3scene:やめて
*
「あれ、あんた昨日の」
廃れたホテルの窓口で、受付の老爺がまじまじとアンドレを眺めた。
「赤目の別嬪さんが、夜に昨日の小男が来るから入れてくれと、言っておったよ」
赤目の別嬪。
ヴァスクのことで間違いないであろう。
「その男は、もう部屋にいますか」
「あんた、あの人の間男かい」
「違います」
「ああ、すまんね。彼ならもう部屋におるよ。でも、あんたより前に違う男と部屋に入ってったから、まだ部屋のほうは開けんようにな」
老爺の生い茂った白髭から、厭な笑みが垣間見える。
その老爺の言わんとすることは、皆まで伝えられなくとも、想像がつく。
要するにヴァスクは今“仕事中”なのだ。
「わかりました。ありがとうございます」
いやらしい老爺にも礼を払い、アンドレは階段を上っていった。
昨日は言った部屋は、三階の一番奥にある。点滅するわずかな電気の灯りを頼りに、奥の部屋まで進んだ。
進めばそれだけ、薄壁の向こう側にいる男の声も、鮮明なものになった。
「はーっ、はーっ……うっん……」
艶めかしい男の喘ぎ声。
ヴァスクのものであろう。
もう一つ、別の息の根も聞こえるものだから、まだ客がいるのだろう。
(盛んなことだな)
向こうの商売もあるのだから、アンドレは客が出てくるまで、その艶事を傍聴していた。
まだ市街の開発が進んでいる中、市街に収集される人員の多くは男である。その男を目当てに娼婦も集まるが、基本的に、この町に女は少ない。
娼婦を買えなかった者や、本当に男色趣味の者が、ヴァスクの客層にはいるのだろう。
陸軍にいたころも、どうしても昂ぶりを押さえられない連中は、男同士で慰め合っていた。
ヴァスクほどの美形がいれば、たしかに、男娼も務まるであろう。
「良かったぞ、また暇を作って来る」
「ふふっ、まいど」
いくらかの時が経った頃、ヴァスクの居る部屋から、大柄な男が出てきた。
壁に背を預けていたアンドレは、男と目が合う。大工か、そのあたりの娼館の用心棒か。白いシャツも土で汚れている。
「ガキか」
男は小柄なアンドレを見て、ホテルの子どもと判断したらしい。
鼻先で息を吹くと、男はそのまま部屋を立ち去っていった。
子供でなかったら、どうするつもりだったというのか。
アンドレの脳裏に不穏な影が過るが、過ぎ去った大柄のことを、いま考える必要はない。
「入ってもいいか?」
問いかけると、ドアの奥から、
「いいよー」
と、返事が来た。
アンドレは閉じられたドアノブに手をかけ、軽くひねる。
ドアの先では、ジーンズを履いた半裸のヴァスクが、洗面台で顔を洗っていた。
「ふー、あっつう」
ヴァスクがタオルで顔を拭いながら、笑声と共に吐き捨てる。
「さっきの客、顔にぶっかけやがってさ。はは」
「本当に殺さなかったな」
「血は、ちょっとだけもらったよ。唇を切ってたからさ、『治してあげる』なんて言ってキスして、舐めてやった」
「それだけでよかったのか」
「毎日続ければ、生きるには十分」
ヴァスクはそう言うと、形のいい唇に舌を這わせる。
「椅子に腰かけてていいよ。今日は夕方から二人客取ってたから、ベッドは汚いんだ」
「なら、そうする」
アンドレは窓側の小さな椅子に腰を掛け、ベッドに一瞥をくれた。すすけたシーツの上に、目立った汚れはない。しかし、白いシミがぽつぽつと付き、シーツもひどくしわくちゃである。
「すごいでしょ、それ。ひっさしぶりに、激しい奴とヤッたよ。ありゃ結婚できないわ」
「客は男のほうが多いのか」
「そりゃあね。俺も美人だからさ」
ヴァスクは向かい合って椅子に座ると、自身の黒髪を手で揺らして見せる。
相当熱い情事を交わしたのか、白い頬は色づき、僅かに息も上がっていた。
「それで、今日は何を聞きたい?何から知る?」
問いかけるその美貌には、愉快の色を孕んでいる。
「嬉しそうだな」
アンドレが言ってやると、ヴァスクは否定せず、
「あんたが来るの、待ってたんだよ」
と、うなづいた。
「あんたからは、土の良い匂いがするんだ」
「土?」
「そう、土。大事に守られて、耕されて、おいしい水を飲んできた土の匂いだ。農夫でもやってるの?」
ヴァスクの鼻は鋭い。
確かにアンドレは、家の傍に小さな畑を作った時、枯れ草や落ち葉を森からかき集め、細かくして土に混ぜた。その中に、ミミズや、枯れ草に付いた小さな虫も住まわせた。余分な害虫以外に、無駄な殺生はせず、作物や草の根と適度に共存させた。
そうすることで、土が生きる力を得ると教わったからである。
“生き物が住める土は、良い土の証だ”
退役から間もなく、市街地を離れたアンドレに、近所の農夫がそう教えてくれたことだった。
「自分が食っていけるだけの野菜を、作ってるだけだ」
「だとすれば、あんたは上手な人だね。俺、あんたのところの土から生まれたかったなあ」
「野菜にでもなりたいのか」
「ああ、違う違う。これ、俺たちの出生が関係してるだけ」
「出生?」
「吸血鬼の秘密、その二。俺たちは確かに、伝説の吸血鬼と一緒で、光に当たると消える。首を切っても、心臓を撃ち抜かれても、頭を強く打っても」
「人間と同じように死ぬのか」
「死ぬ、というよりは、もとのあるべき姿を取り戻す、って考え方だ」
「あるべき姿?」
「昨日、言ったろ。吸血鬼は、本来その姿とは全く違うものから生まれてくるって」
確かに、ヴァスクはそう言っていた。
昨日に討ち取った吸血鬼も、たしかに、人間でいう即死の傷を与えたが、あの吸血鬼も煙を撒き、最後には消えた。
「たしかに、そうだったな」
「俺たちはもともと、土の中にいた生き物だったんだ。けれど、人間があちこちで大戦をして、苦くて苦しい薬をばらまいた」
「毒のことか」
「たぶん、それ。踏まれて、固くなって、毒に侵された土の中で、俺たちは育つことができず、そのままだった。でも、ちょうど戦が終わって、大地が静かになったころ、気が付いたら、俺はこの姿さ」
「生まれたころから、大人だったと」
「そ。服も着て、人間と同じ姿形になって、焼け野原の中に座ってた。でも、無性に喉が渇いて、市街地に来てみれば、土の中で味わった懐かしい匂いをさせる、餌がたくさんいる」
つまり、人間のことでろあう。
(そういうことか)
ヴァスクの語ることから、朧気に、吸血鬼の実像が見えてきた。
吸血鬼のその習性は、毒と人の血を吸った、土中の生活からであろう。考え難いが、死んだ土の中で、芽吹くことのできなかった植物の種子が、何らかの形で化け物へと生まれ変わったのだ。
「土の中でどんな感じだったとか、どうして太陽が苦手なのかとか、そう言うことはどこで知った」
「それは、俺にも、たぶん他の連中にもわからない。光を見たら腹の底から怖くなるし、血の匂いを嗅ぐと、喉が渇く。本能ってやつだな」
そればかりは、吸血鬼自身にも説明のつかぬものであるらしい。
それが本当であるとすれば、ヴァスクも、致死の傷を負うと、種に戻るということになる。
(焦土で生まれた、怪物か)
それを思えば、悲しき命運である。
人が荒らした土地は、その後に浄化されることもなく、毒されたまま放っておかれた。そこで生まれるはずだった命が、別の生き物に変わり、いまは人を襲っている。
「ところで、気になってたんだけど」
その時、ヴァスクがふと思い立ったように、
「そういうあんたは、どこで生まれたの」
と、首を傾げた。
「私は、ここが再建される以前の、廃れた町に生まれた」
「今よりひどかった?」
「戦時よりは、マシだったと思う」
アンドレはそう語ったが、実質、どちらも変わらない。
町の裏小路には暴力が溢れ、殴り合いなど常なること。裏小路生まれのものは、子どもの内に何度も歯を折られるのだ。
「自分の身を守っているうちに、人を傷つける力がついて、その過程の中で人を殺し、強制的に戦地の最前線に送られた連中は、山ほどいる」
「へえ、俺たちの成り立ちと、よく似てるね」
「似てるか」
「似てる。生まれた場所も、生き方も」
言われたが、アンドレにその実感はわかない。
戦い抜くうちに、おのずと各級も上がり、気が付けば分隊長だった。
“ほぼ特攻兵”と称される前衛の兵士は、生きているだけでもマシというもの。
幾度もの乱戦の中で生き残ったことが、評価につながったが、それは町の裏小路での、暗黙の階級制と変わらなかった。
階級も、集団を重んじることもない吸血鬼には、到底無縁の話であろうに。
「しかし、今はもう、身に付けた力はいらない。世の中は安泰になった。人間同士の争いに関してはだが」
アンドレは、表大路の馬車の音に耳を傾けながら、そう告げた。
すると、
「――ねえ、あんた、もしかしてさ」
ヴァスクがおもむろに告げた刹那、遠巻きに銃声が天を突いた。どこぞで刃傷沙汰でもあったのか、吸血鬼が出たのか。
そんな外の様子に構わず、ヴァスクはそっと身を乗り出し、アンドレにそっと耳打ちをした。
「戦争、終わってほしくなかった?」
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