時間のしらべ 2

 フェリシアが祖国を出て、この国のこの地にやってきたのは、そろそろ二十歳にも手が届こうかという、今から二十年ほども前のことになる。

 丁度、今の娘と同じくらいの年頃だった。


「綺麗なところね」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。ここの取り柄は、景色と人柄くらいのものだからね」


 そう言ってやわらかく微笑ほほえむのは、フェリシアの夫。この小さな国の、田舎貴族だった。

 実のところ、当時のフェリシアは、夫を優しいだけが長所の、面白味のない人物だと見取っていた。弟が決めた相手でなければ、正直、伴侶はんりょに選んだかわからない。フェリシアも、若い頃は引く手数多だったのだ。

 フェリシアには、母の異なる兄と弟がいた。

 三度の結婚をして、三人の子どもを得た代わりに三人の妻を失った父は、冷たく、遠い印象しかなく、フェリシアにとっての家族は、兄と弟だけだった。

 その兄は、爵位を捨てて去り、フェリシアの婚約披露の時に会ったのが最後となった。

 そして、弟が王位転覆を企てて失敗し、追われる身となったのを知ったのは、娘を身ごもった後のことだった。


「つまり、あの子が彼を選んだのは、私を国から出すためだったというわけなのね。それなら、誰でも良かったのかしら。――でも、それは私も同じだものね。文句なんて、言えないわ」


 そう漏らしたのは、気心の知れた下女にだけだったはずだ。

 しかしそれは、気付くと尾鰭おひれともなって人々の間を泳ぎ回り、夫の耳にまで届いていた。

 そのくらいで態度を変える人ではなかったのだが、そうと信じ切れず、破綻をもたらしたのはフェリシアの方だった。

 気遣いを見せる夫を、何故自分を非難しないのかとなじり、ひどい言葉をいくらでも投げかけた。

 はじめての妊娠と、国を出た不安、不確かな弟の安否。全てが重なり、不安定だったこともあったのだろう。

 けれどそれは、娘の誕生によって、全てとは言わないまでも収まり、平穏を得た。一時の、ではあるのだけれど。


「…ねえ。私は随分な荷物だったでしょうね。押しつけられて、邪魔よね!」

「フェリシア」


 哀しそうに呼ぶだけの声に、余計に怒りをあおられた。

 今にして思えば、反論せずに理解を待つ夫は、呆れるほどに辛抱強く、そして、本当に自分を愛してくれていたのだろう。

 当時のフェリシアは、簡単に他人の声に耳を貸し、疑ってはいけないものを疑っていた。言葉が変貌していく様は、既に知っていたはずだというのに。

 その愚かさに気付く前に、夫はってしまった。

 寝不足で、階段から足を滑らせて、そのまま。

 あまりに呆気ない、容易たやすい最期。

 フェリシアが呆然としている間に、葬儀や跡継ぎに分家から養子をもらって継がせることなど、様々なことが終わって、気付けば、フェリシアは家を移るために荷物をまとめているところだった。

 その荷物の中に、几帳面な夫のつけた日記がまぎれ込んでいた。


『今日、美しい人を見かけた。僕よりは幾つか年下だろうか。花が咲くように、笑っていた』

『あの人に会った。フェリシア、幸福という名。緊張してしまっていて、無愛想ではなかったかと思う。後で、アーロンに笑われた』


 つづられた言葉の、合間合間に見られる自分への記述。他が、その日にこなした物事の覚え書きのようなものだけに、目をひいた。


『彼女との婚約が決まった。僕を好きだからではなく、アーロンが奨めたからだとは思うけれど、それでも嬉しいと思うのは、あまりに馬鹿げているだろうか』

『出奔したという兄君に会った後の彼女は、本当に嬉しそうだった。嬉しそうに、兄君のことを話してくれる。いつかは、僕もこんなように想われたら、嬉しい』

『この国に来てから、彼女は神経が過敏になっているようだ。やはり、家族と離れるのは寂しくて、僕ではその代わりにならないからだろうか』

『娘が生まれた。フェリシアに似て、とても美人だ。嫁にいくときは淋しいだろうと言うと、まだ先だと笑われた』

『厭な噂が、フェリシアの耳に入ったらしい。それは嘘だと、どう伝えればいいのだろう。愛していると言っても、彼女は僕を見てはくれない』


「…馬鹿だわ…」


 呟きと共に流れた涙は、考えてみれば、夫が死んで以来、はじめて流した涙だった。

 失ってから気付く、その愚かさに、フェリシアは心底嫌気がさしていた。絶望と、言いえられたかも知れない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る