2章 日常は変わりゆく⑦

 静かな真夜中の病院というものは、大体が怖いイメージだった。もちろんそれは幽霊が出そうだとか、オカルトチックな意味合いの場合が多い。

 だけどそれが今回に関しては、

「最近こんなことばっかりだな」

「待ちなさい!」

 女の子もとい、凶器片手に追いかけてくるハサミ女である。

 元々先生に恨みを持っていたようなのに、今ではその憎悪がすべて俺に向けられている。

 先生を院長室に残しておいても女に殺されることはないと考えれば、まだよい展開だと思えるレベルなのだが、できればこんな追いかけっこはしたくなかった。

 女は同年代と比べるといくらか身体能力は高いようだったが、それでも結局は男と女の体力差がある。長い廊下を走っているうちに、見る見る差は開いていった。

 このまま外まで誘き出そう。ここでやり合うにはさすがに危険だ。そんなことを考えながら、後ろの様子を確認してみる。

「……? いない?」

 そこにあるのは長く続く直線だけ。

 直後、強い殺気を感じて前に振り返ると、すでにそれは目の前まで迫っていた。

「死んで!」

 いつの間に前に回り込んだのだろう。速度を落とす暇もなかった。

 マズイ! このままじゃ当たる! どうにかして避けないと!

「――!?」

 次の瞬間、俺は何が起こったのか理解できなかった。

 ……え? 俺は今のを避けたのか?

 目を閉じている間に、体が壁に張り付くように移動している。直前まで前進する力だけが働いていたはずなのに、慣性を無視したような動きをしていたのだ。

 横を見ると、呆然としている女の姿がある。彼女も今の出来事を理解できていないようだった。

「アンタ、まさか?」

 女の目が、人ではないものを見るような目に変わっていく。

「まさかって、なんだよ?」

「へえ、そういうこと」

 女は勝手に納得がいったようになると、肉体が液体となって溶けていくかのように、闇の中に消えていった。

 ……へ? 消えた……?

 自分の見た光景に疑問を浮かべずにはいられない。

 これは比喩とか表現ではなく、まさしくそのままに――女は闇に溶けていったのだ。

 言うならば、〝女は目の前で闇と同化した〟。

「何が起きた……? どうなってんだよ?」

 周りに女の姿がない。ここは長い廊下のはずだ……。ドアを開けて部屋に入ったような様子もなかったし、まるで手品を見ている気分だった。

 もう一度頭を回転させてみれば、答えにはすぐに辿り着く。

 もしかしてこれが、逢河の言っていた特殊能力者?

 俺が相手にしていたのは、桐生と似たような力を持った人間だった?

 本当にアスカ町を中心にいるんだな。こんなところで得心がいく。

「どこだ! 大人しく出てこい!」

 言っても無理だとわかってはいても、そう叫ばずにはいられなかった。

 こうして声を張り上げることは、少なくとも女への威嚇になるはずだ。

 さて、どうしたものか。女が闇と同化したのであれば、それはそのまま彼女の特殊能力を指すことになる。闇――つまりは影の中だ。おそらく彼女は〝影の中を移動できる能力〟を持っているのだろう。こちらから彼女に対する手立てがなくなったのだ。

 緊迫した空気の中、足を触られるような感触を覚える。

「なんだ?」

 素っ頓狂な声を上げたのも束の間、そのまま足を払われ体勢を崩してしまう。

「――くっ!」

 腹から床に倒れそうになる。

 しかもそこには影から生える草のように、ちょうど件のハサミが突き立てられていた。

 マジか! そっからハサミだけ出すとかアリかよ!

 このままではざっくり貫通コースは必至。俺はさっきのように上手くいけばいいと、何とかして当たらないように祈ってみた。

 すると……、

「……ぐはっ」

 俺は〝天井に背中を打ち付けていた〟のだ。

 背中に接着剤でも塗っていなくちゃ、こんな状態にはなりっこない。

「何これ……俺は死んでとうとうおかしくなったのか?」

 辺りを見渡してみる。場所は女と格闘していた廊下のままだ。

 何より全身に走る鈍い痛みが、自分は生きているという証拠を突き付けてくる。

 床に戻ろう――そう思った途端に、周りの世界が俺に従うように、〝上方向の重力〟から本来の形である〝下方向の重力〟に戻った。

「……よっと。これってやっぱり、そういうことなのか?」

 逢河の言っていたことと、攻撃を避けたときの女の反応が線でつながる。

 つまり、これが俺の特殊能力……。さしずめ、俺の能力は重力を操作できるのか?

 両手を開いたり閉じたりしても、まだ実感が湧いてこない。

『やるじゃない。やっぱりアンタも特殊能力者だったんだ。能力を持ったヤツに会うのは久しぶりだわ』

 闇の中から声がする。

「お前もそうなんだな? ……どうする? これじゃ簡単に殺せないだろ?」

 虚勢を張って様子を窺ってみる。

 相変わらず女は影の中から攻撃のチャンスを狙っているようだ。

 まあ出てこないか。このままじゃこっちの防戦一方だ。どうにかして反撃に出ないと。

 三度頭を回転させて打開策を練る。

 そうか、光だ! 相手が影の中にいるっていうなら、辺りを照らしてやればいいんだ!

 探し物はすぐに見つかった。ちょうど顔を上げた先に、この区画の照明を操作するスイッチがあった。あとはあれを操作して廊下の明かりを照らせばいい。

 俺は一目散にスイッチ目がけて駆け出した。

「――っ!」

『ちょっと! また逃げる気!?』

 後ろから女の声がするが、そんなことには構っていられない。

 間に合ってくれ!

 どうにか右手がスイッチに触れると、辺りは一瞬のうちに光に満ちていった。

「はぁはぁ……ようやく姿を現したな」

「え、え?」

 後ろを振り向くと、そこには知った顔が突っ立っている。

 煌々と輝く照明の下で、ハサミを振りかざしたまま目を丸くしている女の姿は、凶器に満ちているのはたしかであったが、それと同時に滑稽でもあった。

 作戦が上手くいったようで胸をなでおろす。俺の目論見は間違っていなかったようだ。

 タネがばれた女は急に弱気になり、影がある方向へ逃げ出そうとした。

「待て! そうはいかんぞ!」

 問題児を捕まえる教師のように、すんでのところで襟首をひっ捕らえる。

「放してよ!」

 この台詞を聞いたのはこれで何回目だろうか。自由にさせてはいけないということは、ここまでの過程で重々理解していた。

「ダメだ! こっち来い!」

「ヤダ! 邪魔しないでよ!」

 もはや駄々をこねる子供のようになった女をなんとかして押さえようとする。

「あっ……」

 すると、互いに足を滑らせてその場で転んでしまった。

 そのままの勢いで、二の腕を床に押さえつける。

「ねえ、どうしたら放してくれるの?」

 この状況と、女の焦燥感が、顔を妖艶なものにして惑わそうとしてくる。

 俺は絶対に逃がさないという強い意志で、なんとか理性を維持していた。

「誰も殺さないって約束できるなら」

 視線をわざと逸らされる。この無言は拒否と考えていいだろう。

「君は、CIPとかいう組織の人間じゃないんだよな。……異端能力者だっけ。なんなら、君をCIPに連れて行ってもらうよう、手引きしてもいいんだぞ」

「それだけはやめて!」

 感情の起伏が今までと比べ物にならないくらいに激しくなる。体は小刻みに震えていた。どんなことがあっても、それだけは避けたいと言いたげだった。

 記憶を書き換えられるって奴か……あのときは話に追いつくのに精いっぱいだったけど、そんなことされるってわかっていたら怖くてたまらないはずだもんな。

「お願い……やめて……」

「だったら何があってこんなことをするのか、いい加減教えてくれよ」

「言いたくない……」

 この子の過去にいったい何があったのだろう。これだけのことをしても、自分は彼女に対して何もしてやれなかったという事実に、歯がゆさだけが残った。

「吉祥さん……ですか? こんな時間に何をやっているんですか?」

 覚えのある声が聞こえたと思って顔を上げると、そこには看護師さんが立っていた。

 巡回中だったのか、よりにもよってこんな状況で出くわすだなんて。

「……えっと」

 何やら頬を赤らめているようだが、困っているのか、怒っているのか、それとも……。

「あの……ですね、吉祥さんがお元気だということは私も理解しているのですが、病院内でのそういう行動は控えていただけると嬉しいです……」

 そう言われて今の状況を冷静に確認してみる。

 第三者からしてみれば、俺が廊下で女の子を押し倒して、迫っているように見えてもおかしくなかった。しかもこの子もなんかそれっぽい表情をしてるし。

「いえいえ! そういうわけじゃないんですよ! こっちでも色々ありまして!」

 身振り手振りを駆使してなんとか訴えてみる。

 俺の必死さアピールが功を奏したのか、看護師さんは納得したようだった。

「そうですか? 私に事情は分かりませんが、もう消灯時間は過ぎていますよ……。どうしてもって言うなら、私がお相手しますから……」

 ダメだ、やっぱり勘違いしたままだこの人。

「あーはいはい。それはまた別のお話で……っと、電気は消さないでください」

「本当にお元気ですね」

 結局誤解は解けないまま、看護師さんは別の階へ行ってしまった。

 釈然としないけど、まあ、あの人が巻き込まれずに済むならそれでいいか。

 足音が聞こえなくなってから、再び視線を下に戻す。

「……あれ? どこいった?」

 しかしそこに女の子の姿はなかった。

 辺りを見渡しても人影なんて見当たらない。さっきまで聞こえていなかった自動販売機の稼働音だけが、静かに廊下に反響していた。

 俺はあの子の上に被さっていたから……それが影になって逃げられたのか?

「くっそ、逃がした! せっかく事情を聞き出せると思ったのに!」

 地団駄を踏んでも、それは後の祭りだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る