1章 終わる日々⑧

 緊迫の状況をまくしたてるように、雨がしとしとと降り始めた。無数の雫の弾ける音が、体の髄まで染み渡ってくる。

 この雨量なら、火事もすぐに沈下できるはず。

 オレは男から目を離さぬように神経を研ぎ澄ませた。

「ロシアンルーレット?」

 リボルバーに弾を一発だけ装填しシリンダーを回転させ、挑戦者が順番に引き金を引いていくという、まさに命がけのデスゲームのことだ。

 それで勝負を決めようって言うのか……?

 そもそも、ロシアンルーレットという名前を聞いたのが久しぶりだった。数年前に映画で見たことを最後に、文字を目にすることも、言葉を耳にすることもなかった。

 現実感というものが、まったく感じられなくなってくる。

 男は手に持っているリボルバーを弄り、弾薬を取り出してオレに見せた。

「弾はこの通り、六発中の一発だけだ。これを込めてシリンダーを回す」

 空を仰ぎながら瞳を閉じてシリンダーを何回か回転させた後、それを持ち上げてリボルバーに押し込む。カチャンという金属音が鳴った。

「やり方くらいはわかるよな?」

「ああ……」

 できるだけ冷静さを保ちつつ返事をする。

 本当は緊張で胸がいっぱいだった。自分でリボルバーを抱え、自分で銃口を頭に当て、自分で引き金を引く――そんなことができるわけがないんだ。

 この勝負を受けるしか、オレに選択肢はないのか?

「シリンダーを回したのは俺だ。先攻後攻はオマエが決めろ。フェアにやりたいからな」

 また挑発的な笑みを浮かべてくる男。

 そのとき、あるヒラメキが脳を電撃のように走る。

「先攻だ」

「ほらよ」

 リボルバーがオレのところに投げられる。

 そうだ。別に自分に撃つ必要はないじゃないか。これを使えば、そのままアイツを抑え込むことができる。

 動悸が一気に激しくなる。

 そうすればこんなゲームに乗る必要はない。吉祥を助けることもできるはずだ。

「ひとつ忠告しておいてやるよ」

 男は、ポケットから小さな金属片を取り出した。

「このビルの屋上のカギだ。これがなければ、そこのカギを開けることはできない」

 その言葉を聞いて、屋上に入ったときのことを思い出す。たしかあのとき、ガチャンという、ドアの閉まる音がした気がする。まさかあの瞬間に退路を断ったのか。

「わかるよな。相方を助けたければ、ルールはちゃーんと守ることだ。そこのドアが、二度と開かなくなるかもしれない」

 もしオレがここで銃口をヤツに向けようものなら、アイツは必ずカギを外に放り投げるだろう。ドアは簡単に破れそうもない。もしここから出られなくなったら、救助が到着するまで大幅なタイムロスを食うことになり、吉祥を治療するのがさらに遅れる。

「当たり前だ。そんなことはしない」

 これで完全に退路を断たれた。やはり勝負に乗るしか選択肢はないのか。

「…………くそ」

 オレは恐怖に支配されていた。

 どーしても頭を撃ち抜いたときのことを想像しちまう。……こえーな。こいつはマジでこえー。ロシアンルーレットなんてゲーム、どこの誰が考えたんだよ……。

 気づいたときには、腕は小刻みに震えていた。

「どうした、ビビったのか」

 男の顔が見える。

 もう一度視線を落としてリボルバーを見つめた。

 だけど、引き金を引くしか道はない。もう後ろに戻ることはできないんだ。……大丈夫だ、弾が出る可能性は六分の一。まだまだ圧倒的に空砲の可能性の方が高い。こんなところで死ぬわけにゃあいかねーんだよ。

「頼む……!」

 オレは慎重にリボルバーをこめかみに運んだ。

 息遣いが荒くなる。この一発でオレの運命が決まるかと思うと、正気が吹き飛んでしまいそうだった。


 カチン。


 小さな金属音が耳元で鳴る。

「おおーやるじゃないか」

 まだ、男の顔が見える。

「次はお前だ」

 爆弾を手放したくなったオレは、リボルバーを男の元に放り投げた。

 緊張が雨とともに地面に溶けていく気がする。生きた心地がしないというのは、きっとさっきのような状態のことを指すんだろう。

「そう焦るなって」

 男は余裕綽々にリボルバーを拾うと、そのまま流れるように銃口をこめかみに当てた。

「せっかくのロシアンルーレットなんだ。もっと楽しんでやろうぜ」


 カチン。


「ほら、またオマエだ」

 そうしてすぐに爆弾がオレの元に帰ってくる。

「ウソ……だろ?」

 何が起きた? どうしてそんな躊躇なく引き金を引ける?

 オレは人間ではない何かと対峙しているのかと錯覚しそうになった。

 常人なら少しは躊躇う瞬間のはずなのに、まるで死なないことがわかっているかのようにアイツは引き金を引いたんだ。

 腰をかがめて、リボルバーをしげしげと観察する。

 仕掛けを施す余地なんてない。シリンダーを回したのはアイツだったけど、先攻を選んだのは間違いなくオレなんだ……。アイツも言ったようにこれはフェアなゲーム。もしもイカサマをしようものなら、それはアイツの快楽主義に反することになる。

「男だろ。ガツンといけよ」

 それならなんなんだ、この圧倒的な差は? ヤツはどうして、そこまで生きたような顔をしていられるんだ?

 穴が開くほどに男の顔を見続けても、何かが起こるわけではなかった。ひたすらに降り続く雨の雫が、頬を伝っては落ちていく。

「さあ、引け」

 ちくしょう! 男の言葉に抑圧されて、オレは投げやりに引き金を引いていた。


 カチン。


「はぁ、はぁ……んんっぐ、はぁ……ぜぇ」

 体がものすごく重い気がする。こんな感覚は人生でも初めてだった。

「随分息が上がってるな。まだ半分撃っただけだぜ」

「うるさい。こんなこと、平然とできるわけねーだろ」

 足元まで滑ってきたリボルバーを男は拾う。

「そうかぁ? こんなに楽しいこと、中々やれないぜ?」


 カチン。


「ほら、もっと楽しめよ」

 休憩する暇もなく、リボルバーはまた戻ってきてしまった。

「……何故だ? どうして怖くないんだ?」

 死ぬ可能性は格段に上がっているはずなのに、さっきよりも明らかにリターンが早い。

 どこまでも見下したような目が、オレの心をかき乱していく。

「ふはははは。あのさぁ、そんな怖い顔すんなよ。な、リラックスリラックス」

「なんでそんなに余裕なんだよ!」

 男の態度がムカついたオレは、銃を握りしめたまま、疑問を解消せずにはいられなかった。

「楽しいから」

「はあ?」

 楽しいからってなんだ? 訳のわからないことを言われても、納得できるわけがない。

「オマエは生きるか死ぬかの瀬戸際かもしれねぇが、俺にとっちゃ、こんなン勝つか負けるかのただのゲームだ。弾が出るのが怖い、死ぬのが怖いとかじゃねぇ……ただひたすらに楽しくて面白くて、死にそうなくらいに最高な気分なんだよ!」

「イカれてる……」

 完全に人間の思考回路じゃない。そもそも火事を起こすようなヤツなんだ。オレが追いかけていた人間は、それほどまでに狂っていた人間だったんだ。

「オマエの番だ。これがある意味最後の一発だな」

「もし空砲だった場合、お前は六発目を自分に撃つのか」

「当然だ。ルールだからな。オマエの前でちゃんと死んでやるよ」

 金属の物体に視線を落とす。

 こんな快楽主義のド変態野郎に、ぜってー負けるわけにはいかねーな……。

 全身に緊張が走る。

「神代……ダメだ……撃つな……」

「吉祥、しっかりしろ。オレが今これを終わらせてやる。伊吹を待たせてるんだからな」

「やめ、ろ……」

 本当は吉祥の体が心配でたまらなかったのだが、オレはこの瞬間に集中するために目を閉じた。

「逃げてくれ……かみし、ろ……」

「……すぅ」

 大丈夫だ。オレはこんなヤツに負けない。

 火事を起こしたり、人を傷つけたり、命がけのゲームをしたりするようなヤツに、このオレが負けるかってんだ。

 オレはアスカ高校2年1組のオト部神代統吾。明日も活動に行かなくちゃなんねー。だからここでくたばるワケにはいかねー!

 目を開けると、そこには男の姿と、今にも死にそうな吉祥の姿がある。絶体絶命だ。

 もしここで弾が出たら? 確率はすでに五十パーセントまで上がっている。次の瞬間、オレが死んでいる可能性は五十パーセントだ。

 違う、そうじゃない。

 オレが生きている可能性も五十パーセントだ! オレは生きて、吉祥を助けてヒーローになるんだ!

 オレは生きる。生きる。生きる。弾が出る可能性は五十パーセントかもしれないけど、その五十パーセントで絶対に生きてやるんだ。

 生きる。生きる。生きる。…………生きる!

 覚悟を決めて、オレは引き金を引いた。


 バァン!


 直後、オレは何が起きたのかわからなかった。

 声が聞こえない。音が聞こえない。耳障りだった男の笑い声も、うんざりするほどだった雨の音も、何もかも、頭の中まで響いてこない。

 体が宙を舞うような気分だった。

 ただ、この目に見えたものがある。

 それは真っ赤な雨と――吉祥の泣くような、無様な目だった。

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