シルバーバック

「フェリシアさんたちのことが心配なんですか?」


 考え込んでいるマークに、リリアが聞いた。


「まあ、そうだね」


 マークが答える。

 フェリシアたちを見送ってからというもの、何となくマークは落ち着かない。

 そう言えば、以前にも、初めての商隊護衛に向かったミナセを心配して考え込んでいたことがあった。


「社長って、意外と心配性なんですね」


 お茶を淹れながら、リリアが微笑んだ。


「あははは。そうかもね」


 照れくさそうに笑うが、すぐにまたマークは考え込んでしまう。


 危ういとは言うものの、現状ではベストと思われる作戦を立てた。

 フェリシアのフライもミアの魔力制御も、当初よりはかなり向上した状態で出発できている。

 ミナセとヒューリにも、不測の事態に備えて町を出るような仕事はさせていなかった。


 打てる手は打った。

 後は成功を信じて待つだけだ。


 だが、それでもマークは不安だった。

 もっと言えば、いやな予感がしていた。


 予感はあくまで予感だ。それを感じることに理由はない。頭から振り払ってしまえばそれでおしまい。

 だが、今回に限って、マークはどうしてもそれを振り払うことができなかった。


 突然、マークが立ち上がる。


「リリア。悪いが、しばらく留守にする」

「えっ!?」

「留守中に何かあったら、ミナセさんの判断に任せる。ミナセさんとみんなに伝えておいてくれ」

「あの……」


 驚くリリアの横を、眉間にしわを寄せたマークが足早に通り抜けていった。



 見渡す限り森だった風景は、ところどころに地肌や草原が見えるようになっていた。目標にしていた山々が、はっきり大きく見えている。

 セルセタの花まであと少し。

 三人は、最後の休憩地点に向けて飛んでいた。


「ミア、もう少しよ。頑張って」

「はい」


 ミアも限界が近い。

 飛んでいる最中も、半分眠っている状態だ。油断していると手を放してしまいそうになる。

 その度に、フェリシアが強く手を握ってミアを起こし、励ました。


「見えた!」


 前方に狼煙が上がっている。休憩地点だ。

 あそこで最後の休憩を取って、あと一回飛べば、花の咲く洞窟に辿り着く。

 残り少ない魔力を振り絞り、フェリシアは狼煙に向けて速度を上げていった。

 だが。


「おかしいわ」


 やや開けた場所にある休憩地点に、狼煙は上がっているものの、兵士の姿が見えない。これまでの場所では、そこにいる兵士が全員で手を振って迎えてくれていた。


 少し躊躇った後、フェリシアは索敵魔法を発動する。

 すると森の中に、兵士らしき五つの反応と、さらに別の反応を見付けた。合わせて六つの反応は、森の中から徐々に開けた場所に移動している。


「いやな予感がするわ」


 フェリシアがつぶやいたその時、六つの反応が森から飛び出してきた。


「シルバーバック!」


 フェリシアが叫んだ。


 シルバーバック。

 灰色の背中が特徴の、大型の猿の魔物だ。

 大型とは言え、通常は人間より一回り大きいくらい。力が強く、動きが速い。人間に近い体型の魔物の中では比較的手強い魔物だった。しかも、眼下で兵士と戦っている個体は、兵士たちより二回り以上大きい。

 それでも、漆黒の獣の兵が五人もいれば倒せるはず。

 そう思って状況を見ていたフェリシアが、眉間にしわを寄せた。

 精鋭揃いの漆黒の獣とは言え、新兵はいる。その新兵がこの部隊に混ざっているようだ。明らかに、動きも連携も悪い兵士がいる。

 さらに、一人はすでにケガをしていた。片手だけで槍を振るっている。


 あれでは勝てないかもしれない


 フェリシアがそう思った矢先、新兵が、シルバーバックの太い腕で激しく地面に打ち据えられた。


「危ない!」


 ミアが叫ぶ。

 新兵を噛み殺さんと、シルバーバックが牙を剥いて襲い掛かる。

 その顔に向かって、魔術兵がアイスボルトを放った。

 命中はしなかったが、不意をつかれてシルバーバックが体勢を崩した隙に、別の兵が新兵を助け出した。


「よかったぁ」


 ミアは胸を撫で下ろしたようだが、フェリシアは冷静に分析を終えていた。


 あの戦力では勝てない。私が援護すれば何とかなるけど、魔力の消費は最小限に抑えたい。

 効率よく、一撃で仕留めるためには……。


「ミア、降りるわ。ロイ様をお願い」


 そう言うと、フェリシアは戦いの場から少し離れた場所に降り立った。そして、走り出しながら兵士たちに叫ぶ。


「魔物の注意を引きつけて! 私が飛び込むわ!」


 フェリシアの登場も言葉も突然だったが、兵士たちの反応は早かった。声の主がフェリシアだと分かると、即座に動き出す。


「正面に回れ! 奴を引きつける!」


 隊長らしき兵の指示で、動ける三人がシルバーバックの正面に並ぶ。その隙に、フェリシアは右側に回り込んだ。


 槍と剣と魔法が、交互にシルバーバックに立ち向かう。近付き過ぎず、離れ過ぎず、三人は攻撃を仕掛け続けた。

 執拗な兵たちの動きにシルバーバックが苛立つ。牙を剥き、両手を振り上げながら、シルバーバックは兵士たちに襲い掛かっていった。

 

 今!


 腰の短剣を左手で抜き放ち、フェリシアがシルバーバックの懐に飛び込む。

 そして、その左のわき腹を短剣でえぐった。


「ぐおぉぉぉっ!」


 シルバーバックが吼える。

 鼓膜が破れるかと思うほどの咆哮を頭のすぐ上に聞きながら、フェリシアは、冷静にシルバーバックのわき腹から短剣を引き抜いた。

 そして、その傷口に右手を突っ込む。


「ファイヤーボール!」


 フェリシアが魔法を放つのと、丸太のような太い腕がフェリシアを吹き飛ばしたのは同時だった。

 左腕に激痛を感じ、吹き飛ばされながら、しかしフェリシアの目はシルバーバックを追う。その視線の先で、腹に大穴の開いたシルバーバックが、音を立てて崩れ落ちていった。

 それを見届けた直後、フェリシアが地面に叩き付けられる。


「くっ!」


 短い呻き声を上げたフェリシアは、それでも即座に起き上がって周囲を確認した。

 魔物の反応は、周囲を含めてもうない。

 ミアは、ロイを背負ったままへたり込んでいる。

 無傷の兵士三人は、一人がミアとロイのもとに、一人が自分のところに、一人が新兵のところに駆け寄っていく。

 腕をやられた兵士は、自力で手当を始めていた。

 兵士たちは、右往左往することなくそれぞれが的確に動いている。


「さすが、漆黒の獣ね」


 こんな状況なのに、フェリシアは軽く笑った。


 やってきた兵士に大丈夫だと言いながら、フェリシアは、マジックポーチから治癒ポーションを取り出す。


「あんまり効果はないけど、飲まないよりはましよね」


 フェリシアほどの魔術師なら、効果の高いポーションを持っていても不思議ではない。しかし、今取り出したものは、ランクの高い冒険者なら見向きもしない程度のものだった。

 前の主が薬やポーションに興味がなかったせいで、主の家から持ち出したポーションもろくなものがなかった。


 こんなポーションだけ持って、よくあんな仕事をしていたものだわ


 以前の自分を思い出しながら、フェリシアは、右手だけで苦労して小瓶の詮を抜く。

 それを飲もうとした瞬間。


「ミア、だめよ!」


 新兵に近寄っていくミアを見付けて、大きな声で叫んだ。


「!」


 ミアが、驚いてフェリシアを見る。

 そのミアに、フェリシアが強い口調で言った。


「その兵士に魔法を使ってはだめ! あなたの魔力は、ロイ様のためだけに使いなさい!」

「そんな!」


 思い掛けないフェリシアの言葉に、ミアは戸惑い、目を泳がせ、そして、地面に横たわる新兵に視線を落とす。

 新兵は、口から血を吐いて苦しそうに息をしていた。

 内臓をやられたのかもしれない。意識はあるが、放っておけば命に関わる危険があった。


 これほどの重傷を負っている兵士を目の前にして、何もしてはいけない?


 ミアの心が揺れる。

 たしかに、自分にはあまり魔力は残っていない。ここで魔力を使ってしまったら、最後の瞬間に魔力が足りなくなるかもしれなかった。


 だけど……


 ただただ新兵を見つめることしかできないミアに、隊長が近付いてきて言った。


「フェリシアさんの言う通りです。あなたは、あなたの役割を果たさなければなりません」


 それに続くように、苦しい息の間から新兵も言う。


「俺なら……大丈夫っす。こんな美人に……心配してもらって……それだけで、元気百倍っす!」


 新兵は、笑っていた。

 血を吐きながら、右手を突き出し、親指を立てて、笑っていた。


 ギリリ


 ミアの奥歯が音を立てる。

 歯を食いしばり、溢れそうになる涙を乱暴に拭って、ミアは、くるりと向きを変えた。


「絶対に、死なないで」


 それだけ言うと、爪が食い込むほど強く拳を握り締めながら、ミアはロイのもとに向かっていった。


 それでいい。あなたは間違っていないわ


 ミアの背中を見つめながら、フェリシアは、小瓶のポーションを飲み干した。

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