2scene:男娼のヴァスク
*
市街地というのは、夜もにぎわっている。
レンガ街に落ちた煙草を踏みつけ、仕事帰りの男らや、男を路地裏に手招く娼婦らが、道に溢れかえった。
“吸血鬼というのは、人とほとんど見分けがつかない。ただ、皆そろって、暗い場所で二人きりになりたがる。奴ら、太陽の当たる場所では生きてられんから、夜を探すことだ”
ボリスの言葉に従って、アンドレは短刀を忍ばせて、夜の市街地へと降りた。
家には獣除けに単発銃もあったが、あれではいささか、目立ってしまう。
(しかし、眩しい)
アンドレは夜も明るい市街地の街灯に、目がくらんだ。
大通りは明るいというのに、ひとたび大通りから外れた裏小路に視線をやれば、暗闇の先で娼婦らが手を伸ばしてくるのだった。
「あら、夜遊びかい、ぼっちゃん」
「あたしらと遊んでっておくれな」
艶めかしい娼婦の腕を振り切って、アンドレは速足になった。
(坊ちゃん、か)
アンドレは、服屋のガラスに自分を映してみる。
服の上からでは、鍛錬された筋肉も見えやしない。表面的に見えるのは、小柄な背丈に、丸い顔だけである。
確かに、これでは坊ちゃんと呼ばれても仕方がない。
そのとき、通りかかった裏小路から、女のくぐもった声が湧いた。
覗き込んでみれば、私娼とは違う上品な白のドレスを着こんだ女が、役人の胸に寄り添っている。
(カップルか)
そう判断し、アンドレはそそくさと通り過ぎた。
男女のあれこれを覗き込むような趣味はない。
が、
「きゃあ!」
女の甲高い悲鳴が、短く上がった。
アンドレは身を翻し、一本前の裏小路に飛び込む。
「どうしました」
飛び入って、アンドレは愕然とした。
役人が女の喉笛に噛みつき、その肉にむしゃぶりついている。純白のドレスが瞬く間に、こぼれる血に浸されて、赤黒く色を変えた。
「あっ……」
役人の姿をした化け物は、アンドレに気が付くや、女の喉から口を離した。刹那、その顔には悲壮が浮かび、女の骸を見るなり、青ざめた。
しかし、女と役人の顔を伺い、物事を考察している暇はない。
男が女の体を強く抱きしめ、苦しげに眉をひそめたころには、アンドレは抜刀していた。
地を蹴り、一足飛びで役人の前に身を乗り出す。
「うわっ」
アンドレの殺気に気が付いた役人が、とっさに、下段から腕を振った。
その腕の残像に合わせて、アンドレの左腕が袖越しに切れた。役人の手から生えているのは、およそ常人にはない鋭利な爪。爪に掠められた腕からは、刃物で切ったように血が流れた。
しかし、百戦を乗り越えた兵士は、その程度では怯まない。
切れた腕など目もくれず、役人の頸めがけて短刀を突き出した。
片方の腕を振り上げ、もう片方の手で女の体を抱き留めていた役人は、アンドレの斬撃を防げない。
アンドレが放った刃先は、役人の白い皮を易々と斬り裂き、太い血管を断った。
「ひゅっ」
息の漏れ出る音と共に、役人の体が崩れ落ちた。
すると、男の体はたちまち煙に変わり、あとには女の骸と、役人の制服だけがのこった。
(死んだか)
役人の首を掻き切った短刀を見やれば、その刀身に血はついていない。
わずかに刀身に残った煙からは、あの戦地に立ち込めていた、狼煙の臭いがした。
(なぜ)
なぜ、狼煙の臭いがする。
アンドレが神妙に眉をひそめた直後、小路の奥から、
ごそり、
と、衣擦れの音が立った。
「む」
とっさに顔を上げたアンドレの視界に、小路の奥へと引っ込むコートが見えた。
(なんで逃げた)
アンドレは短刀をベルトの鞘にしまい込むや、小路の闇の奥へと逃げたコートを負った。裏小路を右折すると、その闇の先へと逃げていく、コート姿の男が見える。
そのまままっすぐに、男の後を追った。華奢な足の男と、アンドレとでは、血を駆ける脚力が違う。アンドレが全力で駆けると、男の姿は見る見るうちに大きくなった。
そしてとうとう、男の逃げる場所はなくなった。
左右にも前にも逃げ場のない、行き止まりにまで来てしまったのである。
「あーもう!くそっ」
男は行き止まりの壁を思い切り蹴り上げて、
「あいたーっ」
と、ブーツの先を押さえた。
(間抜けか)
痛むつま先を押さえて悶絶する男を、アンドレはまじまじと見やった。
細いジーンズに黒いシャツ、紅いコート。どれも華奢なもので、うずくまった男の体も、長身の割に細い。
「なぜ逃げた」
アンドレが問いかけると、男がこちらを、きっと睨み上げた。
綺麗な貌だった。
いい男、というよりも、中性的な美形である。うなじで一つに束ねた艶やかな黒髪の奥で、ガーネットも色褪せる鮮やかな深紅の瞳がのぞいていた。
「逃げちゃ悪い?」
「後ろめたいことがなければ、逃げる必要はない」
アンドレが言ってやると、男が黙った。
「あっそう」
男は涼やかに言い放つと、おもむろに立ち上がり、両手を上げた。
「確かに、あんたに見つかるとまずい理由ならある」
「吸血鬼か」
「そうそう」
男はあっさりと答えた。
善亮で穏やかなふりをしていれば助かると思っているのか、男のおどけた面持ちには、余裕がある。
しかし、アンドレがベルトに差した短刀に手を置くと、
「あ、違う違う!吸血鬼だけど!さっきの役人とは違うから」
と、慌てて否定した。
「違う、というのは?」
「吸血鬼で、血を吸うところは一緒。だけど、俺は殺したりなんかしないから」
「殺さず、どうやって飲むつもりだ」
「寝てる間に、ちょっと貰うんだ。あとは」
「あとは」
「他の吸血鬼が殺した後に、おこぼれを啜るとか」
吸血鬼というよりも、それでは蚊である。
しかし、男の口から覗く八重歯が、妙に気になって仕方がない。人間の八重歯と大差ないが、吸血鬼を思わす先入観がそう見せるのか、やけに視線がいく。
「饒舌な男にはペテン師が多いものだ」
「俺のこと、疑ってる?」
「もちろん」
「わかった、わかったよ」
男は上げた両腕を顔の前まで押し出すと、うかがうように、アンドレの前へと一歩踏み出した。
「俺はこの辺の“タカ(店に属さない男娼)”でさ。このへんの、やっすいホテルを転々としてるんだ。ひとまず、ここはどっか部屋にはいろ?ね?」
「ここで十分だ」
「俺が困るんだよ。俺を買った男客の女房が、怒っちゃってさ。さっきまで、追っかけ回されてたんだ」
「それで、あの場に出くわしたと」
「そうそう。ついでに、ちょっとおこぼれに与ろうかと」
「で、私に見つかって、ここまで来たと」
「とにかく、お願いだよ。吸血鬼だって、罪を犯さなければ一市民だよ。俺の客ってことでさ、どっかのホテルで匿ってくれたら、あんたに吸血鬼の秘密をおしえるから」
生き延びたいがためか、男は跪いて両手を交差させ、懇願した。
しまいには、
「ああ、神様」
と、わざとらしく天に祈っては、ちらりとアンドレの様子を窺っている。
「――――」
男は怪しい。どう見ても。
しかし、戦でもないのに、跪いて助けを乞う者を殺すほど、非道な男になったつもりはない。
「わかった。その代わり、私より前を歩け。背中は見せられん」
言ってやると、男の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、お兄さん!」
自身の身の安全を約束した男は、立ち上がり、アンドレのそばを横切った。
「俺はヴァスクレシャヤ・リーリア。ほら、付いてきてよ」
「ヴァス……」
「ヴァスクでいいよ」
長ったらしい名前で、よく聞き取れない中、ヴァスクがそう略した。
ヴァスクに手招かれるまま、アンドレはその後を追った。ヴァスクが早口で口走った名前には、どことなく、聞き覚えがある。
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