3章 作り物のアイドル

 朝食ののどかな雰囲気は好きだ。

 朝日が窓の向こうから差し込んできて、ほのかな光でリビングを照らす。

 ベーコンエッグのサンドイッチを食べながら、片手で牛乳の入ったカップをぐいっと呷るってのも最高だよな。

「おおっと……」

 よそみをしているうちにサンドイッチの具が零れ落ちそうになり、慌ててそれを口で拾った。

「まったくもう……叶真、はしたないわよ」

「いいじゃん。食えなくなる方がもったいないよ」

 一部始終を見ていたらしい母さんが、呆れたようにキッチンから顔を出す。

 ようやく平穏な日々が戻ってきて、非常に心地よい気分であった。

 キッチンから聞こえる洗い物の音も、ニュース中のテレビから発せられる音も、外から聞こえる車や自転車の音も、すべてがオーケストラになってこの空間を引き立ててくるようだ。

「二人とも先に出てったんだから、叶真も早く学校に行きなさい」

 家を出るのが早い弟と父さんのことを引き合いに出して、俺を家から追っ払おうとしてくる。

「いいじゃん、まだ時間あるんだし。退院したばっかりなんだからもう少しくつろがせてよ」

 そう言うと母さんが言い返してこなくなる。

 これ以上張り合っても仕方ないと呆れてしまったのだろうが、今回はそれでもいい。

 むしろ普段の家を出る時間が少し早いくらいだったんだ。日常生活に戻っていくためにもある程度の〝怠け〟は必要だろう。

 ベーコンエッグの最後の一口がのどを通り抜ける。

 ふぅ……病院の食事もおいしかったけど、やっぱ家で食べるのが一番だよな。

 わずかな数分を噛みしめながら、今度は三割残した牛乳に口をつけようとする。

 そのとき、それを遮るようにインターホンが鳴らされた。

「あら、誰か来たわね」

 母さんが玄関の方に向かう。

 誰が来たのか予想は立っていたので、俺は牛乳を胃の中へ一気に流し込んだ。

「叶真、友達が迎えに来たわよ」

「うん、すぐ行くよ」

 この空間をもう少し満喫していたかったけど、あいつを待たせるというのも申し訳ない。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 母さんとの挨拶もほどほどに、近くに準備しておいた鞄を抱えて家を出た。


「おはよう、吉祥君。すっかり元気になったみたいでよかった」

 玄関を開けると、そこには人形のような女の子が待っていた。

「うん、おはよう。わざわざ迎えに来なくてもいいのに」

「心配だったからさ。吉祥君一人でちゃんと学校に来れるのかなって」

「小学生じゃあるまいし大丈夫だって。お見舞いに来てくれたときから元気だったろ」

「万が一を考えないと。自分の体を過信しちゃダメだよ」

 急に伊吹がお姉さんっぽいことを言う。

 この伊吹がまさかね……。

 俺は八月の末に退院するときに、先生と話した内容を思い出した。


 あれは病院の出入り口でのことだ。

「じゃあな吉祥君。二度と無茶なことはするんじゃないぞ。またこの病院に来ても、次は治療してやらないからな」

「気を付けます……」

「あと、そうだ。彼女とも上手くやれよ」

「彼女?」

「おいおい僕をごまかす気か? よくお見舞いに来てくれた子がいるだろ」

「ああ、伊吹のことですか。別に僕と伊吹は、あくまで同級生ってだけで、先生が思うような関係じゃないですよ。そもそも2年生になってからはクラスが違いますし」

「つまり1年のときは一緒だったんだろ。少なくとも僕には、彼女は吉祥君に気があるように見えたけど」

「まさか、そんなことありえないですって」

「だったら何回も見舞いに来たりしないだろ」

「あいつはそういう優しい奴なんです」

「おやおや、よく知っているようで。こりゃ案外成就するかもな」

「先生、僕のことをからかっているんですか?」

「ははっ、若いっていいねー。じゃ、お元気で」

「は、はあ……?」


 ……ふむ、伊吹が俺に好意を抱いているのか。単におせっかいなだけだと思うけど……。

「どうしたの吉祥君?」

「どうしたって、何が?」

「そんなに見つめられると、ちょっと照れちゃうかなーって……」

 言われて気づくと、伊吹が頬を赤らめていた。

 ここまでにさせてしまうとは、俺はいったいどんな表情をしていたんだろう。

「あー、ごめん。ちょっと考え事をしてた」

「考え事?」

「ううん、大したことじゃないよ。気にしなくていいから」

「そう……?」

 俺が笑ってごまかすと、伊吹はそれ以上詮索してこなかった。

 伊吹のこういう性格は本当にいいなっていつも思う。

「そういえば――」話していないと気が済まないのか、思い出したように話題を振ってくる。「貢献会に新入部員が入って、とうとう二学期になるわけだけど……って、あれ?」

 何かが頭に引っ掛かったのか、後ろを歩く伊吹の足音が止まった。

「ねえ吉祥君。いま私、人の名前を言いかけたんだけど、そもそも新入部員なんていたっけ?」

 神代がいるだろ。そう言いかけそうになって、逢河の言葉を思い出す。

 ――数日もすれば、あなたのお友達は、そもそもこの世に生まれなかったことになるの。

 それはつまり、伊吹の頭から、神代に関する記憶が消えていることを指していた。

 能力者の存在を世間にばれないようにするためとはいえ、このような処置がとられていることが、なんだか悲しかった。

 この世界で今も神代のことを覚えているのは、CIPの人間ないしこの俺だけ。

 はっきり言って、いまだにあいつが死んだという実感がなかった。

「……ねえ、吉祥君。私の話、聞いてる? さっきからぼーっとしてない?」

「あ、ああ、なんだっけ?」

「新入部員の話」

「そ、そうだな……」

 もう、しっかりしてよ。そう言いながら伊吹は笑う。

 ビルの屋上での惨劇を知らないからこそ、そんな風に無垢になれるんだな。

「新入部員はいないな」

「そう……だよね?」

「いないよ。オト部は去年から変わらずに四人のままだ」

 五人目なんていなかったんだ。俺は自分にそう言い聞かせた。

 神代のことを悟られてしまったら、伊吹まで巻き込みかねない。

 俺が言い切ったのにも関わらず、伊吹は納得しきれないといった感じだった。

 念を入れて、ダメ押しをしておく。

「……ふふっ、夏休み明けで、頭が回ってないんじゃないか。しっかりしろよ」

 そう言うと伊吹は吹っ切れたようにまた笑って、

「うん、そうかもね……」

 この日常を維持するためにも必要なウソなんだ。

 俺はそんなことを考えながら、伊吹と二人でアスカ高校までの道を歩いた。

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