ナイフと薬

「ご主人。よろしければ、先ほどこちらの、フェリシアが見ていたナイフを売っていただけませんか?」

「えっ?」


 突然の話に、夫と、そしてフェリシアが首を傾げた。


 なぜ今ナイフの話?


 フェリシアの隣で、ミアも不思議そうにマークを見ている。

 そんな空気を無視するように、マークが続けた。


「ただ、申し訳ないことに、今日はお金をあまり持ってきていません。そのかわり、奥様への医療魔法の施術と、手持ちのロロの実の薬すべてと引き替えではいかがでしょうか」


 マークがフェリシアに目配せする。

 フェリシアは、慌てて頷きながら、マジックポーチから袋を一つ取り出した。


「ここに一ヶ月分の薬があります。これで、先ほどのナイフを売っていただけないでしょうか」

「一ヶ月分の薬……」


 夫は考えた。

 あのナイフは、純度の高いミスリルで作られた特殊品だ。使用者の魔力を流し込んで、刀身から魔法を放つことができる。

 最初から攻撃魔法が付与された武器であれば、相手を斬ったり突き刺したりするだけで追加ダメージを与えられるが、あのナイフはそうではない。

 攻撃と同時に魔法を放ち、傷口から敵の体内に直接魔法を打ち込むという特殊な使い方になる。

 つまり、ナイフと、さらに攻撃魔法をそれなりのレベルで使える人間が、ある程度訓練を積まなければ使えないという代物。

 成功すれば効果は高いが、初心者はもちろん、中堅の冒険者でも持て余すであろう面倒な武器。

 ゆえに、特殊品。


 店の目玉商品の一つではあったが、結局何年も売れることなく棚に飾られていた。

 その仕入れ値は、一ヶ月分の薬代よりだいぶ上だった。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 薬があれば、一ヶ月とは言え妻の命を長らえさせることができる。そうすれば、その間にカーラが帰って来られるかもしれない。


「あのナイフは、非常に特殊な品です。それでもよろしければ……」


 夫が、ナイフの特徴を説明する。それを聞いたフェリシアが、目を輝かせてマークを見た。

 マークが思わず笑う。


「どうやら、うちの社員はそれが気に入ったようです。ぜひ譲ってください」


 商談は成立した。



 その後、目覚めた妻にミアが施術を行った。

 ロダン公爵の息子、ロイに魔法を使った時と違って、今回は一切手加減はいらない。


「えっと、全力でいいんですよね?」


 そう言いながら、ミアがフェリシアを見る。

 微笑みながら、フェリシアが答えた。


「あなた、どこか具合の悪いところある?」

「いいえ。たくさん寝て、たくさん食べて、元気一杯です!」

「じゃあ遠慮はいらないわ。ミアの魔力制御は前よりずっと進歩してるもの。あなたの思うようにやって大丈夫よ」

「分かりました。じゃあ、全力全開、行きます!」


 お墨付きをもらったミアは、ベッドに向き直って集中を始める。

 慌てる必要もなく、後先を考える必要もない。目を閉じて、じっくりと、大胆にミアは魔力を練る。

 やがて、ミアが目を開いた。金色の瞳が輝きを増していく。


 そしてミアは、魔法を発動した。


 普通は目に見えることのない魔力が、光と化してミアを包み込む。

 それは、愛犬ファンに注がれたものとよく似た光。シスターたちを圧倒した時と同じ現象。


 あきれるほどの膨大な魔力がミアの体から溢れ出し、それが横たわる妻を癒していく。特訓を重ね、経験を積んだミアの魔法は、フェリシアの言う通り格段に進歩していた。


「ふうぅ」


 施術が終わり、ミアが大きく息を吐き出す。


「終わりました。気分はいかがですか?」


 ミアの声で、妻が目を開けた。何度かまばたきをしてから、両手を天井に向けてゆっくりと伸ばしていく。手のひらを開いたり閉じたりしながら、それを不思議そうに見て、妻が言った。


「あなた……私……」


 言いながら、ベッドの上に起き上がる。

 そして、自分を心配そうに見つめる夫に問い掛けた。


「私、治っちゃったの?」


 頬には赤みが差し、声には力が戻っている。

 驚く夫の目の前で、妻はベッドから両足を下ろし、しっかりと自分で立ち上がった。


「お前……」


 恐る恐る、夫が手を差し出す。


「あなた……」


 その手を、妻が力強く握る。

 二人は、互いの腕を手繰るように体を寄せ合い、そのまま互いを抱き締めた。


 もう長くはないかもしれないと、夫は思っていた。

 せめて最後はカーラに会わせてあげたい。それが唯一の望みだった。


 家族に残せるものは何かないかと、妻は考え始めていた。

 せめて最後にカーラの顔が見たい。それが密かな望みだった。


 それが今、妻は自分の足で立ち上がり、力強く夫を抱き締めている。

 その存在を確かめるように、夫は精一杯妻を抱き締めている。


 久しく感じることのなかった幸福感に包まれて、二人は泣いていた。

 その横で、ミアが遠慮がちに言う。


「あの、あくまで一時的なものですから。だから、あの、ちゃんと薬を飲んで……」


 ミアの声など聞こえないかのように、涙を流しながら二人は抱き合う。


「えっと、だから……」


 狼狽えるミアと、幸せそうに抱き合う夫婦を、マークとフェリシアが微笑みながら見つめていた。



 落ち着いた二人にきちんと状況を説明し、カーラには必ず様子を伝えるからと言って、三人は家を出た。

 何度も頭を下げる夫婦の姿が見えなくなったところで、フェリシアがマークに話し掛ける。


「お二人とも、喜んでいましたね」

「そうだね。まあ、来て良かったってところかな」

「ところで社長、このナイフは……」

「ああ、持ってていいぞ」

「ありがとうございます!」


 フェリシアは、嬉しそうにナイフを眺めてから、しっかりとマジックポーチにしまった。


「でも、ちょっと申し訳ない気がしますね。このナイフ、あの薬より絶対に高価なものですよ」


 フェリシアが心配そうに言った。

 だが、マークはそれにあっさり答える。


「あの一家に今必要なのは、売れないナイフより薬だよ。薬をタダで置いてきてもよかったんだけど、俺は、一方通行の施しってやつがあんまり好きじゃない。相手に敬意を払う意味でも、対等な立場で取引をした方がスッキリすると思ってね」

「社長って、ほんとに不思議な人です」


 フェリシアはやっぱり嬉しそうだ。


「でも社長、ちょっと嘘つきさんですよね。私たち、カーラさんから何も言われていないのに」


 今度はミアが話し掛けた。

 ミアの言う通り、マークたちは、カーラから何かを頼まれた訳ではない。というよりも、カーラのことはこちらが一方的に知っているだけで、マークたちのことなどカーラは知らないはずだ。

 だが、それにもマークは明快に答えた。


「ま、嘘も方便ってやつさ」

「社長って大胆です」


 ミアは呆れ気味だ。


 そうこうしているうちに三人は、夫婦に教えてもらったダンジョンの入り口にやってきた。


「なるほど。これは無理だな」


 目の前には、人力ではもちろん、馬や牛を使ったところでびくともしないであろう巨大な岩がドッカリと鎮座している。

 土砂はあらかた取り除いてあるが、この岩だけはどうしようもなかったに違いない。


「別の入り口を作るっていうのも、無理っぽいな」


 周辺を眺めながらマークが言う。

 ダンジョンのある岩山は、おそらく花崗岩だ。その硬さゆえに、目の前の巨岩を含めて簡単に削ったり砕いたりできる様子はなかった。

 しかし。


「フェリシア、頼む」


 マークが軽い調子で言う。


「分かりました」


 フェリシアも、簡単に頷いた。

 そして、両手を巨岩に当てて魔力を練り始める。


「これだけ大きいと、さすがにちょっと大変ね」


 そう言うフェリシアの顔は、特に力んだ様子もない。

 しばらく巨岩に手を当てていたフェリシアが、ミアに言った。


「ちょっとこれ、どかしてくれる?」

「……フェリシアさん、言ってる意味が分かりません」

「横に回って、この岩を押すのよ」

「押すって……」

「いいから押して!」

「はい!」


 ミアが慌てて巨岩の横に回り込む。


「えっと、押しますよ?」

「いいわよ」


 ミアは、巨岩に両手を添え、足を踏ん張って、全身の力を使って押した。

 すると。


「きゃあ!」


 ごろん


 ミアと、そして巨岩が地面に転がった。

 ミアはともかく、その巨大さを誇る岩が地面に倒れ込んだというのに、地響きも、大した音もしない。

 岩は、まさにごろんと転がった。

 だが、フェリシアが岩から手を離した途端。


 バキバキ!

 ズズズッ!


 下敷きになっていた倒木が凄い音を立てて砕かれ、岩が地面にめり込んでいく。

 現れた洞窟の入り口と、弾け飛ぶ倒木の破片をミアが呆然と眺めていた。


 やがて、立ち上がったミアがフェリシアに聞く。


「フェリシアさん。私にも、この魔法使えるようになりますか?」

「そうねぇ。私の見立てでは」

「見立てでは?」

「無理ね」

「そんなぁ」

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