フカノの異常な愛情 ~または私は如何にして心配するのを止めてフグを愛するようになったか~

 異邦島エリュテイアは今日も快晴であった。雲一つ無い青空から降り注ぐ日差しが、立ち並ぶ建物を白く輝かせている。気持ちの良い青空だが、日差しにずっと当たっていると、暑く感じてしまう。そんな訳で、神殿の庭に出ている青年は、大きな傘を地面に差して、日陰の中に座っていた。

 青年の名はフカノ。この世界には存在しない漢字で書くと深野。つまりは異世界転生者である。前世でサメを道連れに爆死したところ、女神に見込まれてこの世界に転生することになった。同じく転生してきたサメを激闘の末に倒したので、今ではサメ殺しの勇者として讃えられている。

 しかし、称賛だけでは食っていけない。日銭を稼ぐ仕事が必要だった。幸い、仕事はあった。エリュテイア最新にして、普通の高校生であるフカノにも務まる仕事が。

「次の方どうぞー」

 フカノが呼びかけると、壺を抱えた漁師がやってきた。

「どもー。見たことない魚を見つけたんで、持ってきました。これで金が貰えるって本当ですか?」

「本当に新種なら、ですけど」

「さっすが、魚博士! 太っ腹!」

 魚博士。それは、エリュテイアで最も新しい職業である。サメ騒動以降、海に新種の魚が増えた。それだけなら良いのだが、中には毒を持つ魚もおり、これを食べてしまう事故が多発した。そうした魚を調べて、市民が間違って食べないように喧伝するのが、魚博士フカノの仕事であった。

「それで漁師さん。どんな魚を見つけたんですか?」

「いやあ、何ともヘンな魚なんすよ。何かグニャグニャしてて、手だか足だかいっぱいついてるし、おまけに凄い力で掴んでくるんですよ。引き剥がして壺の中に入れるのに苦労しました」

「……それ魚なんですか?」

「魚でしょう? 海を泳いでたんすから」

 漁師は当たり前、といった様子で返事をする。この世界では、海を泳いでいるものは大体魚扱いされている。流石に貝や海藻は区別されているが、イルカも、クジラも、ウナギも、タツノオトシゴも、すべて魚だ。

「とりあえず見てみましょうか」

 フカノは壺の蓋に手をかけた。漁師は一歩後ずさる。

「気をつけてくださいよ? 開けた途端に飛びかかってきたら、大変っすから」

「大丈夫でしょう、魚なら」

 蓋を開けると、壺の中には海水が満ちていて、更にその中に赤く柔らかい物体があった。漁師の言う通り、手とも足ともつかない触手が何本も生えている。更にそれらの触手には、丸い突起がびっしりと並んでいる。触手の根元は、毛も鱗も無い、ぬめっとした丸い肉塊。何も知らない人が見れば、魔物か何かと思うだろう。

 だが、フカノはこの生き物を知っていた。

「タコじゃん」

 箱の中に入っていたのは、吸盤のついた8本の足を備えた、赤い軟体生物。何の変哲もないタコだった。

「知ってるんですか、さすが博士!」

 タコは箱に満たされた水の中でうねうねと動いている。活きが良い。

「博士、どんな魚なんすか、これ?」

「うねうねしてて、柔らかくて……いや、それは見たらわかるよな。これは、墨を吐きます」

「スミ?」

「そう。黒いのを口からばーって出すんですよ。やりませんでした?」

「あー、はい! 出しました、出しました。仲間の顔にかかって大変でしたよ。あれ、スミって言うんですか。毒じゃないっすよね?」

「ええ、毒じゃないです。黒いだけ」

「さっすが、サメ退治の英雄だけあって詳しいっすね。他には何かあるんすか、この魚?」

「え? えーと……食べるとおいしい」

「えっ」

 漁師はタコに視線を落とし、フカノに視線を戻した。

「食べるんすか、これを?」

「うん。身が引き締まってて、ぷりっぷりだ」

「身が引き締まってて、ぷりっぷり」

「ぷりっぷり」

「何がぷりっぷりよ」

 フカノはタコから視線を上げた。横から声をかけてきたのは、緑色の瞳の少女だった。肩の辺りまで伸びたウェーブのかかった金髪が、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。すらりとした体には白いノースリーブのシャツを纏っており、その上に薄いケープを羽織っている。足は薄緑色のスカートで隠れていて、サンダル履きの素足がかろうじて見えるぐらいだ。

 彼女はケイト。フカノが魚博士として働く神殿の最高責任者であり、エリュテイアを治める王族の一人であり、海の女神の生まれ変わりでもある。

「してるよ。ほら、タコ」

 フカノはタコの入った壺を掲げてみせる。ケイトは中身を確かめると、つまらなそうに溜息をついた。

「はいはい、マダコね」

 海の女神の生まれ変わりであるケイトにとって、海の生き物を見分けることは、文字を読むことよりも容易い。一目見ただけでどんな種類のタコか、どのような特徴を持つのか理解できる。

「毒を持ってて、噛まれると痛いから、それだけは気をつけなさい」

「え、でもフカノさんは食べられるって言ってましたよ?」

「……口の所を取れば食べられるけど。フカノ、貴方の世界じゃ、本当にこれ食べてたの?」

「ぷりっぷりだぞ」

「それはもういいから」

 タコの食感を主張するフカノを適当にあしらい、ケイトは銅貨が詰まった袋を漁師に渡した。

「はい。報奨金」

 漁師は銅貨袋を受け取ると、晴れやかな笑顔でケイトに頭を下げた。

「ありがとうございます、女神様!」

「大事に使いなさい」

「呑むぞーっ!」

「聞いてる!?」

 ケイトの叫びには聞く耳を持たず、漁師はスキップしながら酒場へと向かっていった。恐らく、袋は今日中に空になっているだろう。

「まったく、男ってのはどいつもこいつも……」

「俺は呑まないぞ?」

 フカノは未成年である。転生前の年齢を足しても20歳にはなっていない。一応、このエリュテイアでは呑める歳だが、酒が旨いとは思えなかった。

 しかしケイトは溜息をついて言葉を返した。

「その代わり食べるでしょ……そのタコも食べるつもりじゃないでしょうね」

「ダメか?」

「当たり前でしょ。研究資料なんだから、ちゃんとスケッチして、水槽に入れておきなさい。私は仕事に戻るからね」

「あいよー」

ケイトが神殿に戻るのを見送ると、フカノは木の板と木炭の棒を手に取り、壺の中のタコの絵を描き始めた。

 実のところ、フカノの魚知識は高校生レベルなので、王国の学者やケイトに比べたら大したことはない。彼の本当の仕事は、持ってこられた魚の絵を描くことだった。フカノの学校の美術の成績は3で、絵はそれほど得意では無いのだが、異世界では十分なスキルだった。

 もちろん、この世界には画家や美術家もいるが、彼らに頼むとお金がかかる。必要なのは美しいタコの美術品ではなく、タコの特徴がわかるスケッチなのだ。

 うねうねと動くタコのスケッチを描いていたいたフカノだったが、誰かが近付いてくる気配を感じ取って手を止めた。

「誰かー!? 誰かいませんかー!?」

 少女の騒がしい叫び声。あわてんぼうなこの声を、フカノはよく知っている。この世界に来た時に、初めて聞いた声だ。

 間もなく、海のように透き通った水色の髪の少女が、道を駆けてやってきた。水着のような羽衣についたレースが、ひらひらと元気よく舞い踊っている。彼女はマイア。この異邦島エリュテイアの海を司る女神だ。女神の生まれ変わりであるケイトとは違う、正真正銘の女神。その力は、サメを道連れに爆死したフカノを異世界転生させ、体を傷一つなく修復し、ついでにエラ呼吸機能をつける程だ。

 神殿の敷地に入ってきたマイアは、フカノの姿を見つけると駆け寄ってきた。

「フカノさん、フカノさん止めてくださーい!」

 マイアが慌てている原因は、その手に持った魚だった。丸い、つやつやした魚なのだが、どういうわけか口から水を吐いていた。

「えっ」

 フカノが困惑しているうちに、マイアはフカノの側に辿り着いた。射程圏内。魚から吐き出された水が、フカノの顔にかかる。

「しょっぱ!」

 海水だった。

「あの、すみませんフカノさん! さっき港の漁師さんから新しい魚を見つけたって言われて渡されたんですけど、私この魚がわからなくて!」

「ぶえっ……水が……」

 マイアが喋る間も、フカノの顔に水がかかり続けている。

「それで私が持ったら何だか口から水が出るようになってしまって! 宥めても怒っても水を止めてくれないし、私も知らない魚だからどうしたらいいかわからなくて!」

「いや、ちょっと……あぷ」

「それでフカノさんの所に持ってきたんです! 何とかなりませんか、この子!?」

「みず……水!」

「え、あ、ごめんなさいっ!」

 ようやく、フカノの顔に水がかかっていることに気付いたマイアが、魚を上に向けた。天に向かって吐かれた水は、フカノの世界よりも緩い重力に引かれて、2人の頭に降り注いだ。

「あわわわ……!」

「あーあーあー……」

「……何やってんの?」

 庭の騒ぎに気付いたケイトが神殿から出てきた。魚の口から吐き出される雨にわちゃわちゃしている2人を見て、ケイトは困惑していた。

「新しい魚が!」

「魚の口から水が!」

「貸しなさいよ、まったく」

 ケイトがマイアの手から魚を取り上げると、魚は水を吐き出すのをピタリと止めた。

「あ、止まった」

「一体何の魚なの? 水を吐き出すなんて……」

 手に持った魚を見たケイトだが、一目見るなり魚を投げ捨てた。

「あっ、おい」

「もう、かわいそうじゃないですか」

 地面に落ちた魚を、マイアが拾い上げようとする。

「触るなっ!」

 鋭い静止の声。マイアの手が止まる。

「な、何? どうしたの?」

「触らないで。それと、それ以上他の物にも触らないで。これから治癒術師を呼んでくるから」

「何だよ大げさな……」

 魚一匹になぜそんなに騒ぐのだろうか。困惑するフカノに対し、ケイトは切羽詰まった様子で答えた。

「あなたなら知ってるでしょ! それ、フグよ!」

「フグ?」

 フカノは足元の魚に視線を落とした。丸々としたシルエット。焦げ茶色の背中に白い腹。小さくついた尾ビレと胸ビレ。テレビや図鑑で見たことのある、フグそのものだった。

「ほんとだ。フグだ」

「フグでしょ! だから、治癒術師が来るまでじっとしてて!」

「何で?」

「毒が! あるでしょ!」

「あっ」

 言われてフカノは思い出した。フグには一口で人間を死に至らしめる、テトロドトキシンという猛毒がある。

「いやでも、食べるならともかく触るぐらいなら大丈夫じゃないか?」

「甘く見ないで。皮に毒がついてる場合もあるのよ。とにかくそこでじっとしてて。今から王宮の治癒術師を呼んでくるから」

 そう言うと、ケイトは神殿の中へ駆け戻っていった。後に残されたのは、呆然とするフカノとマイア、そしてピチピチ跳ねる活きのいいフグ。

「どうしたもんかな」

 あまりの急展開に、フカノは困り果てるしかなかった。

「ええと……とりあえず、お魚食べます?」

 マイアが魔法で魚を作り出す。サバだ。残念ながら、この事態はサバでは解決できない。

「いや、それよりも」

 フカノは活きのいいフグを拾い上げ、タコの絵を描いていた板の上に置いた。それから、傍らに置いていた道具箱の中を漁り、ナイフを取り出す。

「何するんですか?」

「食べる」

「食べるって、フグを?」

「フグを」

「……いやいやいや、駄目じゃないですか! 毒があるんですよ!?」

 マイアは一瞬流しかけたが、すぐに気付いたようで慌ててフカノを止めようとする。

「でもな、いけるんだよ」

「何がですか?」

「フグ。めっちゃうまいって聞いたことがある」

 マイアは口を半開きにしたまま、2,3度目をしばたかせた。

「毒があるんじゃないんですか……?」

「ある。でも毒があるのは内臓と、あと皮にもあるのか? どっちにしろ、身なら大丈夫なんだ」

「本当ですか?」

「多分」

 ナイフでフグをしめ、身を切り分けて薄く切る。テレビのように綺麗にはならないが、これでも十分ふぐ刺しだ。

「それじゃ、いただきます」

 マイアが何か言おうとする前に、フカノはフグの切り身を食べた。

 瞬間、口の中に襲いかかってきたのは、美味と言う名の暴力だった。確かな歯ごたえがありながら、とろけるようなうま味。おいしい物を食べた時にしか感じられないあの幸福感が、口の中全体に広がる。

「あの……フカノさん、大丈夫ですか?」

 マイアが心配そう名声をかけてきた。

「ん?」

「震えてますけど。ひょっとして毒が……」

 言われてフカノは気付いた。体が震えている。毒ではない、歓喜の震えだ。

「いや、毒じゃない。うますぎて震えてた」

「そんなに!?」

 マイアが驚くのも無理はない。フカノもフグがこんなにおいしいものだとは思わなかった。身を切り分けて、もう一口。しっかりと脂が乗りながら、口の中に残らない上品なうまさ。

「うまい……」

 心の底からの感想が口の中からこぼれてしまった、フカノであった。


――


 キレネスは王族に仕える治癒術師である。王立魔術学院を主席で卒業し、長年王宮に勤めてきた彼を、現国王クリュウ16世は高く評価し、王家専属の治癒術師の地位に引き上げた。既に壮年を超えた老人であり、そろそろ引退を考えてはいるものの、魔術の腕は衰えていない。世界最高の治癒術師は誰かという問いがあれば、彼の名前が必ず上がるだろう。

 そんなキレネスが昼食をとっていると、神殿から使者がやってきた。危険な毒が見つかったので、解毒してほしいという話だった。依頼の主はケイト。国王の孫娘であり、海の女神の生まれ変わりでもある。キレネスに依頼を断る理由はなかった。

「ケイト様からの頼みとは、懐かしいのう。小さい頃はよく診たもんじゃった」

 馬車に乗り、神殿へ向かいながら、キレネスは昔話をする。

「ケイト様は病弱だったのですか?」

 相手は助手のゴブリン、デッシュ。彼もまた優秀な治癒術師だ。ゴブリンらしからぬ優秀な頭脳に加えて、ゴブリン種族に伝わる薬草学を研究しており、幅広い患者に対応できる。

「いや、そういう訳ではないが、おっちょこちょいでな」

「おっちょこちょい」

「貰ったお菓子を食べすぎて虫歯になったり、庭で遊んでたら木にぶつかって怪我をしたり、色々あったのう」

「……それ、私なんかに話していいんですか?」

「昔のことじゃし、隠すような事でもなかろう」

 そんな風にキレネスが昔話に花を咲かせている内に、馬車は神殿に辿り着いた。

「さて、患者は――」

「フカノさあああん! しっかりしてくださあああい!」

 神殿の庭から叫び声が聞こえてきた。

「あっちじゃな」

「そうですね」

 キレネスとデッシュは鞄を持って庭へと向かう。するとそこには、仰向けになって倒れた青年と、彼に治癒魔法をかける女神マイアの姿があった。

「いかがなされましたか、女神様」

「起きてください、フカノさん! フカノさん!」

 マイアはキレネスたちに気付いていない。よほど焦っているようだ。

「女神様、我々が診ます。どうかご安心を、必ず助けますので」

 キレネスとデッシュは倒れた青年の様子を見る。目立った外傷はない。しかし顔面蒼白で、泡を吹いて倒れている。呼吸も細い。病気の症状ではない。

「毒じゃな」

「毒ですね」

 キレネスとデッシュの見解は一致した。

「デッシュ、解毒魔法アポト・クシノシィじゃ。マンドラゴラを触媒にせい」

「アザミでなくてよいのですか?」

「ちと、嫌な予感がしての。様子見は不要じゃ」

「わかりました」

 デッシュが鞄からマンドラゴラの粉末を取り出し、フカノにかける。そして呪文を唱えると、フカノの体に魔力が作用し始めた。解毒魔法アポト・クシノシィ、治癒魔術としては基本的なものだが、十分な触媒と術者の力量があれば、大抵の毒は浄化される。しかし、フカノの容態は変わらない。

「どれだけ強力な毒なんだ……?」

「続けるんじゃ。効いていないはずがない」

 キレネスたちが処置を続けていると、ケイトが神殿から走ってきた。

「今度は何を騒いで……フカノ!?」

 ケイトは倒れたフカノを見て、それから捌かれたフグを見て、マイアを睨み付けた。

「食べたの?」

「は、はい……」

「どうして止めなかったのよ!」

「だって、毒がない所なら大丈夫だって言って、止めたけど食べちゃって……」

「このバカ……!」

 キレネスは地面の魚に目を向ける。見たことがない魚だ。丸みを帯びた体で艶がある。捌かれた身は白い。

 最近、新種の魚が次々と見つかっていて、その中には毒を持った魚もいるという話を、キレネスは思い出した。毒のある魚など与太話だと思っていたが、こうして被害者を見てしまったら、信じるしかない。

「失礼、魚を調べますよ」

 キレネスは魚に手をかざし、呪文を唱える。

毒物鑑定エクティミシィ・タクシィ

 魔法を受けた魚が、その性質を表す黒い光を放ち始めた。

「……ほう」

「先生、これは……!?」

 デッシュが顔をひきつらせた。

「何なんですか? 何の魔法ですか、これ?」

 マイアの問いにデッシュが答える。

「女神様、これは毒の危険性を測る魔法です。何もなければ白く光りますが、傷んでいれば黄色、毒が盛られていれば赤と、色が変わります」

「それじゃあ、黒はどういう意味なんですか?」

「……黒はヒュドラ級。毒の中でも最も危険。受けてしまえば命はない、極めて強力なものです」

 デッシュの言葉に、マイアもケイトも凍り付いた。

「これほどの毒は私も初めて見ました。手は尽くしますが、助かるかどうかは……」

「懐かしいのう。先代のアーリオン公を殺したのも、ヒュドラ級の毒じゃったか」

 キレネスは感慨深く呟いた。

「――はい?」

「デッシュ。お主、今何歳じゃ?」

「何歳って……ゴブリン年齢なら42、王国年齢なら21ですが」

「まだまだ若い。王宮勤めの術師なら、これくらいの毒でうろたえるでないわい」

  キレネスは王族に仕える治癒術師である。長年王宮に勤めてきた彼は、権力闘争の渦中にいた。前国王ゲリュオン11世には5人の男子がいたが、生き残ったのは現国王のクリュウ16世だけだ。そんな彼の食事に盛られた毒を、キレネスは何度も見つけたことがある。毒見役が買収され、倒れた国王を魔法で助けた事もある。現国王が即位し、犯人たちがあらかた追放、左遷された後はめっきり減ったが、それでも王宮内で毒物を見かけることはたまにある。

「デッシュ。教えてやろう。このように強力な毒は、まず解毒するよりも患者を死なせないことを考えよ」

 だから、今更ヒュドラ級の毒物に驚きはしない。ましてや、陰謀も何もない、生物が堂々と持っている毒など、怯む理由がない。世界最高の治癒術師として、堂々と対処するだけだ。キレネスは鞄から巻物を取り出す。使い捨ての巻物スクロール。文字そのものが触媒となり、魔法の効果を高めるアイテムだ。

「天地に宿る精霊たちよ、彼の者に今一度生きる力を与え給え」

 巻物に記された文字が消滅し、代わりに魔力となってフカノの体に流れ込む。活力回復ゾティ・コーティタ。解毒や回復の魔法ではなく、人が持つ生命力そのものを活性化させる魔法だ。魔法による後押しを受けたフカノの体が、僅かながら呼吸を始めた。

「強力な毒への対処は一分一秒を争う。患者が死ぬまでの時間を長引かせてから、毒を調べるのじゃ」

「は、はいっ」

「さて、この毒は……」

 キレネスはフカノの体に触れ、脈を取り、瞳孔を覗き込み、口の中を調べる。

「吐血や内出血の様子はない。脈拍も正常。活力回復ゾティ・コーティタが効いているから、魂が乱れているわけでもない。だが、呼吸は止まりかけている。さて、こうした特徴が出るのはどのような毒かのう?」

「……麻痺毒! トリカブトやバジリスクが持つ毒ですね!」

「その通りじゃ。麻痺解除パラリ・クシノシィで対処する。出し惜しみはせん、オリハルコン粉末を使う」

「はいっ!」

 麻痺解除パラリ・クシノシィは汎用性のある解毒魔法アポト・クシノシィと違い、麻痺の症状にしか通じないが、その分効果は強力になる。加えて、貴重なオリハルコン粉末を触媒にすれば万全だ。

 それから数十分の治療の末、フカノの容態は安定した。まだ目を覚まさないが、毒はおおむね浄化され、呼吸も安定し、フカノ自身の治癒力に任せても問題ない程度にはなった。

「ありがとうございます、キレネスさん。フカノさんを治療していただいて」

 女神マイアが深々と頭を下げた。

「いやいや、女神様、顔を上げてください」

「でも、私の魔法じゃ全然フカノさんは目を覚まさなくて。キレネスさんがいなかったら今頃……」

「いえ、彼が助かったのは女神様のお陰でもあるのです。胸を張ってください」

「私の?」

 マイアが不思議そうな顔をする。

「ええ。恐らく、女神様が最初に素早く治癒魔法をかけておらねば、私達が来る前に彼は死んでいたでしょう。あなたが毒を食い止めてくれたからこそ、私達が間に合ったのです」

「……本当ですか?」

「ええ」

 実際、キレネスの治療でもギリギリだったのだ。マイアが側にいなければ、フカノは確実に死んでいただろう。

「それなら、ちょっとだけ楽になりました。はい」

「そもそも女神様は何も悪くないのですから。悪いのは、毒があるこの魚です」

 壺に封じられたフグを見て、キレネスは言う。恐ろしい魚だった。一見無害なようでいて、ヒュドラ級の毒を備えている。急いで国民に知らせなければ、新たな犠牲者が出るだろう。

「ケイトお嬢様。この魚はどこで見つけたのですか?」

「マイア様が持ってきたのよ。どこで見つけたの?」

「港で貰ったんです。知らない魚が獲れたから、何の魚か教えてほしいって」

「他にもいた?」

「何匹か」

「わかった。すぐに港に遣いを出して……いや、私が直接行くわ。確実に回収しないと」

「では、そちらはお任せします、お嬢様」

 女神であるケイトに任せれば、港のフグを回収することについて間違いはないだろう。

「我々は、王宮にこのフグという魚を知らせにいきましょう。この壺、お借りしてもよろしいですかな?」

「そうね。よろしく」

「よし。行くぞ、デッシュ」

「はい!」

 壺を持ったデッシュと共に、キレネスは馬車へ乗り込んだ。


――


 ケイトの素早い対応により、港に水揚げされたフグは全て回収された。毒があることに半信半疑な漁師もいたが、マイアもいたのですぐに信じてくれた。また、王宮の方にはキレネスが知らせたため、フグの危険性はすぐに知れ渡った。

 フグが見つかった翌日、王都の港と市場にフグの売買を禁止するお触れが出た。王都以外の都市や漁村にも、順次フグの危険性を知らせる手筈になっている。この異邦島エリュテイアで、フグ毒による大量中毒死が起こる可能性はほぼゼロになったと言っていいだろう。

 もし、フグ死する人間がいるとすれば。

「何でまた食べたの?」

 目を覚まして2時間後にまたフグを食べ、またしてもフグ毒で倒れたフカノぐらいである。

「いやその、つい……」

「つい、じゃないわよ。あなた、死にかけたのよ?」

 今、フカノは正座させられて、ケイトとマイア、それに治療のために再び呼ばれたキレネスとデッシュに囲まれている。お説教のお時間である。

「覚えてないんだよ。気がついたら倒れてて」

「キレネスがあなたを助けたのよ。感謝しなさい」

「ありがとうございます……」

 フカノはキレネスに頭を下げる。

「それで、何で食べたの?」

 そしてケイトが話を戻す。

「起きたら部屋にいて、ちょっと歩いたら箱いっぱいのフグを見つけてさ。腹が減ってたからつい」

 フカノが言っているのは、ケイトが港から回収してきたフグのことである。当然、食べ物ではない。

「毒があるって知ってたでしょ? そもそも、どうして放置されてた生魚を食べようなんて思えるのよ」

「それはあれだ、焼けばイケるって思ったんだ」

「……料理係」

 ケイトの冷たい声に、フカノの隣にいるサメのぬいぐるみたちが体を震わせた。彼らは生きたぬいぐるみ、リビングパペットという種族である。正確にはフカノと同じ世界から、トラックごと異世界転生してきたぬいぐるみだ。

 ここにいるのは、そんなサメぐるみのうちの2体、料理係のサメぐるみAとBである。フグを持ってきたフカノに厨房を貸してしまったので、フカノと一緒に説教されている。

「どうしてフカノを厨房に入れたの」

 ケイトの質問に対し、サメぐるみたちは身振り手振りで釈明する。喋れないのでこうなるのだが、その仕草がとても可愛い。すでにマイアとデッシュは可愛さにやられて表情が緩んでいる。もちろん、怒っているケイトには通じていない。

「つまり、『フグが毒だと知らなかった』、『フカノが大丈夫だと言ってた』、『火を通すなら酷いことにはならないだろうと思った』、……ってこと?」

 必死に頷くサメぐるみ。表情は読み取れないが、嘘をついているようには見えない。

「それなら、まあ、仕方ないけど……」

「だろー?」

「あなたは反省しなさい」

 何故か得意げなフカノに対し、ケイトはピシャリと言い放った。

「フグの毒は焼こうが洗おうが抜けないものなの。だから食べてはいけない。当たり前の話よ。食べ物じゃないものを口に入れてはいけない。子どものしつけのレベルの話よ、これ?」

「でもうまいぞ?」

「だから食べたら死ぬって言ってるでしょ! あなたの世界の人間は毒でもパクパク食べるバカしかいないわけ!?」

「いや、でもフグは食ってたんだって」

「「「「は?」」」」

 フカノの思わぬ発言に、ケイトとマイア、それに横で聞いていたキレネスとデッシュも声を上げた。

「……そっちの世界のフグには毒は無いの?」

「いや、ある」

「毒があるのに食べるんですか?」

「おう。うまいからな」

「あれじゃろ。貧乏人が命がけで食べる食事とか、そういうのじゃろ」

「いや、高級料理。総理大臣とか、偉い人も食べてる」

「総理大臣?」

「俺のいた国で一番偉い人だ。この国の王様みたいな……あ、いや、王様みたいな人は別にいるんだけど、とにかく一番偉い人だ」

「……ひょっとして、毒に当たっても死なない方法があるとか?」

「いや、たまに死ぬ人もいたと思う。毎年じゃないけど、ニュースで見たことある」

 一通りの質問が終わると、ケイトたちは顔を見合わせた。信じられなかった。毒のある魚を、毒があると知って食べる。しかも富裕層が高い金を出して食べている。助かる方法があるのかと思いきや、そんなものは無いという。嘘をついているか、エルフ並みに命の扱いが軽い世界としか考えられなかった。

 しばらく考えた後、ケイトはこの疑問を放棄した。代わりに、今一番必要な対応策を言った。

「とりあえず、フカノ。フグを食べるの禁止」

「えー」

「えー、じゃない。2度も死にかけてるのよ」

「もったいないだろ、こんなうまいのに……それに、2度練習したから、3度目は大丈夫だって」

「二度あることは三度あるってことわざを知らないのかしら? とにかくフグは禁止、あなたはしばらく安静にしていること。いいわね?」

「でもなあ」

「い い わ ね ?」

「……はーい」

 しぶしぶ、といった様子のフカノを見て、見張りもつけておこう、とケイトは考えた。


――


 長い長い説教が終わり、ケイトたちはフカノの部屋を出ていった。安静にしていろということだが、手足に痺れは残っていないし、意識もはっきりしている。要するに健康で、退屈だ。外に出たいのだが、部屋の外にはフカノが勝手に出ていかないように見張りのサメぐるみが立っている。

 やることもないので、フカノはさっき食べたフグの味を思い返してみた。焼いたフグは刺し身と違い、また別の味わいがあった。鶏肉を食べているかのようなふかふかの食感。しかし味は確かに白身魚であり、そこらの魚では比べ物にならないほどうまい。

 だが、二度のフグ食を経て、フカノはある疑問を抱いていた。毒ではない。味だ。今のままでも十分うまいが、味付けに何かが足りない。塩か、オリーブオイルか。どちらでもない。もっとふさわしい調味料がある気がする。

 記憶の中の調味料とフグの味をかけ合わせていると、部屋のドアがノックされた。

「はい、どうぞー」

 ドアを開けて入ってきたのは、整った顔立ちの、金髪の美女だった。ケイトたちとは違い、緑色を基調とした長袖長ズボンを身に着け、肌の露出を極力抑えている。特徴的なのは、髪の間から覗く、長く尖った耳だ。彼女は人間ではない。エルフだ。

「こんにちは、ヘレネさん」

「やあ、フカノ」

 彼女の名はヘレネ。サメ退治の旅の途中で知り合った発明家のエルフである。今は王都に住んでいて、エルフの知識を生かして様々な発明品を作っている。

「久しぶりだな、元気にしていたか?」

「元気っちゃ元気なんですけど……」

「どうした?」

「さっきまで毒に当たって死にかけてました」

「何じゃあ、一体……」

 呆れた様子で呟いたヘレネは、持ってきた壺を机の上に置いた。

「それは?」

「例のヤツの試作品だ。豆のガルム、とりあえず作ってみたから、味見してほしい」

「やっとですか!」

 ガルムとは、魚の内臓を塩漬けにして作る、発酵調味料である。そして豆のガルムとは、フカノが考案した、魚の代わりに豆を使った発酵調味料である。すなわち醤油だ。

 異世界転生したフカノが困っていることの一つに、慣れ親しんだ食品が少ないというものがあった。砂糖は高級品、塩はあるが、酢が無い。味噌もないし醤油がない。味付けといったら洋風ソースやオリーブオイルが主軸の世界だ。しかも主食はパンと豆。米はエルフの食べ物で、中々食べられない。

 我慢できなくなったフカノは、ヘレネに頼んで日本食を再現してもらうことを思いついた。その第一歩が醤油の再現だ。フカノは醤油の作り方を知らなかったが、大体のイメージと材料をヘレネに伝えたところ、醤油作りにチャレンジして貰えることになった。

 その試作品が、ようやく出来上がったらしい。

「そしたら、味見はやっぱ魚で……」

 その時、フカノに電流走る。

「……これだ」

「は?」

「点と点がつながった……!」

 フカノの脳裏には、ふぐ刺しと醤油の小皿が並んでいた。


――


「なんでバカが2人に増えたわけ?」

 翌日。王宮のフグ対策会議から帰ってきたケイトを待っていたのは、フカノとヘレネが得体の知れない調味料でフグを食べ、仲良くぶっ倒れたという知らせだった。

 幸い、フグ毒の調査でキレネスとデッシュが神殿に残っていたので、命に別状はなかった。そういうわけで、お説教のお時間である。

「ヘレネさん、あなたはフカノと違って分別のある人だと思っていたのだけれど」

「世界一うまい魚を勧められたら、断るわけにはいかないだろう」

「毒があるのよ。昨日のお触れ、知らなかったの?」

「承知の上だ」

「そう……えっ?」

 妙な返事に、ケイトは思わず聞き返した。

「毒がある事は承知の上だ。食べる前に、フカノから説明されたからな」

「じゃあ何で食べたの?」

「目の前で食べられたモンを、命が惜しくて断ったら、エルフの名折れやろ」

「バカなの?」

「毒が怖くて飯が食えるかい。こちとらエルフやぞ」

 エルフは、長命故に命を粗末にする妙な文化がある。ヘレネもそれに沿って動いているにすぎないのだが、女神の転生体とはいえ倫理観は一般人のケイトには理解できなかった。

「こっちはもうしょうがないとして、フカノ」

「はい」

「何でまた食べたの?」

「醤油だ」

「ショウユ?」

「刺身にめっちゃ合う調味料だ。ヘレネさんがさ、やっと作ってくれたんだよ。まだまだ本物には程遠いけど」

「それで味見を、フグで?」

「ああ。最高だった」

 フカノは満足げに親指を立てた。なぜだかケイトは、彼をそのまま溶鉱炉に叩き込みたい衝動に駆られた。

「毒なのよ? 味覚がやられてんじゃないの?」

「いや、うまかったぞ。それは私も保証する」

 何故かヘレネがフカノの弁護に回った。

「食べたら死ぬんですけど?」

「それはそうだがな、人生最後の食事がアレでもいいと思ってしまうほどの美味さだった」

「そこまで……?」

「そうだ。マグロのように脂が乗っていて、タイのようにうま味がある。舌に載せると溶けてしまうほど柔らかい身でありながら、牛肉よりも濃厚な味がある。こんなにうまいものを味わわずに死ねというのか?」

「味わったら死ぬんですけど?」

「なら聞くが、海の女神よ。フグよりうまい魚は存在するのか?」

 その質問に、ケイトは答えを詰まらせた。彼女にとって、フグとは食したら死ぬ危険な魚だ。他の魚との味の善し悪しなど比べたことがない。そもそも食べたことがないのだ。

「無いだろう? そうだろう。世界一うまい魚、死ぬには十分すぎる理由だ」

 エルフ特有の迫力に押し切られそうになったケイトだったが、何とか踏み止まった。

「……例え本当に世界一おいしい魚だったとしても、それで人の命を危険に晒すわけにはいきません。フグ禁止令は継続します」

「だからさ、ちゃんと捌く方法を見つればいいんだよ」

 フカノがまたしても寝言を言い始めた。

「あのね、ちゃんと捌くために何人殺すつもり? あなたはたまたま助かってるだけで、普通なら2,3回死んでてもおかしくないのよ?」

「でも、さっきデッシュさんがさ、何か法則を見つけたみたいなこと言ってたぜ?」

 フカノの言葉に、傍らで話を聞いていたゴブリンが肩を震わせた。様子が変だ。ケイトは問い詰めてみる。

「デッシュさん? 法則って何なの?」

「いや、法則というか、性質というか……気にしないでください。まだ仮説ですから」

「まさかフグを何とかする方法を、フカノの体で実験してるんじゃないでしょうね?」

「いやいやまさか、サメ退治の英雄殿を実験台にするなんて畏れ多い。ただ、患者を診ていると自ずからデータが集まってしまうものでして……」

「……キレネス。弟子の管理がなってないんじゃない?」

「患者を調べるのは、治療に必要なことだからのう。止めることはできんわい」

 ひょっとしたら、キレネスもフグ毒治験に一枚噛んでいるのかも知れない。ケイトはキレネスの目をじっと見つめてみるが、キレネスは目をそらすこともせず、涼しい顔でケイトを見つめ返していた。

 ケイトは諦めて目を逸らすと、改めてフカノたちに言った。

「とにかく! フカノもヘレネさんも、今後フグは食べないこと! おいしいとかまずいとか、そういう問題じゃないわ。食べちゃいけないものなの。それでキレネスたちのフグ実験も終わり! いいわね?」


――


 デッシュがフグ毒に当たった。

「何してんの!?」

 思わぬ人物がフグの魔の手に倒れ、ケイトの声は裏返った。一緒にフカノとヘレネが倒れたことにはもはや言及しない。

「あなたまでフカノに変なこと吹き込まれたの!?」

「いえ、お嬢様。私が、狙ってやったことです」

 キレネスが煎じた薬湯を飲みながら、デッシュが答える。

「フグ毒を無効化する方法を思い付いたので、試してみたのですよ。ちょっとだけ失敗しましたが」

 意識はハッキリしているし、呂律も回っている。以前のフカノのように、瀕死にはなっていないようだ。

「何の実験をしたのよ、薬? 魔法?」

「魔法は使いましたが……そんなに難しいものではありません」

「何したの?」

「分けました」

「え?」

「毒のある部位と無い部位を分けて、無い部位を食べました」

 確かに、それができれば安全にフグを食べることができる。しかし。

「どうやって?」

「フカノ様にある程度切り分けてもらった後、それぞれの身を毒物鑑定エクティミシィ・タクシィで調べたのです」

「力技ね……」

 確かにその方法なら、部位ごとの毒の有無を調べることができる。鑑定魔法で黒く光った部分だけを取り除けばいいのだ。切り身一つにいちいち魔法をかける手間さえ考えなければ、有効な方法だろう。

「それで神殿に運び込まれたフグを20匹ほど捌いて調べてみたのですが、面白いことがわかりました」

「何かしら」

 毒物として処理するよう厳重に命じたはずのフグが横流しされていることについて、ケイトは考えることをやめた。

「フグの毒は、個体ごとに毒が溜まる場所が違うのです。どのフグも卵巣や内臓は危険でしたが、皮が毒のフグもいれば、腹の身が毒のフグも、全身が致死毒という個体もいました。女神様の言う通り、これは厄介な魚ですね」

「そ、そうね。そうなのよ……」

 頷いてみせるケイトだったが、実はそこまで詳しくフグを知らなかった。ケイトは海の女神の生まれ変わりである。海の魚については、一目見ただけでその性質がわかる。だが、それだけなのだ。毒がある魚、といっても具体的にどの部分に毒があるのか、どれぐらいの強さの毒で、解毒することはできるのか、といったことまでは知らない。

「……あれ、ちょっと待って」

 だから、彼女は思い至らない。なぜデッシュが倒れているのかを。

「毒の有り無しを見分けられるのなら、どうして貴方達は倒れているの?」

 するとデッシュは、口をもごもごと動かした。何を言っているのかケイトには聞き取れない。

「ごめんなさい、もう少しはっきり喋って」

「……ました」

「何?」

「食べすぎました」

 ケイトは首を傾げ、そのまま固まった。

「危険なことは十分承知していたのです。しかし、無毒の部分はごく少数で、それ以上食べるとなったら毒性が弱い部分に手を出すしかなかったのです。いえ、もちろん意味はあります。致死量がどれだけなのかわかりますから。それに、皆さん揃っていましたから、種族差も調べることができる。これはチャンスだと思って、毒耐性を得られる薬を飲んでから、低毒のフグの身を食べたのです」

 ゲッシュは申し訳無さそうな顔をしたまま、言葉を続ける。

「少量なら問題なかったのです。ただ、フグ毒は毒耐性を貫通していました。それと……あまりにおいしかったので、ついおかわりを……」

「何で……どいつもこいつも……」

 ケイトはその場にうずくまり、頭を抱えてしまった。

「毒なのよ? 死ぬのよ? おいしいとか言ってないで真面目に考えなさいよ……」

「うまいものはうまいんだからしょうがねえだろ……」

 文句を垂れるフカノに、ケイトは涙声で噛みついた。

「そもそも! あなたがおいしいとか言い出さなければこんな事にならなかったのよ! もうフグがおいしいとか、外で絶対言わないでね!」

「えー」

「えーじゃないのよー! 他の人がフグを食べて死んだら、あなたのせいだからね!」

 叫ぶケイト。もはや必死すぎて涙目である。それを見て、ようやくフカノは従う気になったようだ。

「わかったよ。デッシュさんもヘレネさんも、フグの味は秘密な」

「わかりました」

「承知」

 ゴブリンもエルフも頷いた。これでフグの味は永久に秘密になる――。

「あと、マイアたちにも言っておかないとな」

 ――とはならなかった。

「……姉さんに、フグを食べさせたの……?」

「ああ。おいしいって言ってたぞ。……あー、勘違いするなよ? 毒のある所は食べさせてない。神様に万が一があったらヤバいからな。それは大丈夫だ」

 フカノが何か言っているが、何も大丈夫ではない。マイアは女神としてのケイトの姉だ。姉の性格はよく知っている。

「あのね、フカノ」

「何だ?」

「姉さんが、おいしい魚を新しく知ったら、何をすると思う?」

 フカノが答える前に、部屋に入ってきた神殿の小間使いが、ケイトに声をかけた。

「ケイト様。女神様が水を吐く魚を持って、王宮に走っていったんですけど、どうしたのですか?」


――


 王宮の食卓に、新たなるブームが到来していた。

「陛下、お待たせいたしました。ふぐ刺しでございます」

「おお、これが噂の……」

 ふぐ刺し。それは、エリュテイアで最も新しい料理である。その旨さは海の女神のお墨付き、同時に、危険性も海の女神のお墨付きである。毒があるのだ。例えドラゴンであろうとも、口にしてしまえば死を免れないほどの強力な毒が。

 その毒をいち早く解析したのは、王家専属の治癒術士・キレネスであった。世界一とも噂される腕前は伊達ではない。彼の解析によって、フグ毒のある部位は個体ごとに違うこと、麻痺治癒の魔法が効くこと、そして、加熱調理や耐毒魔法はフグ毒には効かないことが明らかになった。

 一度はフグ禁止令が女神ケイトの名の下に出されたが、物好きな人々がフグを安全に食べる方法を探し始めた。いくらかの犠牲を経て、方針は定まった。フグ調理師を目指す者は、麻痺治癒魔法・毒物鑑定魔法・活力回復魔法を習得した上で、王国のフグ料理試験に合格すること。そうすれば、晴れてフグ調理師免許が発行され、フグ料理を提供することができるようになった。

 クリュウに出されたふぐ刺しは、王国フグ調理師1号、料理長メルカンデスによって作られたものである。45歳のメルカンデスは、この歳になるまで魔法を習ったことがなかったが、王命によりフグ調理に必要な魔法を習得することとなった。初めは消極的だったメルカンデスも、試しに食べたフグの味にたちまち魅了され、キレネスの指導の下、3か月で調理師免許を取得するに至った。

「ドレッシングも用意してありますが、やはりまずはそのまま、フグの味そのものを楽しんでいただきたく存じます」

「フカノ殿が言っていた、ショーユ、というドレッシングは無いのか?」

「残念ながら。納得のいく出来になっていないようです」

 醤油作りは難航している。何しろフカノは醤油の作り方を知らない。大豆を発酵させて作る、程度のうろ覚えの知識しかないのだ。エリュテイアの魚料理に革命が起こるまでは、まだまだ時間がかかる。

「それなら仕方ないか。では早速」

 クリュウはふぐ刺しの一切れをフォークに刺し、口に含んだ。緊張の一瞬である。周囲の人々は息を吞んだ。クリュウはしばらくふぐ刺しを咀嚼した後、飲み込み、満面の笑みを浮かべた。

「素晴らしい。神に感謝すべき味だ」

 メルカンデスは深々と頭を下げた。王の口に合ったという喜びと、毒が平気そうだという安堵を隠すためだった。

「さあさあ、皆も食べなさい。新鮮なうちに食べたほうが、おいしいぞ?」

 クリュウが口をつけたのを皮切りに、食事の席に着く他の人々もふぐ刺しを食べ始めた。いずれも王家の血を継ぐ面々である。当然、"味"に対する評価は庶民よりも厳しいのだが、そんな彼らも例外なくフグの味を褒めたたえた。

 ただ一人、一口も食べていないケイトを除いて。

「どうして……こんな事に……」

 盛り付けられたふぐ刺しを睨みつけ、ケイトは呻く。周りは舌鼓を打っているが、ケイトはどうしても安心できない。安全なのは分かっている。毒のある部位は入っていないし、毒物鑑定エクティミシィ・タクシィで毒が無いことも調べている。万一に備えて、麻痺解除パラリ・クシノシィが使えるキレネスやメルカンデス、デッシュもいる。

 それでもフグは、海の女神ケイトにとっては毒でしかない。彼女の力が及ぶ魚は、いずれも人に危害を加える魚。それ以外の認識は無い。毒を克服すればめちゃくちゃおいしい魚などという分類は、神の視点では存在しないのだ。

 しかしケイトはふぐ刺しを食べなければいけない。国王直々にフグを賞味しているのに、それに手を付けないとなれば無礼千万だ。そもそもフグのおいしさは、マイアが国王に直々に伝えてしまっている、いわば神託のようなものだ。これを蔑ろにすることはできない。ケイトも一応女神なのだが、フグがおいしいと知れ渡っているこの場では威光も何もあったものではなかった。

 散々考え抜いた末に諦めたケイトは、ふぐ刺しを一切れ口にした。周りがおいしいおいしいと言っていても、それは個人の好みの話だ。ここにいる人間がたまたま全員そう感じているだけで、実際には毒でまずくなっているかもしれない。女神としての味覚でそれを判断すれば、国王も判断を翻してくれるだろう。そんな儚い希望と共に口にしたふぐ刺しは。

「おいしい……」

 涙が出るほどおいしかった。

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