第23話 さめボクサー

 船の上で2人の男が拳を構えて睨み合っていた。1人はパーカーを羽織った人間の青年、フカノ。もう1人は金属の篭手を身に着けたワニ男だった。


「フンッ!」


 ワニ男が動いた。踏み込んで、顔面へのストレート。フカノは両腕でガードする。凄まじい衝撃を受けて、フカノは2、3歩後ろによろめいた。


「あぁ……!? なんつー馬鹿力だ……!」


 転生のおかげで力が強くなっているはずのフカノでさえ、これだ。この世界の普通の人間が受けたら、吹き飛ばされていただろう。

 一方、殴ったワニ男の方も驚いていた。


「貴様……俺の拳をマトモに受けて立っているとは、只者じゃないな。さては貴様が、魔王様が言っていた女神の戦士か?」

「……ああそうだよ。フカノ・ヤヒロ。お前らが噂してる、女神の戦士だよ」

「俺の名はスコス。デルムリン氏族のスコスだ」


 スコスは拳を構え直すと、軽くステップを踏み始めた。


「――女神の戦士なら、相手にとって不足無し。参るっ!」


 かと思うと、一気に間合いを詰め、フカノの顔に拳を繰り出した! 立て続けに3発、拳は掲げたままのフカノの腕に弾かれる。だが4発目はボディーブロー! ガードが遅れ、鋼鉄の篭手がフカノの腹に突き刺さる!


「ぐっ……このぉ!」


 歯を食いしばって痛みを堪え、フカノはパンチを繰り出す。スコスは見た目に似合わぬ軽やかなステップでこれを回避、横へ回り込む。そしてまたもやコンビネーションブロー! フカノは顔と腹を腕で守って、なんとかこれを防ぐ。

 ボクシングの動きに似ている、とフカノは思った。昔、兄に見せられた映画で、ボクシングをテーマにしたものがあったのを思い出した。だが、カメラ越しに見る動きとは全然違う。左右に撹乱されると、視線が追いつかず、いいように殴られてしまう。

 なら、どうする。ボクシングは手で戦う。なら、手以外の攻撃には、慣れていないはず!


「ぬうっ!」


 フカノが放ったローキックは、スコスの太腿を捉えていた。スコスの動きが一瞬止まるが、すぐに持ち直し、ジャブを打ってくる。フカノはガードを固めながら、何度も蹴りを放つ。パンチと違って、スコスはキックを避けきれていない。なら、撃ち続ければ!


「ぐっ!」


 スコスが大きくよろめいた。重なったダメージが彼の動きを止めた。好機と言わんばかりに、フカノは顔面に向けて回し蹴りを放つ! スコスは腕でガードしたが、フカノは力任せに足を振り切り、彼を蹴り倒した!

 攻撃は止まらない。倒れたスコスに馬乗りになり、フカノは拳を振り下ろす! スコスのフットワークも、倒れてしまっては発揮できない。次々と繰り出されるパンチを、首をひねって避けるか、腕で防ぐしかない。


「どうだっ、どうだこの野郎!」


 起き上がろうとするスコスを必死に押さえつけながら、フカノは彼を殴り続ける。いくらワニ人間といえども、殴られ続ければ気絶するはずだ。そう思いながら、力を込めて振り下ろした拳が、避けられた。甲板に叩きつけられた左腕を、スコスが抱えるように抑え込む。左が駄目なら右だ。フカノが右の拳を振り上げた時、スコスが、その尖った口を大きく開いた。

 昔、フカノが兄に見せられたワニ映画で、人間の腕がワニに噛みちぎられるシーンがあった。それと同じことが、自分の腕で起こった。


「……あ?」


 スコスが口から何かを吐き出す。それは、食い千切られたフカノの左腕だった。断面から血が吹き出す。吐き気をもよおす血の匂いが、フカノの鼻を突く。それから、ようやく激痛がやってきた。


「ぎゃあああぁぁぁっ!?」


 肘から先を失った激痛に、フカノは甲板をのたうち回った。彼が転がる度に、おびただしい量の血が撒き散らされ、甲板を赤く染める。その間に、スコスは立ち上がると、フカノを見下ろして吐き捨てるように言った。


「両手だけが武器だと思ったか?」


 フカノから視線を外して、スコスは辺りを見回す。船は岸からずいぶんと離れていた。潮の流れに乗っていたようだ。呆然とスコスを見ている兵士たちに、彼は告げる。


「岸に戻せ。抵抗するなら、首を捩じ切る」

 逆らう者はいなかった。彼らはキルケオーに向かってオールを漕ぎ始める。その様子を見て、スコスは、フン、と鼻を鳴らした。

 彼の足首を、何かが掴む感触があった。見ると、這いつくばったフカノが、残った右手でスコスの足首を掴んでいた。


「まだやる気か?」


 大した根性だが、それだけでどうにかなる状態ではない。痛みと失血で、意識もハッキリしていないだろう。そう思ったスコスは、フカノの手を振り払おうと足を振った。

 足が動かない。

 フカノの右手の力が異常に強くなった。足が握りつぶされると錯覚してしまうほどの握力だ。痛みに顔を歪めながら、スコスはフカノの顔面に拳を振り下ろす!


「ガアアアァァァッ!」


 だが、拳が届く前にフカノは立ち上がり、スコスを投げ飛ばした! 甲板に叩きつけられたスコスが、転がりながら立ち上がった時、既にフカノは目の前に居た。


「何ッ!?」

「シャアッ!」


 フカノの右手からパンチが繰り出される。スコスは両腕でこれをガードした。しかし、殴られた衝撃は腕に収まらず、彼の体にまで貫通した。歯を食いしばり、スコスはダメージに耐える。


「こいつ、力が……!?」


 さっきよりも格段に力が強くなっている。そして、動きは荒々しく、理性の欠片もない。まるで暴風雨のようだ。恐れも駆け引きもなく、ただ力任せにスコスを殴りつけている。


「ケダモノめ……!」


 スコスはフカノの大振りの一撃を掻い潜って避け、反撃のボディーブローを叩き込む。フカノは体をくの字に折り曲げ、悶えたが、倒れない。歯を剥き出しにして怒りの形相を浮かべながら、なおもスコスに殴りかかる! 拳はスコスの肩に突き刺さった。鎖骨に激痛が走る。折れたようだ。スコスは痛みを意識の外に追いやり、フカノの次の一撃を避ける。

 もはやスコスに余裕はなかった。女神の勇者ではなく、竜巻のような暴力が相手ならば、手段を選んではいられない。意を決したスコスは、フカノの渾身の一撃に合わせ、後ろへ倒れ込んだ。顔面を狙った拳は、倒れる彼の上を通過していった。

 直後、フカノの顎が強烈な衝撃で跳ね上がった。一撃を食らわせたのは、倒れ込んだ勢いで後転したスコスの尻尾だった。視界外からの一撃に、さしものフカノも膝をつく。そこへ、体勢を立て直したスコスが飛びかかった。――狙うのは、もう一本の腕。

 鮮血が舞い、フカノの右腕が落ちた。スコスの顎はフカノの右腕を骨ごと食いちぎっていた。スコスは血に塗れた肉の塊を吐き出し、呟く。


「勝負ありだ」


 なおも飛びかかろうとするフカノの首を掴み、持ち上げる。フカノは首を絞め上げられながらもがくが、両腕がなければ解く手段はない。


「ガァッ……グ……!」

「女神の勇者と聞いていたから期待したが……とんだ猛獣だったな」


 腕に力を込め、首をへし折る。スコスはそうしようとしたが、不意に腕から力が抜けた。何が起こったのかと、自分の腕を見る。肩から槍の穂先が突き出ていた。


「おい」


 背後から声。


「俺の友達に、何してんだ」


 いつの間に船に這い上がってきたのだろうか。クトニオスが槍でスコスの肩を貫いていた。


「ぬぐぅ……っ!?」


 フカノを取り落とし、スコスはよろめく。右肩には槍、左肩は鎖骨が折れている。両腕がだらりと垂れ下がる。そこにクトニオスが、落ちていた斧で斬りかかる!


「ふんっ!」

「ぐわっ!」


 スコスは体を回転させて、尻尾でクトニオスを弾き飛ばした。そして、甲板に転がるフカノを見て、少し躊躇した後、船縁を蹴って海へと飛び込んだ。


「くそっ……」


 クトニオスはスコスを追わなかった。力の差は歴然だった。不意をついて一撃を与え、追い払えただけでも上出来だった。それに、今はフカノの方が心配だ。見るとフカノは、両手を失って這いつくばりながら、なおもスコスを追おうとしていた。


「ウ、グゥ……!」

「待て、待てヤバいってフカノ!」


 両腕の断面から流れる血は止まっていない。このままでは死んでしまう。クトニオスはフカノを押さえて、とにかく動けないようにした。


「た、隊長……どうするんですか!?」

「いいから! お前らは漕ぎ続けろ!」


 船は街を離れ、海沿いに進んでいた。進む先の海岸に、クトニオスは小さなボートが停まっているのを見た。


「女神様なら……なんとかしてくれるかもしれねえ」

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