことを分かってくれている。自分の気持ちがちゃんと伝わっている。
そんな安心感を、マークは与えてくれる。
だから、なのだろうか。
マークには、自然と心を開いてしまう。マークに言われたことが、素直に納得できてしまう。
そんなマークの背中を、ミナセは追い続けた。
マークならどうする?
瞼の裏に、いつもマークの姿を描いた。
そして改めて思う。
相手と対した時に、壁を感じることが少なくなった。
そして、改めて思う。
目の動き、表情、仕草。そんなものからではなく、直感的に相手の気持ちを感じることができるようになった気がする。明確な理由なしに相手の心の動きを感じることが増えた、そんな気がする。
「私もよく思います! どうしてミナセさん、私の気持ちが分かるんだろうって」
「お前の気持ちは私でも分かるよ。全部顔に出てるんだから」
「ふぇっ、そうなんですか!?」
ミアとヒューリの会話を、みんなが笑って聞いている。
楽しげな気持ちを、感じる。
ミナセはふと思い出した。
昨日川辺にいた野犬は、”慎重に”歩みを進めていた。
さすがのミナセも、気配だけで足の運びや身を屈める動作が細かく分かる訳ではない。そこに犬くらいの大きさの動物がいて、ゆっくり移動していることくらいしか分からない。
それでも、野犬が”慎重に”歩いていると、自然に思った。そう感じた。
もしかして、私は……
ミナセは思い出す。父の言葉と父の教え。
ミナセは思いを馳せる。父の辿り着いた境地と、そのさらに先にある世界。
考えながら、ミナセは歩く。過去と今、父とマークを思いながら、ミナセは歩く。
そのミナセが、突然立ち止まった。
「どうした?」
問い掛けたヒューリの表情が、急激に険しくなった。
「どうしたの?」
前を行くフェリシアが振り向き、そして同じく、厳しい顔つきに変わった。
リリアもシンシアもミアも、体をこわばらせた。
ミナセが前方を睨み付けている。
その顔は、今まで誰も目にしたことのないような、ぞっとするほどの恐ろしい表情だった。
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