第2話

 

第一章 リュカオン



 夢を見ていた。

 あの夜の悪夢ゆめを。


 まとわりつくような蒸し暑い夜気、汗でべったりと貼り付いた夏服の肌触り、けたたましく木霊する夜蝉の叫喚、部活帰りの疲労感――呪いのように焼き付いたあの夜の記憶が、鮮やかに甦る。

 夢特有の曖昧さは微塵もない。

 意識も五感も情景も、現実と区別がつかないほど真に迫っていた。

 だが、どれだけ現実感リアリティがあろうとも、この一か月余り、眠りにつく度うなされ続けてきた夢である。

 それを今更、現実と見誤るなどあり得なかった。


 夢は続く。

 律儀に、無慈悲に、残酷に、あの夜の出来事を、違うことなくなぞっていく。

 歩き慣れた通学路。高校指定の通学鞄を肩に下げ、くたくたに疲れ切った身体を引きずりながら、やっとの思いで我が家へと帰り着く。

 玄関扉に手をかけたところで、ふと違和感に囚われた。

 外灯あかりだ。

 部活で遅くなる自分のために、いつも両親がつけておいてくれる玄関前の外灯あかりが消えていた。

 つけ忘れたのだろうか? 首を傾げながら家の中へ。

 そして、玄関に足を踏み入れたその瞬間、眼前に広がる惨状に、血の気を失い絶句した。


 血だ。


 夥しい程の血が、床と言わず壁と言わず盛大に飛び散り、見慣れた玄関を地獄絵図へと塗り替えていた。

 悪寒と胃液が込み上げた。

 とっさに口を押さえつけ、戻しそうになるのを何とか堪える。

 肩から鞄が滑り落ちたが、構っている余裕はなかった。

 足に力が入らない。

 今にも腰が抜けてしまいそうだ。

 凄惨極まる光景に、頭の中が真っ白になる。

 ショックのあまり声も出ない。


 その時、床に広がる大量の血痕に、何か大きなものを引きずったような跡を見つけた。


 まるで、人の身体でも引きずったかのような血の跡を……。

 不意に両親の顔が脳裏を過ぎり、激しい焦燥に突き動かされるまま、靴も脱がずに廊下へと上がる。

 立ち込める血臭を掻き分けて、震える足で血の跡をたどり、リビングの扉を開けた。

 そして――



      ◆◆◆



「――っ!」


 真神まかみ真人まさとは目を覚ました。

 気持ちの悪い汗がぐっしょりと肌を濡らしていた。

 心臓が、寝起きとは思えないほどの激しさで脈打っている。

 ベッドの上に仰向けに横たわったまま、乱れた呼吸を整える。


(……またあの夢か)


 苦い気持ちを振り払うように、真人はおもむろに身を起こした。

 タオルケットを払いのけ、ベッドから足を下ろす。

 上履きをつっかけながら立ち上がり、ベッドを囲うカーテンを開け放つと、保健室は夕焼け色に染まっていた。

 養護教諭の姿はない。他の生徒の姿もだ。

 冷房の効いた室内には、真人以外誰もいなかった。

 閉め切られた窓の向こうでは、ひぐらしたちが物悲しげに鳴いている。


(僕は、たしか……)


 ぐっと額を押さえながら、記憶をたどる。

 学食で、級友たちと昼食を食べたところまでは憶えている。

 食事を食べ終え、教室に戻ろうと廊下を歩いていて…………駄目だ。

 そこから先が思い出せない。

 だが、自分の身に何が起こったか、おおよその察しはつく。


……)


 思わず溜息がこぼれ出る。

 真人はのろのろと流し台の前へと歩み寄り、蛇口を捻った。

 脳裏にこびりついた悪夢の余韻を拭い去ろうと、何度も何度も顔を洗う。

 ぼたぼたと顔から水滴を垂らしながら、真人は鏡に映る己の姿に目を向けた。


 端正と誇れるほど整っているわけでもなく、不細工と卑下するほど崩れているわけでもない。朴訥、草食、人畜無害――およそ誉め言葉とは受け取れないような品評ばかりを頂戴している、凡庸で面白みのない顔がそこにあった。


 生気の失せた陰鬱な面持ちで、じっとこちらを見つめ返している。

 我ながらひどい表情かおだった。

 目は虚ろ。顔は真っ白。まるで死体か幽霊だ。

 とても人に見せられたものではない。

 あの悪夢は見た後はいつもこうだ。

 虚無感と絶望感に押しつぶされて、心がへし折れそうになる。

 けれど――真人はぴしゃりと頬を張り、鏡の向こうの自分へと笑みを向けた。

 ぎこちなくも、まっすぐに。挑みかかるように、決然と。

 そうだ。

 両親ふたりの教えを思い出せ。

 辛い時こそ笑ってみせろと、己を鼓舞し、奮い立つ。


 ハンカチで顔を吹き、壁掛け時計に目を向けると、時刻は間もなく午後六時を回ろうとしていた。

 もうとっくに放課後だ。


(……帰ろう)


 養護教諭に声をかけてから行きたいところだが、生憎どこにいるかも、いつ戻って来るかも分からなかった。

 仕方ないので書き置きを残すことにし、何か書く物はないかと辺りを物色していたその時、保健室の引き戸が開き――


 見知った顔が二つ、部屋の中へと入ってきた。

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