冴えないふたりの歩き方

ななみの

冴えないふたりの進み方



残暑という言葉がぴったりの9月。まだまだ暑いことに変わりはないけれど、エアコンを付けるにはどこかもったいなく感じてしまう、そんな夜だ。ちょっと強めの風に薄っぺらい秋雲が穏やかに流されていく。三日月とグレーが代わる代わる顔を見せ、温い風がカーテンを揺らした。


「来週恵の誕生日だろ」

「あー、うん。そんなこともあったね」

「すっごい他人事だな!?」


 俺こと安芸倫也の問いかけを、我が家のカーテンの裾のごとくふらふらっと流したのは加藤恵。「我がメインヒロインは永久に不滅です」でお馴染み、黒寄りのグレー系彼女だ。


「その、だな」

「うん」

「……デート、しよう」

「うーん、勉強大丈夫?」

「おう、ばっちりだ!」

「最近はわたし、あんまり見れてないけど、本当に大丈夫?」

「そこまで問い詰められると流石に自信ないけど……」


  俺の冷や汗に呼応するように、麦茶のグラスの中で氷がカランと音をたてた。のろまな水滴がガラスの壁を滑走していく。

 それでも、本当に勉強していることには間違いないし。気晴らしに数日バイトを入れたのがよかったのかもしれない、なんてことは黙っておく。べっ、別にやましい気持ちなんかないんだからねっ、勘違いしないでよね!


「恵は今夏休みだろ。いつまでなんだ?」

「んー、9月末くらいかな。倫也くんは毎日夏休みみたいなもんでしょ」

「何言ってんだ受験生に夏休みはないんだぞ!!」

「一応去年の夏も受験生だったんだけどね~」

「それは言っちゃダメだから!?」


 それはそれで事実だけど、去年の俺に今の俺の話をしても勉強しないんだろうなあ……。そんな余裕がなかったってのも全く嘘じゃないんだけどな。


「まあいっか。信じてるよ、倫也くん?」

「それは重たいな」

「わたし、重たい?」

「いやそりゃ重たいだろ。……自分の、好きな女の子の信頼だぞ!」

「そうやって面と向かって言っても、わたししか得しないよ?」

「今のは完全に言わせる流れだったろそうだろ!」

「えー、そんな恥ずかしいこと頼んでないんだけどなー」

「この半年弱で恵の腹黒方面のキャラ立ちがすごいことになってると思うぞ」


 それと同じくらい、いやそれ以上に可愛らしくて、ちょこっとだけいじらしくて、魅力的な女の子だと思う、なんて絶対口には出さないけど。


「キャラ立ち求めるのってDVに相当したりしないのかな。今度調べてみようかな」

「本当に怖いし冗談に聞こえないからやめてくださいお願いします……」

「まあそんなことはどうでもいいんだけどさ」

「どうでもいいのかよ……」

「デートって、どこ行くの?」


 いざ問いかけられる側になって、一瞬言葉に詰まった。

 何も考えてなかったわけじゃない。むしろその逆だ。考えていたからこそ口に出せなかったわけで。


「あのさ」

「──うん」

「池袋に13時集合でいいか?」

「倫也くん、それって……」

「やり直そう、もう1回。今からでも遅くなかったら……もう1回やり直したいんだ」


 池袋駅東口に13時集合──それが彼女との約束だった。去年は果たせなかったそれで、俺たちの"転"の始まりで。

宙ぶらりんのまま放置された思い出で。

それでも、去年のあの日とは何もかも違うんだって、そんなことは俺だってわかってるつもりだ。

 俺は浪人生で、恵はピッカピカの大学1年生で。

 俺たちは駆け出しだけど、それでもそういう関係で。

 今となってはシナリオ作りに追われているわけでもなくて。

 ついでに、いちゃつくための逃げ口上を考えることもなくなってしまって。

 麦茶のグラスの氷はすっかり溶けきってしまって、代わりに底には小さな水たまり。注いだ時と形は変わってしまったけれど。

 それでも中身が変わってないのなら。

 もしそんなありふれた奇跡が目の前に転がっているのだとしたら。


「お願い、恵」

「うーん、デート自体はいいんだけどさ」

「おう」

「やり直すなんて今付き合ってるカップルが言うようなことじゃなくない?」

「ま、まあな……」

「そもそもあの日なんか、わたしが行く前に倫也くんが帰っちゃったんだからデートなんてしてないよね」

「恵、もしかしてまだ怒ってる?」

「んー。怒ってるかもしれないわたしに「怒ってる?」なんて直接聞いてくる倫也くんの空気の読めなさは置いておくとして」


 いつもながらわかりにくいけども……ひとまずの彼女の了承にとりあえず気を緩める。

それでも、心臓はバクバク叫んでいて。

そして、彼女の気持ちがそんな斜め上だったことなんか相変わらずわかりっこなくて。


「それをやり直す前に、やり直さなきゃいけないことがあるなあって」

「……お、おう?」

「せっかくやり直すならさ、あの頃の気持ちを思い出したいなあって」

「ああ……」


 形は違くても、近づけることは出来るはずで。

なにより、そう信じるって彼女は明言して。

本物にできるって。

俺と恵なら可能なことだって。


また気付かされて、そして背中を押された気がした。

 あの頃、好きまでの1歩が呆然とするくらい遠かったあの頃。

 自分でも自分のことがよくわからなくて。

 でも、彼女といる時の安心感だけは確信できて。

 ずっと一緒にいたいっていう漠然としたワガママが胸を走り始めて。

 ……ちょっと恥ずかしいなこれ。


「倫也くん?」

「お、おう! 大丈夫だよ話聞いてるよちょっと暑いだけだよ?!」


 思わず麦茶を口に含む。ぬるい。余計に体温が上がった気すらする。


「うん、それならよかった。だからさディレクターさん」


 ──本読み、しようよ。



*** 



 彼女のその言葉がどれほど俺の血圧を急上昇させたか、聡明な読者諸君は想像に難くないだろう。

 なんせもう1年は聞いてない言葉だったし。

 尻切れとんぼな結末で終わってしまったことだったし。

 何より、画面越しに見えた彼女の額を垂れる汗とか、頬のほてりとか少しクセのついたショートボブの毛先だとか。

 そういう見たもの、感じたものが寄せては返す波のように現れては消えて、また現れては消えて。


「おーい、倫也くーん。帰ってきてー」

「ありがと、もう大丈夫」


 そう返答すると、恵は俺の背中をさすっていた手を引っ込めた。

 久しぶりにこんな盛大にむせたな……。


「ちなみに恵」

「うん?」

「……本読みってお前、どこの本読みをやるつもりなんだ?」

「巡璃19だよ」

「……あっ、ああああああああっっ!!!!」


 巡璃19──恵が一分の躊躇いもなく選んだそのシナリオは、主人公と巡璃の、ファーストキスが描かれたそれで。

つまり、初めてふたりの恋人らしさが出る重要なシーンだったわけで。


「あっ、あれ……やるのか?」

「倫也くんはやりたくないの?」

「やりたくないわけじゃないけど……でも俺たちの……その、はじめてとは違うシチュエーションだし」

「主人公と巡璃のはじめて、だからいいよ別に」


 ふたりがふたりとも「はじめて」の先を口に出したがらないのが、付き合ってもうすぐ1年も経つカップルには見えないとか、そういう意見は聞かない方向で。


「あ、そもそも倫也くんははじめてですらなかったねごめんね~」

「俺たちのって枕詞ちゃんと付けたよね?!」


 こうやって隙あらば落としてくるくせに頼んでることはなかなかにあれだし。


「覚えてる?」

「……覚えてるに決まってるだろ」

「本当に?」

「忘れられるわけないだろ」


 あんな恵を、という言葉を喉の奥にぎゅっと押し込めた。

 わたしもだよ、って囁きが漏れたのが微かに、でも確かに聞こえたから。


「今なら、長い付き合いの恋人、の気持ちに少しは近づけるかな」

「俺たち長い付き合いなのかなあ」

「倫也くん的には長いほうなの?」

「俺を恋愛経験豊富なオシャレオタクみたいに扱うのはやめろ」 

「でもわたしよりは経験豊富だよね? 豊ヶ崎2大美少女? さん方を侍らせてたくらいだし」

「お前全方面に喧嘩売りすぎだろ。てか、恵も告られてたじゃん、去年の冬!」

「あれは経験なんてカウントしないでしょ。それを言ったら、コンタクトにした後の倫也くんもなかなかだったけどね」

「そんなことないと思うけどなあ……」


 あれはモテるとかモテないとか、そういう次元の話じゃなくて、教室で弁当食べていいよとか呼吸してもいいよとか、そういうことだと思うんだけどなあ……。

 ……自分で言ってて悲しくなってきたぞ!


「でも別にいいじゃん。今は長い付き合いじゃなくても、これから長い付き合いになるんだから」

「っ……すぐ調子に乗るんだもんなあ」

「おう! 本読みなんか提案したことを後悔させてやるからな!」


なんてまた照れ隠しに鼻息を荒らげてみたり。

対して彼女が1オクターブ下のテンションでなだめにかかるのもまた俺たちの日常風景で。


「倫也くんさ」

「お、おう」

「あの時の気持ちになって読んでね」


 手の甲を軽くつねられた。

だから、軽口の1つくらいは返してやりたくもなるわけで。


「アドリブはありですか、サブディレクターさん?」

「お任せします~」


 今、俺たちのテイク2が1歩目を踏み出す。

一呼吸、唾を飲み込んで。

二呼吸、口から飛び出しそうな心臓を必死に抑えて。

沸騰した脳内エンジンと胸のポンプでもって、慎重に、冷静に、噛まないように、ゆっくりと切り出した。


「……なあ、恵」

「ちょっとぉ……緊張しすぎだよ?」

「いや、けど……いきなりだったから……」

「わたし、はじめてなのに……そんなに固くなられたら、どっちがはじめてなのかわからないよ」

「いや、恵、お前……」

「でもさ、そんなに緊張することないんだよ、多分」

「……どうして?」

「だって、悪い思い出なんかに、なるわけがないから」

「うん……」

「歯がぶつかっちゃっても、笑っちゃっても、喧嘩になっちゃっても……何が起こっても、素敵な思い出になっちゃうに決まってるから」


ずっと気がついていたことだった。

もうこのシナリオは巡璃19じゃなくて、恵19で。

イベント番号はこれからも増え続けていって。

これからは、いや、これまで通り、俺たちが歩いていく一本道だけが、世界に1つしかない俺たちにとっての神シナリオになるに決まってるって、そう信じてるから。


「……恵はさ……はじめてが俺でよかったか?」

「それはさ、半々ってところかな」

「……え」

「わたしの元カレとの思い出話を聞いて、倫也くんがおろおろしてるところとか見てみたかったな~って、つくづく思うもんね」

「お前なあ……」

「でもそれを差し引いてもね……わたしはあなたを選ぶよ。あなただけを」


あなたを、ってセリフが耳の中で繰り返される。

気恥しさは……あんまりなくて、その代わりに暖かさで心が包まれていく。

有り体な言葉で表すなら、これが幸せって感情なんだろう。

どこにでもあるけど、ここにしかなくて、俺にとって今この瞬間が全てで。


だって、恵が、お前がいるから。


だからそんな気持ちを、喉を振り絞って、なけなしの語彙力で精一杯押し出す。


「恵が……恵が、笑って死んでいける人生にしてみせるから、絶対に」

「それこそこれからの倫也くん次第なんじゃないのかな~。さしあたっては合格してもらわないと~」

「それは善処します……」


ふわっと悪戯っぽく微笑んで、けれど最後に落とすことだけはやっぱり忘れない彼女に、数回目の変わらない誓いを立てる。今夜をそんなストーリーの一部にするために。

……いや、実際もうそんなことは関係なくて。

こうやっておちゃらけた会話をしていても、その実コップの縁ギリギリまでふたりの情の波はうねっていて。

つまり、もう零れる寸前で。

それでいて、最初から堤防なんか存在しないも同然なわけで。

ただ、目の前にいる彼女に我が思いの丈をぶちまけるためだけに、そのためだけに大きな2歩目を振り上げた。


「恵……」

「倫也くん……」


華奢な肩に、微かに震える両の手のひらを出来るだけそっと、しかし実際には荒々しく添えた。

顔と顔の距離、数センチ。

画面越しには見えなかったもの──若干荒くなった呼吸音だったり、熱だったり、そんなスパイスたちが脳内をぐるぐる駆け巡って。


「……やばい、止まらない……」

「倫也くん……」


ひとかけらの理性に突き飛ばされて、彼女にそっと口づけた。

何度となく交わしたキス、唇の味。数ミリ先で漏れる声は、いつもより激しく頭の中でぐわんぐわんと反響する。


ぎゅっと目を瞑った恵、キスしてる時に目を開けると終わってから怒る恵、けれどその後に求めてくるそれはいつもいつもいつも長ったらしくて甘ったるくて、幸せなそれで。

キスしてる間は服の裾を思いっきり掴んでくるけど、終わったらしがみついてくる恵。

全部、全部、この世で俺しか知らないことで、俺しか知らない加藤恵で。

この1年弱が教えてくれた宝物で。


──だから、もう1歩だけ、戻れない1歩を踏み出したくて。

振り上げた足を下ろそうとしたその刹那。


「倫也くん、ここまで……ここまでにしよ」

「恵……?」

「わかってる。わかってる……けど」

「……お、おう」

「倫也くん……今ノってるでしょ、すごく」

「……そんなすごい顔してた?」

「わたし、見てないから知らないけどさ」


さらっとつかれた嘘にわざわざ突っ込むなんて野暮なことはしない、というかそんな余裕がないだけなんだけど。

言葉の先を急かしたい気持ちに言葉が追いつかない。


「わたしもそうだけどさ。でもさ、多分今夜これ以上先に進んだら多分──多分わたしは、来週倫也くんと顔合わせられないと思う」

「……あ……ああ」

「だから、今日はこれで終わり。終わりにしよ?」


呆然としてる俺の唇にそっと口づけると、恵は立ち上がった。頬に触れるだけの軽い口付けを残して、逃げるようにドアを閉めて去っていった。


始まりが突然なら終わりも突然で。

それを言うなら突然切り出した俺が言える道理じゃないのもそのとおりで。

彼女の別れの挨拶も、階段を下りていく音も、玄関の戸が閉まる音も、なぜだかやけに耳に残っていた。

ただのキスじゃないことは落ち着いた今、なんとなくわかった。じゃあどこまでしていたのかと問われれば……そんなこと自分ですらわかりっこなくて──わかりたくなくて。


でも、しわくちゃになったTシャツの裾が、夢じゃなかったことだけを証明していて。

しかし、1週間後に踏み出すかもしれないその1歩は、今日よりもずっと重たくなってしまったのだろうと直感する。

生ぬるい風がバサバサと参考書をめくり散らかした。

「お前は受験生だろ」なんて説教垂れてるみたいなそれを乱暴に閉じて、ベッドに倒れ込む。


それでも、こういう日に限って、睡魔はなかなか襲ってこないのだった。



***



来る9月23日、当日。

日曜の昼間ということもあってか、池袋駅東口は多くの人で賑わっていた。

13時の10分前、俺は未だ衰える気配のないカンカン照りと、背後の駅構内から微かに漏れる冷気との板挟みになっていた。

……まだ待ち合わせ時刻前なんだから構内で待ってたらいいんだろうけど、去年は30分前にはスタンバってた彼女が未だに姿を現さないことが、そこはかとない不安を生んでいたり。

だからちゃんと東口にいても、もし万が一にすれ違ってしまったら……なんて悪い方向へ妄想力が働いてしまったりもするわけで。

別に恵が来ないと思っているわけじゃない。

来るに違いない。彼女はきっと来るだろう。来ると分かってるから余計に悩むんだよなあ……。

……だろうってのは、'あの夜'から連絡すら一切取っていないからなんだけど、それは置いておくとして。

そんな彼女に、いったいどんな顔で会えばいいのか、なんて悩みっぱなしの1週間を経て、今は13時の1分前。

流石にメールの1本でも送ろうかと再度周りを見渡してみると。


「おおっ?! 恵⁉」

「そこまで派手なリアクションされるとこっちが驚くっていうか傷つくっていうか……なんだかなあ、だよね」


白いベレー帽を被った女の子が、無表情で──しかしどこか懐かしい加藤恵でもって、そこにたたずんでいた。

何か話さないとっていうある種の強迫観念と、その隣にある古めかしい安心感の綱引きが始まった。

わかっていたことだったけど──1週間ぶりの再会だから、だからそのせいでしどろもどろで。

言葉を紡ぎたくても、乾いた口はなかなか言うことを聞いてくれない。


「近くにいたなら話しかけてくれればよかったのに」

「近くにいたら気づいてくれると思ってたんだけどね~」

「本当に申し訳ございませんでしたああああ!!!」

「別にいいよ、倫也くんの方が先に来てたみたいだし」


今日は珍しく遅かったな、と口に出そうとして躊躇う。

いつから彼女がそばにいたのかもはっきりと分からないし。

そもそも恵が遅くなった原因を作ったのは俺かもしれなくて。

じゃあその俺が彼女にそんなことを聞いていいものか、と無意識に思い悩むくらいのデリカシーは、この1年間でちょっぴりでも養われていたり。


「はい」

「……お、おう」


差し出された右手を不器用にキャッチする。

小さくて、細くて、柔らかい右手は、なんだかいつもよりも脆く感じられて。

そのせいか力の入れ方を忘れてしまったようで、指を絡めることで妥協する。

でも、彼女が指を絡め返してきたことが嬉しくて……。

1週間前のことがあったとしても、素敵な思い出にしたいって。


こうして、どこかぎこちないながらも俺たちの1日はスタートしたのだった。


……不穏なフラグとか立ってないからね?!



***



「で、この後どうするの?」

「えーとだな……映画にする? それともお買い物?」


東口からどこへ行くでもなくぶらぶら歩き始めた頃、恵が思いついたように口に出した。

どこ行くかなんて決めてる心の余裕がなかったとか、それよりもいろいろ考えてたとか、そういう言い訳がいくつも思い浮かぶけど、そんなこと口が裂けても本人には言えるわけがなく。

そうは言っても、即席でサクッとデート先を決めるだけの要領も慣れも俺にはないのがまた悲しい現実で。

……ギャルゲーだったら選択肢が出るんだけどな。


「倫也くん」

「お、おう。それでどうする」

「映画は夕方にしよ」

「別にいいけど……それまでどうするんだ?」

「ちょっと歩いたら、近くに公園あるでしょ」

「あることにはあったと思うけど……行くか」


今は1日で1番暑いし冷房の効いた室内で涼みたい、なんて言葉を飲み込んだ。

だって、今日は恵の誕生日だし、そのためのデートなんだし。

だから、恵の行きたいところに行くのは当たり前のことで。

──いや、本当にそれだけか?


今までに感じたことの無い胸のざわめきだった。

どこか落ち着かなくて、そわそわして、恵が気になって、だからといって帰りたいなんてことは全くなくて。彼女のそばから離れたくなくて。

心地よい違和感が胸に鎮座している。

考えた結果、口をつぐむくらいしか俺に出来ることはないという結論になってしまう。


「……え? 行くの?」

「恵が行きたいんじゃないの……」

「そうなんだけど……倫也くん絶対暑いって言うかなあって思って」


つぐんでいた口が反射神経でよーいドンする。


「わかってて言ってたのかこのブラック娘は~~~」

「でも今日はわたしの誕生日でしょ」

「そりゃそうだけどさ」


暑いってわかってて外出るのか……っていう俺の引き篭もりオタク的思考はともかくとしても。


「今日だけだぞ! 今日だけだからな!」

「しつこいなあ倫也くんは」

「それは今更だろ」

「それをドヤ顔で言ってるのもどうなんだろうね……」

「じゃあ、今日限定でしつこくなくするか?」

「それは今日限定じゃなくて、死ぬまでずっとにしてほしいけどね」

「……死ぬまで一緒にいてくれるの?」

「だからそれも倫也くん次第だったり、そうじゃなかったり?」


結局公園に着くまではぐらかされて終わったけれど、俺の手を握る力が明らかに強くなったことには気づかないフリをしておいた。

というか、今日の恵にそんなことは言えないような、そんな気がしていて。

俺が1週間前のことを引きずってるのか?

……Noと断言は出来ないし、やっぱり気にしてるか気にしてないかなら、気にしてるし。

それにきっと、恵だって気にしてないわけじゃないはず、多分。

けれど、おそらく今はそれだけじゃなくて。

きっかけがあれだったことは確かだけど、今もそこにいるわけではなくて。

どこか遠い感覚、すぐ隣を歩いている恵の、今俺がしっかり握っているその手がすぐそばにないような、そんな不安感。

blessing software発足当初から去年の俺の告白を経て、今まで埋めてきた距離がまるでリセットされてしまったような不安感。

それでも左を見れば、確かに彼女は隣にいるし、チラチラと彼女のすまし顔に目をやっていると目線が合ってしまったりもして。

目を逸らす。とみに顔が熱くなる。目を合わせているのがなんだか気恥ずかしくて、恵を見つめていられなかった。

なんだこれ……1週間前はあんなにも見つめ合ってたのに。

どうしちゃったんだ俺は……。


自分にもわからない安芸倫也が気持ち悪くて、怖くて──彼女の手を強く握り返した。

その手はお日様のように暖かい。



***



いかにもアーバンなビル群から1歩裏路地に入ると、緑広がる公園が見えてきた。

俺が1人で来ようなんて思う場所じゃないわけで、なんとなく眺めることはあっても足を踏み入れるのは初めてだったりする。

小洒落た石造りの直方体の建物と、その膝元には一面の芝生、それにベンチがいくらか散らかっている。

カンカン照りの中でもあちらこちらに人影が見える。


「恵はここ来たことあるのか?」

「なんとなく外から眺めることはあったけどね。入るのは初めて」

「ふーん、そうなのか」

「倫也くんは……来たことないよね?」

「質問なのか確認なのかどっちなんだ?!」

「うーん、質問って体裁の確認作業かなあ」

「体裁とか言っちゃうんだもんなあ……」


とか言いつつも、来たことないのは事実なので何も言い返せない。

言外にそういう意味も含まれているようで、イチャついてるカップルが目の端にでも映ると、ドクンと胸の奥が波打つ。

……あの人たちにも俺と恵はそういうふうに見えてるのかな。


「だいたい、こんないかにもな場所、1人で来ないよ」

「……それもそうだな」


少なくとも恵の目にもそう映っているみたいで、それが小っ恥ずかしいやら、あるいは安心材料になったりもして。

いかにもな場所に連れてきたのは恵だろ、って言おうとして、しかしそれにほいほい着いてきてしまった自分を思い返した途端に脳みそがショートした。

……キリがないから、とりあえず話を進めるとしまして。


「ここで何をするんだ?」

「別に、何をするでもないけどさ……」

「ないけど?」

「倫也くんは目的がなかったら、わたしと一緒にここにいるの退屈?」

「そ、そんなわけないだろ……!?」

「えー、本当かなあ」

「お前、絶対面白がってるだろ!」

「そりゃ自分の誕生日に好きな男の子とデートしてるのを、面白く思わない女の子なんていないって」

「……お、俺の方が恵のこと、好きなんだからな! 恵が俺のことを好きなよりもずっと好きなんだぞ?!」

「倫也くん、ちょっと落ち着いて。何言ってるかわかんなくなってるから」

「…………お、おう」

「外でその言い争いするのは、流石に恥ずかしいから」

「それもそうだな……」


じゃあ外じゃなかったらいいのか、なんて思っても言えるはずもなく。

お互いが桜色した頬を付き合わせないように、ちらりちらりと目線だけで鍔迫り合いを続ける。


「じゃあ、倫也くん」

「どうした」

「ちょっと正座して目瞑って」

「……何をする気なんだ?」

「いいから」

「わかったけど……」


目を瞑ったところに……される、というのは定番中の定番、お約束中のお約束、王道の中の王道だったりする。

だから、見えないからこそ動悸が早まるのも仕方のないことで。

当然、彼女が今何をしているのか、想像こそせずにはいられないけれど…………

ちょっとくらいなら目を開けてもバレなくないか……?

薄目で、ちょっとだけ、少しだけ、3秒くらいなら。


「倫也くん、薄目もダメだからね」

「なんでわかるんだよ?!」

「だって同じ状況になったら、わたしも同じことしようとするだろうし」


今日も相変わらず俺の心を読むことに定評のありすぎる恵だった。

……プライバシーもへったくれもないよなァ?!


長い長い十数秒が経過した頃……気にしないようにしていたが、何やら太ももがむずむずする。

明らかに何かが乗っている。

重たくはないけど、軽くもない。

負担ではないけど、何かが乗ってるくらいは感じ取れる、そんな何かだ。


しばらくの間、恵が無言になった。

沈黙に耐えきれなくなった俺はたまらず口を開く。


「……俺、いつまで目瞑ってたらいいんだ?」

「あ、もう開けていいよ」

「お、おう…………っ!?」


太ももに目線を下ろすと恵とぴったり目が合った。

俺の太ももに彼女の頭が乗っかっていて、つまり俗に言う膝枕というやつだったりして。

……普段は立場が逆だったりもするけど、それはまたの機会に。


しかし、こうして見下ろしてみると、ショートボブがバラバラと散らかって見えるのがとても色っぽかったり。

そして、一度そういう思考に惹き込まれると、彼女の全てがそういうふうに見えてしまうわけで。

結局、遠くのビル群を見つめながらたどたどしく会話することになってしまう。


「恵はこれがしたかったのか?」

「だから、そういうわけじゃないってさっき言ったよね?」

「いや、そうだけどさ」

「ほら、倫也くんの顔に「何でもいいから目的が欲しい」って書いてあったから」

「別に、してほしいって言ってくれればいつでもするんだけどな」

「だって、普段は倫也くんがしてしてって激しく迫ってくるせいで、わたしが求める暇なんてないもんね」

「その言い方はあらぬ誤解を招くから!?」


求めているのは膝枕であって、当作品は全年齢対象でございます。

18歳未満の読者様にもぜひとも最後まで読んでいただきたい次第で……。

なお、付き合い始めて1年弱のカップルとは以下略ってことで。


「で、どう?」

「どうと言われましても……」


「こういうのって寝転がってる方が感想を言うもんじゃないのか?」

「……そもそも膝枕なんて本来感想を伝え合うものじゃないと思うんだけどね」

「感想聞いてきたの恵じゃんか……」

「だって倫也くん、いっつも「気持ちいい」とか「柔らかい」とか恥ずかしいことばっかり言ってくるじゃん?」

「……俺、そんなこと言ってる?」

「すっごい言うよ、倫也くん」

「あっ……そうですか……」


無意識って怖いなあ……。


「それと今の膝枕に何の関係があるんだ?」

「いや、ほら、倫也くんにもその恥ずかしい感じを味わってもらおうと思って」

「……それだと、恵が何か感想を言わないと意味なくないか?」

「そりゃわたしも何かしら感想言えたらよかったんだけどさ」


と、一呼吸入れて恵は言葉を続ける。


「倫也くん、よくこんな恥ずかしいことサラッと言えるね。やっぱり年季が違うのかな」

「今日の恵は俺のこといじめたいんだろ! そうなんだろ!?」

「「今日の恵は」なんて言われると、やっぱり普段のわたしって倫也くんに甘々なんだなあって思うよね」

「……ノーコメントで」

「甘いのと苦いの、倫也くんはどのくらいの割合が好き?」

「それ俺が答えちゃっていいのか?」

「参考にするだけだし構いやしないよ。倫也くんの答えに苦味を3割くらい足して実行しようと思ってるし」

「半々くらい……でどうですか」

「ん。考えときます」


と、恵の怖い怖いお言葉をもって会話が一旦途切れる。

実際、恵は甘い……と思う……言われてみるとだけどな。

当事者として、そんなことを考えたことなどないわけで。


客観的に見てみると、恵の甘さもなかなかだとすると。

つまり、自分の恥ずかしさもより一層引き立って感じられたりして。

それがこそばゆくて仕方ない。


「というか、俺だって恥ずかしくないわけじゃないし……」

「恥ずかしかったら、普通そんな言葉出てこないと思うんだけどなあ」

「だからそれは、意図して言ってるわけじゃないっていうか。自然と口から零れてるんだよ、本当に」


というか、こんなことを言われてしまったが故に、自然に言えてたことが言えなくなったり、あるいはその逆もだったりして。

もしかして、それも恵の計算通りだったりして……?

だとしたら──それはそれで、まあ悪くもない気分もしたり。


でも、この時点で完全に恵の手のひらの上だよなあ。

そんなことをぼんやりと思いながらも、にやけようとするのを必死に抑える。


「あー、もうこの会話終わりにしよ。わたしの方が恥ずかしくなってきちゃった」

「じゃあ……やめる?」

「膝枕はこのままがいいな」

「……恵も相当だと思うけど」

「倫也くん何か言った?」

「何も申し上げておりません神様仏様恵様!」


神様に仏様、恵の位はどこまで上がってっちゃうんだろう……

……俺の中ではメインヒロインの時点で結構上位だったりするんだけど。


彼女より上の位って、嫁くらいしかないよなあ、などと思いつきはしても、考えることは、ましてや口に出すことなんて……とても出来っこないよな。


そんなことをぼんやりと思いながら眺めた空には、灰色の雲がうっすらとかかっていた。



***



映画が終わってから外に出ると、空はもう真っ暗だった。

と、同時に恵が指を絡めてくる。同じように無言で手を繋ぎ返した。

この温もりにも慣れたもんだなあ……。


初めて手を繋いだのは……巡璃シナリオの時?

いや、違う。多分初めて六点場に行った時だ。

そこから数えると約2年。

お隣の距離感は変わらずとも、その中身は大きく変わった……と思う。


……変わってないのかな。

いつから恵に恋愛感情を持っていたか、というのは何回か考えたことがある。

けれど、その度にはっきりとした結論は出ず。

というか、開けてはいけない、開けたくない宝箱な気がしていて。

恵といる今があるなら、別にそんなことは大して大事じゃないなんて妥協した思いに起因していたりして。

……こうやって考えてみても、また結論は出さなかった。


さて、日曜の夜でも、明日が暗黒の月曜でも、池袋の街はまだまだ元気に見えるわけで。

それでも俺の心中は、映画の結末がおセンチだったからなのか。

──それとも、今日が終わってしまうからなのか。

わかりやすく言うと、どこか寂しいような、そんな感傷に浸っていたりして。


後はいつもみたいに電車に乗って帰るだけ。

いつもみたいにガラガラの電車で、いつもみたいに並んで座って、いつもみたいに先に降りる俺に恵が小さく手を振って。

いつもみたいにさよならする、それだけだった。

家に帰ったら恵におやすみの電話をかける。数分間の短い通話をどちらともなく切り上げて、床に就く。

そんな日常が繰り返されるだけだったはずだ。


いつぞやの東京駅みたいにお別れするわけじゃない。もう2度と会えないわけでもない。

多分明日明後日には、恵は俺の家にひょっこり顔を出したりして。

そうして、すぐに顔を合わせることになる、きっとそうなる。


そんなことはわかってる。わかってるけれど。

一時でも、たった数時間でも、明日まででも──


そんなことを思いながら、気がつくといつもの路面電車の揺れに身を預けていた。

横っちょの恵をちらと窺うと、彼女の意識は車窓の向こうのようで。

相変わらず窓の向こうには、ぼんやりとした暗闇とぼんやりとした雲が見える。向かいの座席にも人がまばらなおかげでよく見える。ぽつぽつと映る街明かりがなんだかすごく切ない。

けれど、相変わらず繋がれた手は温い。


次の駅が俺の降りる駅で。

つまり、そこが俺にとっての今日の終着駅で。

今日が終わってしまうのは嫌だ。

悲しい。寂しい。


けれど、それでも恵には何か言わなきゃいけない。

1週間前あんなことがあって。

いや、それ以前にもいろいろと振り回してて。

それでも、それでも着いてきてくれて、一緒にいてくれて、一緒に楽しんでまでしてくれた、そんな女の子に。


言わなきゃいけないと思った。


「なあ、恵。あ、あのさ……」

「倫也くん」

「え」


恵に声をかけたその瞬間、彼女はすくっと立ち上がった。


「次、わたしも降りるから」

「いや、次は恵の最寄り駅じゃないぞ」

「そんなことくらいわたしだってわかってるよ」

「わ、わかったけど」

「確か後ろにもう1本電車あったし大丈夫だよ、そんな気にしないでも」

「おう。それなら……安心だな」


ふたりして俺の最寄り駅の、待ち合い用の椅子が数個取り付けてあるだけの駅に降りた。

その中の2つに腰掛けて、口を開く。


「恵さ、なんで降りたの?」

「倫也くんに言わなきゃいけないことがあったから。それを言わないと今日は終われないから」

「おう……なんだ?」

「倫也くん」

「は、はい」


瞳をじっと見つめられる。いくら街灯がぽつんぽつんとしかないから薄暗いと言っても、この至近距離なら恵の目もしっかり見える。瞳孔を覗き込まれて、思わずかしこまった返事をしてしまった。

心なしか顔が熱い……けれど、これは恵にはバレてないはず。


「倫也くん、ありがとう」


「一緒にいてくれてありがとう。楽しませてくれてありがとう。一緒に楽しんでくれてありがとう。隣を歩いてくれてありがとう」


ありがとう──。

俺が先に投げるつもりだった言葉を先に投げられて、先制攻撃を食らって。

なんだよ、俺の方が先に言いたかったのに。

俺の方が先に言おうって思ってたのに──


「と、倫也くん……?」

「え、え──」


鼻先に先制攻撃をくらったから、そのせいで気がつくと目から汗が流れ出ていて。

張り詰めていた心の糸が緩んでいく。

1週間ずっとバクバクしていた心が、安心感に包まれていく。

隣の椅子から溢れ出る優しさに圧倒される。

ぼろぼろぼろぼろと、それが止まらなくて。



「あ、あ……なんでだ、なんでだよ…………」

「倫也くん、はい」


渡されたハンカチで目元を拭う。

過呼吸気味になった胸を落ち着かせようと努める。

ひとしきり済むまでに数分間、息が整った頃に言葉を返す。


「それ、電車の中で言ってもよかったんじゃないのか。乗客少なかったしわざわざ降りることも……」

「こんなこと、倫也くん以外に聞かれたくないし。あなた以外に受け取ってほしくない」

「……じゃあ、電車に乗る前とか」


……人混みの中で自分が大号泣していたとしたら、なんて話は都合よく無視するとして。


「本当はそう思ってたんだけどね。映画終わったら言おうかなって」

「それならなんで……」

「言ったら今日が終わっちゃうような気がして……さ」


さよなら、したくなかったんだよ、すっごく。


ぽつんと彼女は零した。


「だから、言おうとは思ったんだけどね」


ふふっ、と微笑む。

その笑顔は照れ隠しなのか。

はたまた、彼女の緊張もほぐれたのか。

どちらなのか、俺にはわからないし、多分恵に聞いても教えてくれないと思う。


でも、そんなことはどっちでもよくて。

先を越されてしまっても、俺が出した同じ結論も恵に伝えなきゃいけなくて。

1週間の思いからオブラートを引っペがして、愛情と感謝だけを恵の心にダイレクトに届ける。


「俺が先に言わないとって思ったんだ、ありがとうって」


「先週あんなことしちゃって。いや、それ以前にもいろいろやっちゃってるし……もしかしたら、もしかしたら嫌われたかなって。それでも今日は来てくれて……」

「違うよ」

「……え」

「あの時はわたしの方が悪かったんだと思う」

「いや、恵は何も……」

「したよ。そうやって、倫也くんを傷つけて」

「でも、その原因は俺が」

「恥ずかしいって言ったでしょ、わたし」


別に嘘をついたわけじゃないんだけどね、と1つ前置きをしてから恵のターンが再度始まる。


「怖かった……んだろうね、多分。キスはいっぱいした。一緒にいるのはもちろん楽しかった。触れるのも触れられるのも好きだった。けど……その先をふと考えた時に、ね」

「それ、は……わかってあげられなくてごめん」

「それはそう……なのかな」


付き合い始めて1年弱。

それは「一般的には」とか「普通は」とか、そんな基準に当てはめてみれば、亀の歩みだったに違いなくて。

大抵のカップルがあっという間に済ませていることに違いなくて。

けれど、俺たちがこうして寄り添うまでの間にすら2年もの月日が流れて。

最初からずっと隣にいたくせに、気づきたいこと、気づけないこと、言えないこと、言いたいこと、そればかりで。

それらを1つ1つ飲み込んで、時には投げつけ合って、消化して、俺たちの血肉にして。

──そうやって1歩1歩ずつでも進んできて。


それが俺たちの進み方なんだって、言われてみてはっきりと見えた。


「本当にごめんな、恵。もっと上手に、もっと器用に、もっと恵と楽しい時間を過ごせたらいいんだけど……俺は自分勝手だし、不器用だし、周りが見えないし……」

「まあ、それはそうなんだけどね」

「恵ぃ…………そこは慰めてほしいところだったんだけどな」

「えー、慰めたらまた調子に乗るでしょ、倫也くん」

「……保証は出来ません」

「でもね──とりあえずわたしの彼氏を悪く言うのはやめてね。今倫也くんを悪く言っていいのは世界でわたしだけだから」

「……はい」


ガタンガタン。

会話が終わったのを見計らったように最後の電車がホームに近づいてくる。

先頭列車のヘッドライトが光る。

この時が来た。


「ねえ、倫也くん」

「な、なんだ」


ガタンガタン、という音に半分くらいかき消されながら、それでも彼女の声ははっきり聞き取れる。


「わたし、帰ってもいい?」

「……だって、これしか電車ないんだろ。これで最後なんだろ。なら帰るしかないじゃん」


そんなことは俺が決められることじゃなくて。

俺がここで何を言ったとて、終電がズレることなんて、ありえっこなくて。

だから、この今この時刻──今が何時かももうよくわからないけれど、今この瞬間が魔法の終わりで。


今日という線香花火の火種がアスファルトに落ちる刹那で。


「帰れるかどうかじゃなくてさ、帰っていいか聞いてるの、倫也くんに」

「……帰っていいわけないだろ……いいなんて言えるわけないだろ! だって……だって……」


一緒にいたいから。

かなぐり捨てるように吐き切ると、恵はゆっくりとため息を吐いた。


「はあ、仕方ないなあ」

「え……いや。お前、本当に電車行っちゃうから」

「でも、こうやって手握ってるせいでここから離れられないんだよね」

「恵?!」


と、言ったが最後、今日最後の発車を果たして、列車は走り出す。

みるみるうちに見えなくなっていく。


「本当に倫也くんはワガママだね」

「それは……そうだけど」

「困ったなあ。電車なくなっちゃった」

「そりゃさっきのが終電だったからな」

「歩いてでも帰ろうかなあ」

「それはやめてください本当に……」

「えー、じゃあどうしろって?」

「うち、泊まっていってください……」

「仕方ないなあ。倫也くんがワガママ言うから」

「俺がワガママなのはわかってるけどさあ……」


これ、俺がワガママなのか、恵がワガママなのか。

あの時、俺が恵に「帰って」なんて言えるはずもなく。

つまり「帰らないでくれ」とせがむのは誰がどう考えても、起こるべくして起きた事象で。

そして、そう仕向けたのは他ならぬ彼女なわけで。


「家になんて連絡するのさ」

「んー、終電ギリギリ逃しちゃったから倫也くんに泊めてもらうって」

「そりゃ確かにギリギリだったけどなあ」


黒寄りのグレーが真っ黒になった瞬間だった。

真っ暗なホームで、彼女はそれはそれはもう、幸せそうに笑っていた。



***



街灯照らす坂道に黒い影が2つ。


「倫也くんの~ワガママのせいで~」

「まだ言うか恵!」

「えー、じゃあ1つだけ質問に答えてくれたらなかったことにするよ」

「今更答えられないこととかないから別にいいけどさ。なんだよ」

「倫也くんさ──わたしのこといつから好きだった?」

「えっ…………そんなこと唐突に聞かれても、なあ……」

「いいから数えてみて。あ、メインヒロイン期間は除いてね」

「えーと、うーん……やっぱり最初の冬コミの後からかなあ。いやでも、そう言われてみるとその前からだった気がしなくもないし……」

「優柔不断だね、倫也くん」

「……そんなこと急に聞かれたらそうなるよ。そう、恵はいつからだと思ってるの?」

「それわたしに聞く?」

「いいじゃん、もう隠すような間柄でもないんだし」

「それはそうだけどさ、えー、それ本人に言うのかあ」


「普通の感覚としては、だけど、最初にお茶に誘われた時にちょびっとは思ったよね、ちょびっとだけ。すぐに希望は潰えたけど」

「そ、そうなのか」

「そりゃそうでしょ。わたしだってそんなにモテる方じゃないんだし。あんなふうに可愛いなんて口説かれて、お茶誘われたら、ちょっとくらいは期待するよね」

「ま、まあ、考えてみると確かに」

「連れ込まれたのは修羅場だったんだけどさ」

「それは誠に申し訳ない次第でありまして!」


「逆に、恵はどうなんだよ。恵はいつから好きだった?」

「それ聞いちゃうの?」

「俺だけ言うなんてズルいじゃん」

「……倫也くん、前提条件忘れてない?」

「あんなもん、無いも同然だろ」

「仕方ないなあ」


「いつからかって言われても、はっきりとはわたしにもわからないよ。好きと嫌いじゃないに明確な線引きがあるわけじゃないし。巡璃のシナリオを書いてる時にはほとんど確信はしてたけどね」

「ああ……そっか。はっきりとした線引きは出来ないもんなあ……」

「そりゃそうだよ。好きになったものを嫌いになって、嫌いになった人をまた好きになることだってあるでしょ」

「1回嫌いになった?!」

「……それは倫也くん、自分の胸に手を当ててよーく考えてみてよ。それでもわからなかったら教えてあげるけど」

「了解です!」


「でもなあ……」

「どうした恵」

「そういう意味じゃ、倫也くんはわたしに気がついた時点からずっと好きだったんじゃないの?」

「…………え?」

「新聞配達の時でしょ。この坂の下でさ」

「えーと、一目惚れ……ってこと?」

「……それわたしに質問されても、なんだかなあ、だよね」

「……まあ、始まりはそこだけどなあ」

「だってさ、好きでもない女の子をメインヒロインにしたい、とか思う? 倫也くんってそんな天然たらしなの?」

「そ、そこまで言うか!?」

「あー、でもわたしを口説き始めた時に、既に英梨々と詩羽先輩も落としてたんだもんねー。本当、倫也くん平気ですごいことするよね」

「そういうのじゃなかったってわかってるよね?『冴えない彼女の育てかた』全ルート完走済みだよね?!」

「そうに決まってるじゃん。最後までバグとかチェックしてたし。シナリオだけなら何周したことか……」

「ありがとうな、恵」

「別にサークル副代表としての責任を果たしただけだし」

「そうかー、そうかー」

「なーんか釈然としない態度だなあ、倫也くん」

「なあ、恵」

「改まってどうしたの、倫也くん」

「いや、普通にクラスメイトとして出会って、もしゲーム制作とかなかったら、どうなってたんだろうな」

「…………1年の時からずっと近くにいたけどね」

「そ、それは……」

「だから、倫也くん、わたしになんて一生気が付かなかったんじゃない? こうやって手を繋ぐこともなかったんじゃないのかなあ」

「それを言われると痛いけど……」


「でもさ、なんか今日のデート、そんな感じだったと思うんだ」

「デートプランが? 映画はともかくとして、公園で膝枕はどうなんだろうね」

「それを提案したのは恵だってことは忘れておくとして……ってことじゃなくてだな」

「じゃなくて?」

「普通に出会って、普通に恋愛してたら、今日みたいな気持ちで初デートしてたのかなって。恵に恋してたのかなって」

「……たまーに倫也くんってすっごくクリティカルなこと言うよね。いっつも的外れなことばっかり言ってるのに」

「その評価はひどすぎないですか……」


ふたつの影が、坂を登りきるまで秒読みだ。


「なんか汗かいちゃった。先シャワー借りていい?」

「……恵、それ天然で言ってるんじゃないよな」

「……ほら、それこそふたりでゆっくり話し合って決めることなんじゃないのかな」

「今夜は電車ないからな」

「だから始発までなら、わたしにそういうことし放題なの?」

「そ、そんなことは言ってないだろ!?」

「でも今のは目付きが完全にギルティだったよ」

「だって……触られるのが好きとか恵言ってたし」

「…………わたしそんなこと言ったかなあ」

「言った言った、絶対言った!」

「はーいはい。わたし、ちょっとお母さんに電話するから静かにしててね」


坂のてっぺんから見える街は、雲ひとつない東京の夜に包まれていた。




おしまい。

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冴えないふたりの歩き方 ななみの @7sea_citrus

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