2章 日常は変わりゆく⑥
トイレの流れる音が止まぬうちに、戸を開いて廊下へ出た。
「暗いな……。さっさと部屋に戻って大人しく寝るか」
時間はすでに消灯時間を回っており、辺りはしんと静まり返っている。
周りに看護師の姿はなくとも、念のため車椅子でやってきていた。
「……おっと、危なっ!」
物すごい速さで廊下を走る人物が目の前を横切る。
「なんだ? 女の子……?」
暗いせいでよく見えなかったから定かではないが、患者服を着ておらず、私服姿のようだった。
お見舞いに来たのかな。にしちゃあ時間が遅すぎるけど……。
怪しい……。そう思えば思うほど、不信感が湧き上がってくる。
「……もしかしたら何かあったのかな」
万が一を考えて、女の子の後を追うため、車椅子を走らせた。
「ねえ償って! アンタの命で償ってよ!」
「わかった! わかったから! それは下げてくれ!」
廊下の奥までやってくると、院長室と書かれた部屋の中が何やら騒がしかった。
ただ事じゃないと感じ、とうとう車椅子を乗り捨てて中に駆け込む。
「アンタはあたしが殺してやる! これはサトルの仇よ!」
「やめろ!」
病院に運ばれたとき治療をしてくれた先生が、ハサミを持った女の子に襲われていた。
「や、やあ……吉祥君じゃないか。ちょうどいい、困っていたんだ。君からも何か言ってくれないか」
凶器に怯えながらも、白衣の身なりを整えたり、メガネの角度をいじったりして、マイペースな雰囲気を崩さない先生。
「誰よアンタ? もしかしてコイツの知り合い? 邪魔しないでくれる?」
鬼の形相をした女の子がこちらに振り返る。いつ先生を突き刺してもおかしくない勢いだった。
ひとまず落ち着かせよう。
「待ってくれ。そう言われてもな……目の前で人が殺されそうになっているのに、それを黙って見ているわけないだろ」
「……ウザ」
「は、い?」
怒りの矛先が少しだけこちらに動いたような気がした。
「コイツが何をしたのか知らないくせに、勝手なこと言わないでよ」
「先生がしたこと?」
院長先生に視線を向ける。
「だから言っているじゃないか。僕の力ではどうしようもなかったんだ。元々彼は非常に危険な状態で……」
「そんなわけない! 最後に会ったときのサトルはすっごく元気だった。なのにアンタが手術を失敗したせいで、あの人は命を落としたの!」
錯乱している。このままじゃ本当に最悪の事態になりかねないぞ。
「くそっ!」
俺は咄嗟に女の子を羽交い絞めにしていた。
さすがにケンカを吹っ掛けるのはやりすぎと感じ、時間を稼ぐことにしたのだ。
「ちょっと放してよ!」
大人しく放すわけがないだろ! だってそんなことしたら絶対殺すじゃん君ぃ!
「先生! 警察を呼んでください! 今のうちに……早く!」
「ああ、わかった」
先生は俺の声でようやく冷静になったようで、机の引き出しを下から順番に開け始めた。
「……あー、あっれぇ? おかしいな……どこにしまったんだ僕のスマホ……」
しかしながら、どうも様子が芳しくない。
まだなのか? この子を押さえるのも結構疲れるんですけど!
「早くしてください! あまり長く持ちません!」
「待ってくれ。……おお、あったぞ! 今かけるから!」
同時に女の子の抵抗が今までとは比べ物にならないほどに増す。
「そうは……いくかあ!」
何ぃ! こいつこんなに力があるのかよ!
窮地になった女を舐めてはいけないということか、あまりにものもがき方に、俺がつい力を緩めてしまったタイミングを突いて、女の子は先生に鋭い蹴りをかました。
「うぐっ!」
体を棚に強く打ち付けたようで、そのままノックダウンしてしまう。
「アンタも放してよ!」
「……っと」
一方の俺も、先生の様子に気を取られている隙を突かれて、拘束から逃げられてしまった。
落としたハサミを拾い、先生ににじり寄る。完全に頭に血が上ってるな。
「待ってくれ」
それをやってはいけない。そんな気持ちが言葉となって行動に現れる。
後ろめたい気持ちもあったのだろうか、弱弱しいたった一言にも関わらず、彼女はピタリと動きを止めた。
「……何? まだ邪魔する気?」
鬼気迫るオーラが背中からでも感じ取れる。だが怯むわけにもいかない。
「少しだけでいいから、落ち着いてくれ。突っ走って君を止めたものの、俺は状況がわからないんだ」
「なら入ってこないでよ。これはあたしとコイツの問題なの」
真っ向からいっても聞き入れてくれない。ここはこの子の心情に語りかけてみるか。
「なんでこんなことをするんだ? 先生が何をしたって言うんだよ?」
「……関係ない。アンタの気にすることじゃない」
「先生は俺を治療してくれた恩人でもあるんだ。そんな人が殺されそうになって気にするなって方が無理な話だ」
「それはアンタが、コイツが何をしたのか知らないからで……」
「だったら話してくれ」
これでは話が堂々巡りだ。時間稼ぎにはなっているが、決定的な一手にはならない。
女の子はとうとう俺の話を聞き流したのかと思うと、ハサミを高々と振り上げた。
「おい! 聞いてるのか――」
その腕を掴んでこちらに向かせたとき、俺はますます訳がわからなくなった。
その子は涙を流していたのだ。
……どうして、やる側の人間が泣いている?
「――――!」
ヤケを起こしたのか、突然女の子がハサミで襲い掛かる。
「くっ!」
もちろん俺もそれに抵抗したのだが、不意打ちということもあり、揉み合いになっているうちに、背中から地面に倒れてしまった。
「うぐくっ!」
涙を流しているというのに、女の子の鬼気迫るオーラがなくならない。
むしろ腕に籠る力は増しているくらいだった。
「どうして……! そこまでして……!」
「アンタウザすぎ。他人の事情に首突っ込まないでよ」
刃先がじりじりと首元まで迫る。相手が覆い被さっているため、こちらに分が悪かった。
「くっそ……!」
このままじゃこの子に殺される……! せっかく神代を失ってまで生き永らえたっていうのに……ここで死んでたまるかよ! どうすればいいんだ!?
ピンチになって頭の回転スピードが速くなる。
打開策を短い時間で見つけなければならなかった。
――この子が言うには、あなたにも特殊能力の素質があるらしいのよ。
ふいに逢河のそんな言葉が下りてくる。
そうか! 特殊能力! 俺にもそんな人外染みた能力があるって言われたんだ。
だったら、ここで俺も反撃に出れば……!
「諦めて……もう死んで……!」
より一層女の力が強くなる。
「……ぐぐ」
しかしながら、いつまで経ってもSFチックな現象が起こるわけもなく――。
??? 能力ってどうやって使うんだ!?
「チィ!」
咄嗟に思い付いた別プランの――腕を横に受け流して、女の攻撃を間一髪かわす。
そうして女が体勢を崩している隙に、そのまま拘束をすり抜けて立ち上がった。
「アンタもコイツも、どうしてあたしの邪魔ばかりするの?」
女は相変わらず涙を流している。俺はその理由を知りたかった。
「アンタたちは正義を振りかざしていい気になっているのかもしれないけど、その余計な行動がどんな悲劇をもたらすか理解していないんだ!」
「余計な……?」
引っ掛かるようなことを言われて、好奇心が奥に追いやられる。
「お願いだから放っておいてよ! これ以上関わって来ないでよ! どうしてもって言うなら……」
むしろ今の俺は、女の悲痛に満ちた有様をこれ以上見ていられなかった。
そこで女は乱暴に涙を拭い、
「まずはアンタから殺してやる!」
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