馬上の人
漆黒の獣は、街道近くの開けた丘の上で休憩を取っていた。
空は穏やかで、風もない。
「ねえ、フェリシア。ミアはまだ起きないの?」
食事を終えたロイが、自分を見つめるフェリシアに聞いた。
「相当疲れていたのでしょう。ミアは、まだ眠っています」
「そうなんだ。ミアが起きたら、すぐに知らせてね」
「分かりました」
フェリシアが、静かに笑って答える。
「ロイ様もお休みください。まだ病が癒えたばかりなのですから」
「分かった。またね、フェリシア」
「はい」
ロイに毛布を掛け、そっと前髪を撫でてから、フェリシアは馬車を降りた。
セルセタの花の効力は、本物だった。
煎じ薬を飲んだロイは、その後すぐ横になって眠った。その寝顔は穏やかで、呼吸も落ち着いている。
やがて目覚めたロイは、自らの力で体を起こし、見守るみんなに笑顔を見せた。
体を光が包み込むとか、天使が舞い降りるなどの感動的な場面はなかったが、誰が見ても、ロイの病は回復に向かっている。食欲も旺盛で、病人食に不満を漏らすほどだ。
あと二、三日もすれば、歩くのはともかく、自力で立ち上がるくらいはできるようになるだろう。
「ほんと、いい天気」
空に浮かぶ白い雲を眺めながら、フェリシアがつぶやく。そして、ゆっくりと隣の馬車に向かって歩き出した。
見張りの兵に軽く頭を下げて、馬車に乗り込む。荷馬車に幌を付けた、いわゆる幌馬車の中には、簡易ベッドが設けられていた。
そこに横たわる美しい少女に、フェリシアが話し掛ける。
「ミア、今日はとってもいい天気よ」
静かに眠るミアの頬に、そっと右手を触れた。
あの日ミアが最後に使ったのは、光の魔法の第四階梯、パワーキュア。
周囲のすべてを癒すことのできる、治癒魔法と医療魔法を兼ね備えた強力な範囲魔法だ。
軽傷者はその場で完治。
重傷者も、自分で体を起こせるまでに回復。
ロイには、煎じ薬を自力で飲むだけの十分な力が与えられた。
そしてそのまま、ミアは意識を失った。
目覚めたロイが、周りの人たちに聞く。
「ミアは?」
カイルが、目をそらしながら答えた。
「今、別の馬車で眠っています」
その後もロイは、自分のところに人がやってくる度にミアのことを尋ねている。
みんなの答えは、いつも同じだった。
「ミアは、眠っています」
フェリシアがミアの手を握る。
その手は、とても冷たかった。
「まったく、早く目を覚ましてもらいたいものね。そうじゃないと、左腕が痛くて仕方がないわ」
添え木を当てて、三角巾で吊っている左腕を見ながら、フェリシアが泣きそうな声で文句を言う。
カイルやアランが何度言っても、フェリシアはヒーラーの治療を受けなかった。
「大丈夫よ。ミアが目を覚ましたら、一番に治してもらうから」
笑って答えるフェリシアに、二人はいつも悲しそうな顔を向けるばかりだった。
「また来るわ」
ミアの頬をもう一度撫でて、フェリシアは立ち上がる。
その時。
「東から一騎、誰か来ます!」
見張りの兵の声が聞こえた。
馬車を降りて、フェリシアがその方角を見る。たしかに何者かがこちらに向かって馬を走らせていた。
フェリシアは、慌てて索敵魔法を発動する。
私ったら、油断しすぎね
気を引き締め直して反応に集中した。
騎影はだいぶ近付いている。すでにフェリシアの索敵範囲には入っているだろう。
だが。
反応がない?
遠目に見ても、馬には誰かが乗っている。
馬の反応がないのは当然だ。普通の馬は魔力を持っていない。
だが、乗っている人間は……。
フェリシアは、じっと目を凝らした。
全神経を集中して、これでもかというほどその人物を見る。
やがて、フェリシアの目が馬上の人物を捉えた。
次の瞬間、フェリシアは全力で走り出す。
兵士たちをかき分け、転がっている荷物を飛び越えて、フェリシアは走る。
これ邪魔!
走りながら、フェリシアは三角巾を外した。途端に左腕が痛み出す。
その左腕を右腕と同じくらい大きく振って、フェリシアは走った。
「ごめんなさい、どいて!」
振り向いた兵士が慌てて道を空ける。
「お願い、通して!」
荷物を抱えた兵士が尻もちをつく。
目を丸くする兵士たちの間を、脇目も振らずに、フェリシアは全力で走っていった。
真っ直ぐに駆けて来た馬が、兵士に行く手を遮られて竿立ちになる。馬上の人間は、それを鮮やかな手綱さばきで落ち着かせた。
そして、軽やかに地面に降り立つ。
その胸に、フェリシアが飛び込んだ。
「社長!」
驚く兵士たちの目の前で、フェリシアが泣きじゃくる。
「社長! 社長!」
自分にしがみつくフェリシアの髪を優しく撫でながら、マークが言った。
「フェリシア、無事で良かった」
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