好き
ミナセは、事務所の奥にある台所を掃除していた。仕事が急にキャンセルになって、時間が空いてしまったのだ。
隣の部屋ではマークが書類の整理をしているので、音を立てないよう静かに食器棚を拭いている。
エム商会が借りているのは、家族向けのアパートだ。事務所として使っている部屋以外に、今ミナセのいる台所兼食堂と、さらに奥には寝室、そしてトイレがある。
浴室はない。大量の水を使う浴室は、設備として作るのが難しい上に、この世界では入浴の習慣があまりなかったため、一般家庭にはないのが普通だ。
人々は、普段は体を拭く程度で洗髪もあまりしない。汗をかいた時などは、町にある公衆浴場で体を洗うのが一般的だ。浴室があるのは、貴族や金持ちの家くらいだった。
寝室にはベッドが置いてあるが、使ってはいない。マークは別の場所に住んでいるし、ミナセも安宿に泊まっている。
台所は、ミナセが時々借りていた。リリアと一緒に食べる料理を作るためだ。
マークは料理をしないので、調理器具はすべてミナセが用意した。
食器を並び替えながら、次は何を作ろうかと考えていたミナセは、ふと数日前のリリアとの会話を思い出す。
「そう言えばリリア、うちの社長が店に行くと、ちょっと嬉しそうだよね?」
ミナセは、前から気になっていたとばかりにリリアに聞いた。
突然の質問に、リリアはなぜか顔を真っ赤にしてうつむく。
「えっと、その、じつは、以前社長さんから、お薬をもらったことがあるんです」
「薬?」
「はい。まだ私が、社長さんのことを”時々来てくれるお客さん”くらいにしか思っていなかった頃……」
リリアが、うつむいたまま話し出した。
いつも元気なリリアにしては珍しく、その日は風邪気味だった。
と言っても、熱も大したことはなく、咳が出る訳でもないので、体調のことは伏せたまま店に出ている。
少しきついけど、何とか閉店までもちそう
伯父たちも常連たちも、リリアの体調には気付いていない。
いつも通りに笑顔を振りまきながら、リリアは接客を続けていた。
「八番テーブル上がったよ!」
「はーい!」
料理を受け取って、窓際のテーブルへと向かう。
最近よく来てくれるお客さんだ
一人で座っている客を見て、リリアが思った。
優しそうな人という印象だが、特に話をしたことはない。
体調が悪い分、いつもより少しだけ慎重に料理を運ぶ。
「お待たせしました!」
テーブルに料理を置きながら、リリアはその客に笑顔を見せた。
その時、客が少し心配そうに尋ねる。
「大丈夫ですか?」
「?」
何のことだろう?
風邪のことかな?
「あ、はい、大丈夫です」
答えになってるのかなあ? と思いながら、リリアが返事をする。
そんなリリアを少し見つめた後、その客は、持っていた鞄から赤い液体の入った小瓶を取り出した。
「あなたは頑張り屋さんですからね。でも、体は大切にしないと。これを寝る前に飲んでみてください。滋養強壮の薬だから病気が治る訳じゃないけど、一晩寝ればだいぶ違うと思います」
そう言ってにこりと笑う。
「え、でも」
リリアが戸惑っていると、客が小瓶をリリアの手許に差し出した。
「毒とかじゃないですから。まあ、騙されたと思って飲んでみてください」
思わず受け取ってしまった小瓶を見つめてまだ戸惑っていると、ほかの客からリリアが呼ばれた。
「はーい、今行きまーす!」
後ろに向かって返事をして、もう一度向き直る。
「ほら、もう行って」
それだけ言うと、その客は料理を食べ始めた。
「あの、ありがとうございます!」
リリアはペコリと頭を下げて、呼ばれた方向へと駆けていった。
その夜、思ったよりも体調が悪くなってしまったリリアは、少し躊躇ったものの、その薬を飲んでみた。
明日はダメかなあ、と思いながらベッドに潜り込んだリリアだったが、翌朝目覚めてみると、驚くほど元気になっている。
「この薬、すごいかも!」
空になった小瓶を見ながらリリアは感動していた。
それからというもの、リリアはその客とよく話をするようになった。
名前はマークということ。
何でも屋の社長をしていること。
独り身で料理はしないから、食事はほとんど外で済ませることなど。
会話はごく短いものだったが、優しい笑顔で、時にリリアのことを気遣ってくれるマークに、リリアは好意を抱いていった。
「という訳で、社長さんにはお世話になったことがあるんです」
リリアが、相変わらず恥ずかしそうにうつむきながら話を終えた。
「そうか、社長が……」
ミナセは気付かされた。
マークは、以前からリリアのことを気にしていたのだ。
「お客さんから話し掛けられたり、お菓子をもらったりすることはあるんですけど、私の体調のこととか、疲れているかどうかなんてことを気にしてくれる人って、あんまりいなくて」
可愛らしく、もじもじしながらリリアが言う。
「だから何となく、社長さんが来てくれるだけでちょっと嬉しくて、ちょっと元気になるんです」
リリアに癒しを求めてくる客はいても、リリアを癒す客はいなかった、ということだろうか。
そもそも、伯母でさえあの態度なのだ。リリアにとって、マークの気遣いは本当に嬉しかったのだろう。
「リリアは、社長のことが好きなんだね」
何気なくミナセが言う。それほど深い意味はなく、ふと口をついて出た言葉だった。
だが、リリアはそれに大いに反応した。
「えっ!? そ、そんなことないですよ! あ、いえ、その……好き、ですけど……。でもそれはその、何というか……」
その反応に、ミナセの方が驚いている。
「あ、もちろん、ミナセさんのことも好きですよ! お二人とも大好きです!」
顔を真っ赤にしながら話すリリアを、ミナセは思わず笑ってしまった。
「はははは、ごめんごめん。それほど深い意味はなかったんだ。そんなに一生懸命答えてくれるなんて」
「そんなぁ。もう、ミナセさんやめてくださいよぉ」
リリアが頬を膨らませて抗議する。
その姿が可愛らしくて、ミナセはまた笑ってしまった。
「でも」
迫力のない顔でミナセを睨んでいたリリアが、ふと首を傾げた。
「どうしてあの時、社長さんは私の体調に気が付いたんでしょう? 結局あの日、私の体調のことなんて、社長さん以外は誰も何も言わなかったんですよ?」
不思議そうにリリアが言う。
「社長には聞いてみなかったのか?」
「聞きました。でも、まあ、何となくだよって言うだけで」
結局はっきりしたことは教えてくれなかったらしい。
「そもそも、社長さんっておいくつなんですか?」
逆にリリアがミナセに聞く。
「えっ、社長? えーっと……」
ミナセは答えられなかった。
落ち着いているようにも見えるが、三十代ではないだろう。たぶん、二十代の半ばくらいだと思われるが。
「社長さんって、何だか不思議な人ですよね。魔力をぜんぜん感じないっていうところも珍しいですし」
リリアも、マークに魔力がないことは気付いていたらしい。その珍しい体質も含めて、マークには分からないところがある。
考えてみれば、ミナセも個人的なことをマークと話したことはほとんどない。いくつか聞いてみたいことはあるのだが。
「まあ、そのうちいろいろ聞いてみるよ」
ミナセの言葉に、リリアがすかさず反応した。
「そうしたら、いろいろ教えてくださいね!」
期待のこもった眼差しにちょっと眩しさを感じながら、ミナセが笑って答えた。
「ああ、分かった」
「約束です!」
リリアは、本当に嬉しそうだった。
食器を持ったまま、ミナセは考える。
私も、リリアのことは大好きだ。つらい思いをしているのに、リリアはいつも笑っている。その笑顔で私も笑顔になれる。リリアのために何かをしてあげたいと、素直にそう思う。
だけど。
「リリアの好きって、”恋してる”ってことなのかな?」
小さくミナセがつぶやいた。
恋愛とは無縁の人生を送ってきたせいか、ミナセはこういったことに疎い。マークとリリアの年が少し離れていることも、リリアの”好き”を”恋”とは思えない理由の一つだった。
改めて、うつむきがちにマークのことを話すリリアの姿を思い出す。
やっぱりあれは、恋する乙女の姿なのだろうか?
「だとしたら、応援してあげたいものだ」
二人が並んで歩く姿を想像して微笑む。
リリアは本当にいい子だ。
リリアが幸せになることなら、私は協力を惜しまない。
「でも」
そうなれば、ミナセがマークと過ごす時間は減っていくかもしれない。
だから何なのかと聞かれても、特に答えはないのだが。
隣の部屋にいるマークの気配を感じて、ミナセはそれに集中する。
ただ、何となく……
よく分からないモヤモヤしたものを振り払うように、頭を左右に振って、ミナセは止まっていた手を動かし始めた。
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