で、どうするか

 マークが、少しだけ顔を後ろに向けて聞いた。


「ヒューリさんは、心を折ることなく前に進み続けることができますか?」


 重い質問だ。

 ヒューリの脳裏にいくつもの記憶と感情が甦る。


 罵声を浴びながら処刑されていった父。

 真っ赤に燃える炎の前で殺された母と弟。


 怒り、悲しみ。


 父の言葉を支えにすべてを耐えてきた。

 その言葉も、国を失った瞬間に心の支えとはならなくなった。


 空しさ、絶望。


 気が付けば、密偵たちを全滅させ、山賊にまで落ちぶれていた。


 もしあんな出来事がもう一度起きたら、私は耐えられるだろうか?

 何もかも壊したい、何もかもがどうでもいい、そんな考えに支配されないだろうか?


 ヒューリは考える。

 考えて、そして答えた。


「もしそんな出来事が起きてしまったら」


 正直に答えた。


「私がどうなってしまうのか、分かりません」


 自信がなかった。あんな思いをもう一度経験して、正気を保つ自信はなかった。

 やはり、自分にまともな人生は送れないのかもしれない。なまじ剣の腕がある分、私は危険な人物なのだ。


 ヒューリがうつむいた。


 やっぱりダメか……


 マークとの距離が開いていく。

 ヒューリの心がうつむいていく。


 そのヒューリの耳に、爽やかな声が飛び込んできた。


「正しい答えですね」

「えっ?」


 相変わらず意外なことばかり言う社長だ。

 ヒューリは、走りながら首を傾げた。


「たぶん多くの人が、ヒューリさんみたいな経験を一度でもすれば、自分を抑えられる自信なんて無くしてしまうでしょう。自分がどうなるか分からないっていうのは、本当にその通りだと思います」


 そういうことか。

 飾らない答えが正しい答えだったようだ。


「でもね、それじゃあ困る訳です。うちの会社としても、ヒューリさんとしても」


 そしてマークが、一つ一つ、言葉を区切るように言った。


「で、どうするか。これが、考えるべきポイントです」


 抑えられないかもしれない。それが前提。

 で、どうするか。


「ちょっと考えてみてください」


 どうするか?

 自分が抑えられなくなった時に、どうすればいいのか?


 自分を抑えられなければ、私はまた間違った選択をする可能性がある。そんな心の状態でも、間違った選択をしなければいいということだろうか?

 たしかに、それができれば大丈夫なのかもしれない。

 でも。


 その方法が分かれば苦労はしないと思う。

 荒れ狂う自分の心をどうにかする方法など、あるとは思えない。自分を抑えられなくなってしまったら、その後はもうどうしようもないのではないか?


 修道院に入って神に祈りながら生活をすれば、自分を制御できるようにでもなるのだろうか?

 山に籠って仙人のように暮らしていけば、心が乱れることもないと言うのだろうか?


 だが、それではこの会社に入るという前提が崩れてしまう。


 やっぱり分からない。


 今の自分に、答えを見付けることなんてできるはずがない。

 どうすればいいのかなんて、分かるはずがない。


 ヒューリの思考が良くない方向に向かっていく。

 考えることを止めようとしている。


 ヒューリの体から力が抜けていった。

 ヒューリの目から、光が消えていった。


 その時。


 まだだ、諦めるな!


 ミナセの声が響いたような気がした。


 頑張って!


 リリアの言葉が聞こえたような気がした。

 閉じ掛けていたヒューリの心が開いていく。


 そうだ、諦めたらダメだ!

 ミナセとリリアを悲しませたらダメなんだ!


 走りながら、ヒューリは目を閉じる。

 瞼の裏に二人を描く。


 私は、あの二人に導かれて一歩を踏み出した。

 あの二人のおかげで、またまっとうな人生を送りたいと思った。


 あの二人となら……。


 急に、二人の姿が大きくなっていく。


 二人は笑っていた。

 笑いながら、ヒューリに向かって何かを言っていた。


 ヒューリが耳を澄ます。

 二人の声に集中する。


 その声は言っていた。

 ヒューリには、その言葉がはっきりと聞こえた。


 私たちがいるじゃないか!


 二人は、そう言って笑っていた。


 ヒューリの体に力が戻る。

 ヒューリの目に光が戻る。


 ヒューリが前を向いた。

 目の前の背中を真っ直ぐに見つめた。


 そしてヒューリは答えた。

 正直に答えた。


「私は弱い人間です。だから、私は自分を抑える自信がありません。でも」


 はっきりと、ヒューリが言った。


「私には、ミナセとリリアがいます!」


 マークの背中が小さく反応する。


「もし私がダメになりそうになったら、あの二人に叱ってもらいます! 道を踏み外しそうになったら、無理矢理にでもあの二人に引き戻してもらいます!」


 ヒューリが叫んだ。


「私は、あの二人とならやれる! あの二人となら!」


 ヒューリは、何だか嬉しくなっていた。


 そう、一人で何とかしようとしていたのが間違いだったのだ。

 自分なんて、どうせ未熟な人間だ。叱られながら、手を引かれながら生きていくのが関の山なのだ。


 だけど、あの二人となら……。


 あぁ、二人に会いたい!

 今すぐにでも会って、その手を握り締めたい!


 ヒューリは感じていた。久しく忘れていた気持ち。

 とても幸せな気持ち。


 共に歩いてくれる人がいた。なんて幸せなことだろう!


 ヒューリの目に涙が浮かぶ。


 それは、質問に答えられない悔しさからくるものではない。

 それは、自己嫌悪からくるものでもない。


 嬉しかった。

 それは、嬉し涙だった。


 ヒューリの答えを聞いたマークが、振り返る。

 完全に後ろを向き、後ろ向きに走りながら、ヒューリに言った。


「いい答えです!」


 マークは笑っていた。

 マークもとても嬉しそうだった。


「でも、その答えはまだ完成していません。だって、あの二人がそうしてくれるとは限らないでしょう?」

「はい、そうです!」

「で、どうします?」


 マークが再び問う。

 それにヒューリは、明確に答えた。


「二人に頼んでみます! 私を叱ってほしいって。私の手を引いてほしいって!」


 大きな声で答えた。


「私と一緒に歩いてほしいって!」


 それに、マークも大きな声で答えた。


「いいでしょう!」


 嬉しそうに答えた。


「じゃあ、急いで戻らないとですね!」


 そう言うと、マークは前を向き、そして突然もの凄い速さで走り出した。


「うそっ!?」


 速い!

 足には自信があったヒューリだが、その速さについていけない。


 ヒューリは必死に走った。それでも少しずつ差が開いていく。


 ダメだ!

 あの背中を見失ったら絶対ダメだ!


 ヒューリが歯を食いしばる。

 腕を振り、地面を蹴って前に進む。


 息が苦しい。

 体から力が抜けていきそうだ。


 だけど。


 やっぱりヒューリは嬉しかった。

 どこに向かうのかは、はっきりしている。


 私はそこに”帰る”のだ。


 心臓も肺も、腕も足も悲鳴を上げているのに、ヒューリは笑っていた。

 笑いながら、ヒューリは走っていた。

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