花瀬理佐の遠鳴り 其の四

 恋人の手のぬくもりは一味違う。風が吹く度、体温が奪われていくはずなのに、心も体温も暖かい。理佐は、月山の手をギュッと握った。すると、月山も少し驚いたような顔をしながら、握り返した。

 電車に揺られて二駅移動し、駅から約三分歩くと、目的地に着いた。住宅が比較的多いこの町は、大学付近では見えないオレンジ色の街灯と静まり返った街並みが理佐にとっては新鮮だった。

「着いた。ここだよ」

 古本屋を見上げると、扉の上に「橋波書店」と書かれてある看板があった。

「橋波書店……? 何処かで聞いたことあるような……」理佐は、そう呟いた。

「そう? まぁ、入ってみようよ」

 そうね、と返事した理佐は、月山と一緒に店内に入った。


「いらっしゃいませ」

 挨拶をしたのは、六十代ぐらいのおばさんだ。髪は白髪が混じった黒色で、腰は少し曲がっている。黒色のセーターに「橋波書店」と書かれたクリーム色のエプロンをしている。

「おや、久しぶりだねぇ。元気にしてたかい?」

 どうやら、親しい仲のようで、おばさんはにこやかに話し始めた。

「はい。変わらずです」

「おや、そちらのお嬢さんは、彼女さんかい?」

「そうです。この店を紹介したくて、連れてきました」

 理佐は、「初めまして」と言いながらお辞儀をした。

「お嬢さん、名前は何というんだい?」

「花瀬理佐です」

「漢字はどうやって書くんだい?」

「お花の花に、瀬戸内の瀬、理科に理に土佐の佐です」

 おばさんは理佐の話を聞きながら、手のひらに指で名前を書きこんだ。

「いい名前だねぇ。花瀬なんて珍しい」

「そうなんですよ。よく言われます」

「花瀬さんね、いつでもこの書店においでね。おばちゃん、いつもここにいるから」

 はい、と理佐は微笑んで返事した。

「そうそう、月山君って、どこの大学だったっけ?」

「天樂大です」

「あぁ、天樂ね。そうだった、そうだった。花瀬さんは?」

「理科大です」

「理科大!? すごいねぇ。二人とも賢いねぇ」

「そんなことないですよ」

 二人の声が同時に重なる。おばさんは笑って、

「ふふっ。二人相性いいのかしらね」

 二人は、同時にそっぽを向いて頬を赤らめる。

「そういえば、娘さんも大学生でしたよね?」と月山が話を切り出す。

「そうなのよ。もしかしたら同じ大学かもって思ったけど違うかったわ」

「どこの大学ですか?」理佐が聞く。

「圭文大だよ、ほら、ここから二駅先の」

「圭文大ですか、結構近いですね」

「うちの天樂大からも理佐の理科大からも近いね」

「まぁ、あそこ大学結構多いからねぇ。もしかしたら、うちの娘に会えるかもしれんね」

「会ってみたいですね」

 理佐はそう言うと、周りを見渡し、本を一冊ずつ流し見始める。

「じゃあ、ゆっくり見て行ってね」


 理佐は参考書を一冊、月山は文芸書を一冊を買った。時刻は既に七時半を超えていた。

 また電車に揺られて、街に戻る。ガタンゴトンとレールを駆け抜ける音は、心地よく睡魔を誘う。眠い、と理佐が呟いた。

「ねぇ、肩貸して」

「あともう少しで着くよ」

「いいの。ちょっと目を瞑るだけ」

「じゃあ、起きておくから、瞑ってていいよ」

「ありがとう、諒」

 そう言って理佐は月山の肩に顔を傾ける。そして、ゆっくりと目を瞑る。

 普段、理佐は甘えることをしない。いつも何処かで気を張っているように月山は感じている。恐らく、今甘えだしたのは、この車両にたまたま誰もいないからだろうと月山はみた。

 理佐の傾けた頭が次第に月山の体に馴染んでいく。全然重くはない。寧ろ軽いくらいだ。ちらりと理佐の顔を覗くと、目の下に薄っすらとくまがあるのが分かる。勉強とバイトで疲れ切っていたのだろう。今日は誘って正解だったのだろうか。

 そうこう考えているうちに二駅など直ぐに着こうとする。車掌のアナウンスを聞いた月山は、理佐の肩を揺らして、

「理佐、もうすぐ着くよ」

 と言うと、理佐はきつく目を瞑って、ぼんやりと開ける。

「もう、着くの。早い」

「ほら、もうちょっとだから」

 理佐は、もう一度眠ろうとする。月山は、どうにかしないとと頭を巡らせ、一つアイデアが浮かぶ。手っ取り早く、目が覚める方法。

 月山は車両の周りを見渡して、

「理佐、こっち向いて」

 と言って理佐が頭を上げた瞬間、唇を重ねる。

「んっ!?」

 このシチュエーションに驚いた理佐は、すぐに目が覚めた。

 キスをされた反射ですぐに顔を離れて、

「な、何してるの」

 口に出す。それに被せて、

「大丈夫、この車両に俺ら意外誰もいないから」

 と淡々と月山は言った。

「なら、いいけど」

「あ、頬っぺた真っ赤だ」

 恥ずかしさのあまり、頬はチークよりも真っ赤に染まる。それは、冬のせいだろうか。そうだ、冬だから頬が真っ赤になりやすいんだ。

「冬のせいだから」

 それを聞くと月山は唸り、

「生物学的知識はないから、何とも言えないけど、それは違うんじゃない?」

 とマジレスをし始める。

「だって、それはリンゴ病とかなら分かるけど、君は確かリンゴ病ではないだろう? だったら、冬のせいとは言い難いんじゃ」

 彼の最大の欠点は、マジレスを始めると止まらないところ。理佐は、それをあえて被せて、

「諒、今日、泊っていい?」

 と言うと、マジレスマシーンは口を塞ぐ。

「今日は疲れたからさ……。いい?」

 月山は、こくりと頷いて、

「いいよ。特性の豚汁を御馳走するよ」

 微笑んで言う。理佐は、ニヤッと笑って見せた。


 こんな甘い日々は、束の間。ある事を境に距離が生まれるとは二人は知る由もない。

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