リュカオン

@hiranobe

第1話

序章



「――偽りの預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊の身なりをして近づいてくるが、中身は貪欲な狼だ」


 藪から棒につぶやかれたその言葉に、次郎はきょとんと目を瞬かせた。

 白髪だらけの薄い頭髪。皺の目立つ乾ききった肌。毛玉だらけのポロシャツと色の褪せたジーンズを、弛んだ身体がぴっちりと押し上げている。

 どこか間の抜けた冴えない顔立ち。

 そして、だらしなく突き出た太鼓腹が狸を彷彿ほうふつとさせる、絵に描いたような中高年――それが田中次郎だった。


「新約聖書マタイ七章の一節ですよ。一見親切そうに振る舞いながら、内心では良からぬことを考えている人物を指す例えです」


 次郎と肩を並べて歩きながら、青年は得意げに言葉を続けた。

 縁なしの眼鏡をかけた、爽やかで理知的な風貌の青年だ。

 長身痩躯。開襟シャツにスラックス。

 歳の頃は次郎よりも十は下――おそらく三十代半ばといったところだろう。

 確か鈴木と言ったか。下の名前は分からない。何せほんの二、三時間前に、駅前のスポーツバーで初めて会った相手である。たまたま隣の席に座っていた彼とは、贔屓ひいきの野球チームが同じということで話が弾み、試合中継を見終わる頃にはすっかりと意気投合していた。


「羊の皮を被った狼という言い回しがあるでしょう? あれの由来となったのも、実はこの一節なんですよ」

「へえ、そうなのかい」


 鷹揚に笑う次郎。

 先の試合ゲームの感想から、なぜいきなりこんな話題を振ってきたのか……鈴木の意図は分からなかったし、訝しくも思ったが、次郎はすぐに気にするのをやめた。

 所詮はただの世間話だ。会話の内容や脈絡に意味を求めても仕方がない。


「僕はてっきり、童話が元ネタなのだと思っていたよ。

 ほら、七匹の子羊が狼に食べられてしまう話があっただろ? 確か狼が、母親だかおばあちゃんだかに化けるやつ」

「子羊? ――ああ、『狼と七匹の山羊やぎ』のことですか」

「そう、それ! ――って、羊じゃなくて山羊だったか」

「はい。それに今の話、『赤ずきん』が混じってますよ。食い殺したおばあさんに化けるのは『赤ずきん』で、『山羊』の方にはそういう要素は無かったはずです」

「おや、そうだっけ?」


 ほろ酔い気分で四方山よもやま話に花を咲かせながら、二人は夜の街を進んでいく。

 鈴木は落ち着いた見た目に似合わず、とても饒舌な青年だった。

 お喋りと言ってもいい。

 それが酒の力によるものなのか、彼自身の気質によるものなのかは定かではないが、おかげでこちらが気を使わずとも会話が途切れることはなかった。

 時刻は間もなく夜の十時にさしかかろうという頃合いだった。

 まだ晩夏とはいえ、さすがに夜もこれだけ深まると、気温も下がってずいぶん過ごしやすくなる。

 海が近いからだろう。

 潮気をはらんだ夜風はひんやりと冷たく、アルコールで火照った身体を心地良く撫ぜる。


「それにしても、ずいぶんと歩くんだね」


 河岸かしを変えて飲みなおそうと夜の街に繰り出してから、もうどれくらい経っただろう。

 お勧めの店があるという鈴木に連れられ、目的地も分からないままここまで来たが、いい加減歩くのにも疲れてきた。

 それに――


「こんなところに本当にお店なんてあるのかい?」


 そこは海辺に広がる古びた倉庫街だった。

 波止場はとばの倉庫街――と言うと、何やら洒落たイメージが頭に浮かんできそうだが、現実は無味乾燥な灰色の倉庫が延々と軒を連ねているだけの殺風景な場所だ。

 辺りはひっそりと静まり返っていた。

 聞こえてくる音といえば、かすかな潮騒と虫の鳴き声くらいなものだ。

 まばらに佇む外灯が、人気の絶えた街路を白々と照らしている。

 正直なところ、こんな所に飲み屋があるようにはとても思えない。


「それがあるんですよ。俗に言う、隠れ家的なお店というやつが」


 そう言って、鈴木はにやりと微笑む。


「小さな倉庫を改装したお店で、外観は残念な感じですが、内装はなかなか小洒落ていましてね。

 お酒の種類も多いし、何より料理が美味しいんです。特に肉料理!

 牛も豚も鳥も、どれも絶品ですが、僕のお気に入りは断然マトンですね!」

「マトン?」

「羊の肉ですよ」


 次郎はごくりと唾を呑んだ。

 肉料理か……。なら、お供は断然ビールだな。いや待て。肉料理と言っても色々ある。ステーキ系統ならビールよりも赤ワインに分があるか。そういえば、ウィスキーハイボールが肉に合うと最近よく耳にするな。せっかくだ。ぜひとも試してみるとしよう。


「ほら、もうすぐですよ。そこの路地を曲がって、しばらく行った先がお店です」


 促されるまま脇道へ。

 期待に胸を膨らませながら、細く薄暗い路地を歩くこと、しばし。


「あれ?」


 次郎はぽかんと目を丸くした。


「行き止まりじゃないか」


 左右には倉庫。

 正面にはコンクリートの塀。

 辺りにはおよそ店とおぼしき建物も、入口らしき扉や階段も見当たらない。


「どこにお店があ――うひゃっ!?」


 酔いのせいか、はたまた歳によるものか。

 振り向きざまに足がもつれ、次郎は素っ頓狂な声を上げた。

 ドスンと盛大に尻もちをつく。

 いい大人が情けない。赤面ものの醜態だ。


 だが今は、晒した醜態を恥じている場合でも、尻の痛みに呻いている場合でもなかった。


 次郎は見ていた。

 振り向きざま――尻もちをつくその瞬間。

 逆手に振り下ろされた刃物が、己の面前を鋭く過ぎるのを。

 もしあのまま何事もなく振り返っていたなら、今頃次郎の首筋は、その切っ先に深く抉り裂かれていたことだろう。


 目の前に佇む、青年の手によって。


「す、鈴木くん……!?」

「――駄目ですよ田中さん」


 鈴木は笑う。

 世間話の続きを楽しむかのように、穏やかな物腰も、柔らかな笑顔もそのままに。

 だらりと下げたその右手に、肉厚のサバイバルナイフを握りしめ。

 身体の芯から込み上げる怖気に、次郎は酔いも忘れて震え上がった。

 刃物を向けられた事実と、何食わぬ調子で平然と凶行に及んだ鈴木の本性に恐怖し、蒼褪める。


「初対面の相手にほいほいついて来ちゃ。警戒心無さすぎ。

 まあ、田中さんに限った話じゃないんですけどね。

 同好の士ってだけで、結構みんなガードが緩むんですよね。

 特にお酒が入るともうガバガバ。

 僕の演技力もあるんでしょうけど、それにしたってちょろいちょろい。

 どうしてみんな、僕が羊の皮をかぶった狼だとは思わないんでしょうね?

 まあ実際のところ、被ってるのは羊の皮じゃなくて人の皮なんですけど」


 言って、おもむろに歩を踏み出す。


「ひっ!?」


 次郎は尻もちをついたまま慌てて後退あとずさった。

 だが、さがったところで背後は行き止まりだ。

 逃げ場などない。


「ももも目的はお金かい!? だったら、ほら――!」


 いそいそと尻のポケットから使い古した長財布を抜き出し、鈴木の足元に放り投げる。


「へえ」


 鈴木は足を止め、感心した様子で次郎を見下ろした。


「見かけによらず呑み込みが早いですね。こういう場合、大抵の人間はパニックになって頭が回らなくなるものですが、存外肝が据わっている。大したものだ」


 鈴木は身をかがめて財布を拾い上げ、


「でも残念」


 ひょいっと、背後にそれを放り捨てる。


「物盗り目的というのは正解です。でも、欲しいのはお金じゃない」

「だ、だったら何が――!?」

「『赤ずきん』という童話があるでしょう」


 あまりに突拍子もないその一言に、次郎は返す言葉を失った。


「さっきも少し話しましたよね?

 狼が、食い殺したおばあさんに化けて幼い赤ずきんを食べようとするお話です。 たかが御伽噺おとぎばなしと侮るなかれ。

 なかなかどうして真に迫ったお話ですよ。

 何せ、図らずも僕らの本質を言い当てているのですから」

「……本質?」


 芝居がかった仕草で腕を広げ、鈴木は告げた。


「狼というのはね、羊の皮は被らずとも、人の皮は被るんですよ。

 人を食らい、その皮を被り、人間社会に紛れ込む。

 そうやって僕たちは、今日まで生き永らえてきた」

「…………はっ? な、何を言ってるんだ君は!?」

「――理解できないですか? 信じられないですか? それはそうでしょうね。

 けど、

 ……まあ、信じる信じないはご自由に。

 僕の言葉が真実だろうと偽りだろうと、あなたの運命は変わらない」


 鈴木は、逆手に握っていたナイフをクルリと順手に持ち替え、これ見よがしに切っ先を次郎に向けた。


「ひっ……!?」

「難儀な話でしてね。

 人を食らい続けなければ人の姿を保てないんですよ、僕たちは。

 あなたには何の恨みもありませんが、これも僕が生きていくためには仕方のないことです。本当に申し訳ない」


 嘘だ。

 心苦しそうな口調とは裏腹に、鈴木の顔には変わらず笑みが浮かんでいた。

 昏い愉悦と興奮が、笑顔の下から透けて見える。

 楽しんでいるのだ。この状況を。

 鈴木は本気だ。本気で次郎を殺す気だ。

 もったいぶった言動で次郎をなぶり、追い詰め、そして最後には――


「い、嫌だ! やめてくれ! ひ、ひぃえええええええええええええええええ――――っ!」


 半狂乱で泣き叫ぶ次郎。

 その姿を満悦の相で見下ろす鈴木の目は、獲物を前に舌なめずりをする獣のそれだった。もう次郎しか見えていない。

 だからだろう。



 背中から心臓を撃ち抜かれるその瞬間まで、鈴木は背後に忍び寄る彼女の気配に気づかなかった。



 空気の抜けるようなくぐもった銃声が立て続けに三発。

 着弾の衝撃で鈴木の身体が不格好に跳ね上がり、右手からナイフが滑り落ちた。


「ぐっ……! がぁ……っっっ」


 鈴木はその場に膝をつき、うつ伏せに倒れ伏した。

 背に穿たれた銃創から脈打つように血が噴き出し、見る見るアスファルトの上に広がっていく。

 虫の息で喘ぐ鈴木に、声がふりそそいだ。


「――駄目じゃないか鈴木くん」

「た……な、か………さ……?」


 力無く顔を上げる鈴木。

 その視線の先には次郎がいた。

 尻についた砂埃を払い落としながら、悠然と佇んでいる。

 先程までの怯えきった様子がまるで嘘のような、余裕に満ちた佇まい。

 否――ような、ではない。


「初対面の相手を獲物に選ぶだなんて、迂闊うかつにも程があるよ。

 もうちょっと慎重にならないと。

 僕の演技力もあるんだろうけどさ。

 それにしたって警戒が緩過ぎでしょう? 

 もしかしてアレかい? 自分は狩る立場の存在だとでも思っていたのかい? 狩られる側に回るだなんて、夢にも思っていなかったのかい?」

「……あ、な…………いった、い?」

「僕が何者かだって? 愚問だね」


 次郎は笑う。

 くしくもそれは、先刻まで鈴木が浮かべていたものと同種の笑みだった。

 追い詰めた獲物を前に、血湧き昂る狩人の笑み。


「――狼を狩るのは、いつだって狩人の務めだ。『赤ずきん』でもそうだろう?」



      ◆◆◆



 ごぼりと血の塊を吐いたのを最後に、鈴木はぴくりとも動かなくなった。

 次郎はしばし様子を窺った後、横たわるその身体を、まるでゴミでも扱うかのように足蹴にした。

 仰向けにひっくり返し、その死に顔を確認する。

 見開かれた双眸。濁り切った瞳。血の筋を垂らす口元。ぴくりとも動かない。

 間違いなく死んでいる。


「――うん」


 次郎は顎を撫でさすりながら、満足げに頷いた。

 そして、路地の入口へと顔を向け、


「ごくろうさま、朱美くん」

「おつかれさまです、次郎さん」


 硝煙たなびく拳銃を、装着した消音器サプレッサーごと懐のホルスターに押し込めながら、狩谷かりや朱美あけみは次郎の元へと歩み寄った。

 しなやかな四肢。凛と伸びた背筋。

 一七○はあろうかという長身に、パンツスタイルのダークスーツが良く映える。 その装いにショートカットの黒髪も相まって、男装の麗人といった風情を醸していた。

 物腰は鋭い。眼光もだ。

 人を寄せ付けない空気が、朱美にはあった。


 朱美は足元に転がる鈴木の遺体を一瞥し、忌々しげに顔をしかめた。

 鋭く吊り上がったその双眸には、煮えたぎるような憎悪がみなぎっている。

 と――


「おや?」


 甲高いブレーキ音を響かせながら、路地の入口を塞ぐようにバンが横づけされた。ツナギ姿の男たちが、各々道具を手に車を降り、足早に路地へと踏み入ってくる。


「いつもながら、お早い到着だね」


 次郎は呆れ気味につぶやいた。

 あらかじめ近くで待機していたとはいえ、こんなにも早く、それも、こちらからの連絡も待たずに適切なタイミングで駆けつけてくるとは、いつもながら大した手際の良さだ。


「行こうか」


 次郎たちの仕事はあくまで駆除。死体の処理は、彼らの管轄だった。

 役目を終えた以上、長居は無用だ。次郎は朱美を促し路地を出た。

 さしあたっては駅を目指し、元来た道を戻っていく。

 倉庫街は相変わらず閑散としていた。

 鈴木が好んで狩場に使っていただけに、人の気配がまるで無い。


「ふう、終わった終わった。一時はどうなることかと思ったけど、首尾良くいって何よりだ」


 呑気な調子で笑う次郎。

 その隣で、朱美が深く溜息をつき、じろりと横目で次郎を睨む。


「よく言いますね、次郎さん。それは私の台詞です。今日は下調べだけのはずだったのに……!

 バーで標的に声をかけられてしまったのは仕方ないとして、何ものこのこついて行くことは無かったじゃないですか?

 打ち合わせもなしに合わせなくちゃならない、こちらの身にもなってください……!」

「ははは、ごめんごめん。でも、仕方ないじゃないか。あそこで僕が誘いに乗らなければ、今夜誰かが餌食になっていたんだよ?」

「それはそうですが……!」

「それに実戦にイレギュラーは付き物だ。

 むしろ、準備万端、万全の体勢で事に当たれる方が珍しい。

 どれだけ入念に状況を想定し、作戦を練っても、逸脱することは往々にしてある。今回がそうだろ?

 事前の調査通りなら、鈴木が次の獲物を狙うまで、まだ十分な猶予があるはずだった。ところが、蓋を開けてみればこの通りだ。

 きちんと準備を整え、作戦通りに事を進める……それはもちろん大事だけど、不測の事態が起こった時、柔軟に、臨機応変に対応し、その上で結果を出す。

 それが出来てこそ、一人前というものさ」

「どうせ私は半人前です」

「何を言ってるんだい? 君は見事にやってのけたじゃないか。実に良い働きだったよ」

「お世辞は結構です。潮の匂いに波の音、それにこの暗がりです。何より、次郎さんが奴の注意を引きつけてくれていた。

 これだけ条件が揃っていて仕損じていては話になりません」

「やれやれ、相変わらず自分に厳しいね、君は」


 苦笑し、肩を竦める次郎。


「さて、堅苦しい話はおしまいだ。

 一仕事終わったことだし、これから打ち上げといこうじゃないか。たしか、駅前に高そうな焼き肉屋があったよね?

 いやー、鈴木があんまり肉肉言うものだから、無性に肉が食べたくなってしまったね。肉をお供に一杯どうだい?」

「申し訳ありません。私も一応女の端くれですので、この時間から焼肉はちょっと……。それにいつも言ってますよね? お酒は飲めません、って」

「つれないな。ちょっとくらいいいじゃないか?」

「駄目です」


 にべもなく斬り捨てる。

 その時、甲高い電子音が鳴り響いた。

 メールの着信音――朱美のスマートフォンからだ。


「……どうやら、のんびりと夜更かしをしている場合ではなくなったようですよ」


 届いた文面に目を通しながら、朱美は表情を硬くした。


「仕事かい?」

「はい」

「どれどれ……」


 次郎は肩越しにスマートフォンの画面を覗き込み、


「なるほど。文面からして、どうやら僕たちだけじゃなくて複数のチームに宛てたもののようだね。

 しかも、メールとはいえこんな夜中に送りつけてくるなんて只事じゃなさそうだ。で、肝心の標的は、と…………」


 言葉はそこで途切れた。

 次郎はきょとんと目を瞠りながら、記された標的の名前をまじまじと見下ろす。


「……リュカオン?」

「ご存じありませんか?」


 困惑顔の次郎を振り返り、朱美は言った。


「通称、人狼リュカオン――今巷を騒がせている、連続猟奇殺人鬼です」

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