2章 日常は変わりゆく⑧

 心配になって院長室に戻ると、気を失っていた先生が目を覚ましたところだった。

「あぁ……! 先生、大丈夫ですか!」

「いてててて。吉祥君、僕が大丈夫に見えるのかい?」

 軽口を叩く余裕があるだけ、まあまあ無事に見えますけど。

「あの子、手加減なしだもんな……。僕の苦手なタイプだよ」

 自分の服装とメガネを気にしながら、生まれたての子鹿のようにゆっくりと立ち上がる。

 先生はぐるりと室内を見渡すと、得も言われぬため息をついた。

「あーあ、こりゃ酷いな。僕の部屋をこんなに散らかしてくれて……」

 ぶつぶつと文句を言いながら、近場にある書類を拾い集めていく。

 一人で片付けるには相当な量だな。俺が手を伸ばそうとすると、

「僕も手伝いますよ」

「いやいいって。吉祥君は手を出さなくていいよ。これにはそれぞれしまう場所が決めてあるんだ」

「そうですか?」

 その割にはスマホを見つけるのに手こずってましたよね。

「それより、あの子はどうなったんだ。僕は無様にもここで伸びていたから、あの後どうなったのか知らないわけだけど」

「どうも混乱していたようで、衝動的なものだったらしいです。時間をかけて説得したら、冷静になってくれましたよ」

「そうか。それならいい……」

 事実とは異なることを言っているのだが、相手がただの人ではないこともあり、警察沙汰にするわけにもいかなかった。

 それにしても、部屋がまったく片付く様子がないのですが……話にさえ付き合ってくれればいいという感じかな。

「ケガは負っていないかい? 病院内でケガだなんて笑えない冗談になるけれど」

「ちょっと揉み合ったくらいなんで、それは心配しなくても大丈夫です」

「僕は大丈夫じゃないが、君は大丈夫なのか。前はあんなにボロボロだったのに。まあ僕が治療したんだから当然だよな」

 それが言いたいだけのようで。

「……お? いて、いてててて」

「どうしたんですか?」

 突然先生がその場に崩れ落ちる。

「うあああ、激痛だ! これは肩が外れたかもしれない! どーしよ吉祥くぅん!」

 どうしようって言われましても、そもそも何故先生は半笑いなのだろうか。

「ええっと……とりあえず救急車を呼びますか?」

「いや、いいよ。痛くなくなったから」

「はい?」

 困惑する俺をないがしろにして、先生は高らかに笑い出した。

「あはははっ、院長室でケガを負い、救急車を呼ぼうとする院長か。これはこれで今後のトークネタになるかもな」

「そうですか……」

 なんだよ、ただの演技だったのか。それこそ笑えない冗談だ。

 あくまで冷静にいるようにする。まあ、本人が楽しそうならそれでいいですよ。

「なあ、吉祥君。君が彼女に何をされたのかはわからないが、どうか彼女を許してやってはくれないか」

「どういうことですか?」

「彼女が言ったことは事実なんだ。僕は人殺しなんだよ」

「ひとごろし……?」

 それは文字どおり、先生が人を殺したのか?

「ああ違うよ。そういう意味じゃない。やってることは同じかもしれないけどね」

 先生の目が、急に医師のものに変わる。

「……昔話をしようか。少し長くなるけどいいかな?」

「はい」

 俺はその話を最後まで聞かなければならない気がした。

 先生は遠くを見るように天井を見上げた。過去のことを思い出しているのだろうか。


 あの子には実は仲のいい彼氏さんがいたんだ。

 だけど彼は重い心臓病を抱えていてね、長いことうちで入院していた。

 あの子がお見舞いに来るたびに二人で楽しそうに話していたのを覚えてるよ。

 容体は一向に良くならず、むしろ悪くなる一方だった。

 手術が必要だと考えた僕は、無茶だと言って反対するご家族や彼女を押し切って、一存で手術を行うことにしたんだ。

 思いつく限りの手はすべて打ったつもりだった。

 だけど僕の力が及ばず、その手術は失敗に終わってしまった。

 しかもその失敗が原因で、彼はすぐに亡くなってしまったんだ。


「そんなことが……」

 サトルという人物が亡くなったと彼女は叫んでいたが、まさかそんなことがあったなんてな。

「うん……だから彼女はこう思っているんだろう。僕が余計なことをしたから、彼は死んでしまったのだと。手術なんて、するべきじゃなかったのだと」

 先生の発言が、俺の思い出したくなかった過去と重なる。

 俺が余計な正義感を持ったから、男の子の一家を破滅させてしまった。

 先生の話は、それと非常に似ている気がする。

「彼が亡くなってしまった以上、たしかに彼女の言うとおりだよ。……でもね、そんな考え方は僕にはできないよ。だって彼は、いつ亡くなってもおかしくないくらいに衰弱していたんだ。そんな人を見捨てるだなんて、天才医師である僕にできるわけがない」

「天才って……」

 たしかに合っているかもしれないけど、一言多いせいで緊張感がなくなるな。

「たとえ成功がないに等しかったとしても、僕は彼を助けたかったんだ。まあ、失敗したくせに何言ってんだって話だけどね。……吉祥君はどう思うかな。僕の判断は正しかったのかな」

「すみません。そう言われても、僕にはよくわかりません。もし成功していたら、きっとあの子も先生に感謝していたと思います。失敗も含めて、それは結果論ですよ。少なくとも先生のしたことは……悪いことではないと思います」

 先生がやったことは褒められるようなことじゃないけど、そこに善意があったことはたしかだった。だから俺は先生の行いを責める気にはなれなかった。

 あのときの神代も、今と同じような気持ちで俺を励まそうとしたのかな。

「自分の行いを正当化しようとしているわけじゃない。けれど、そう言ってくれると、いくらか気が楽になるよ」

 先生はある程度集めた書類を机上で整え、一番下の引き出しにしまった。

「……えっと、まあ、つまり僕が言いたいのは『彼女が僕に対して恨みを持つのは無理もない。だから彼女だけを責めないでくれ』ってところかな」

 えぐるような話をしたのに、先生はにべもなく笑う。

 それはすべての責任を背負う覚悟があるからこそ、できる表情なのだと思った。

「話は終わりだ。あとは僕がやるから、吉祥君は部屋に戻りなよ。元気だったとしても、一応病人なんだからさ」

「はい、失礼しました」

 院長室の去り際に、残っている書類を拾う最中に見せた、先生の強い意志の籠ったような瞳が俺の心に突き刺さる。

 廊下に置きっ放しにしていた車椅子の前で立ち止まった。

 抑圧していたはずの感情が、過去のことを思い出させる。

 俺が男の子を助けたことは正しかったのか。自分で正しいと言い切ることはできない。

 ただたしかに、あのときは、そうするべきだと思ったんだ。

 ――オメーは正しいことをしたんだ。だから人助けを怖がる必要なんてない。……お前はお前の思う正しいことをすればいいんだよ。

 けどさ、本当にそうなのかな……神代。




参考

 分岐操作の能力――オブザーバー。世界線の分岐を操作できる。

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