1章 終わる日々③

 ウゥーーーーーーー!


 アスカ町一体に届くような、けたたましいサイレンが鳴り響いた。

「なんだよ! このバカみてーにうるせえ音は!」

「見ろ神代! あそこで火が上がってないか?」

 柵を乗り出した吉祥が、懸命に遠くを指差している。

 夕日のせいで分かりにくいが、黒い煙が立ち上り、末が扇になって広がっていく様子がたしかに見える。その下の周辺がこの時間帯には似つかわしく騒がしかった。

「こんな近くで火事が起こったのか。こうしちゃいられねーな、行こうぜ吉祥!」

「やっぱりな、お前ならそう言うと思ってた」

 目を吊り上げて不敵な笑みを見せる吉祥。

 それは色々な感情がない交ぜになってできたようだった。

 しかしながら、それはオレにとっては些細なことで――むしろオレはヒーローになってやるという気持ちでいっぱいだった。

 だってそうだろ。オト部に入った以上そんなの、

「あったりまえだ!」

 ゴミ袋を肩に担いで階段を駆け下りる。

「伊吹はどうするんだよ」

「アイツに構ってる場合じゃないだろ。一大事なんだからな」

「まあたしかにそうか?」

「いい表情だ」

「へ?」

「お前、髪上げた方が絶対いいと思うぜ」

 オレの目にははっきりと見えたんだ。長く伸ばした髪の隙間から、人を助けたいという、強い意志のこもった目が。


 ゴミ袋はマンションの外のそれらしいところに放り出してきた。

「あちぃ……」

 現場に着いて最初の感想はそれだった。

 業々と燃え盛るビルから発せられる熱気と立ち込める煙が、体内から汗を捻り出してくるようだ。

「なんだよこれ……」

 一方の吉祥は、あまりの惨状に言葉が出てこないようだった。

 まるで祭りでもやっているかのように喧噪にまみれている。消防車の到着を待つ人。取り残されている人がいないか心配している人。貴重品を失うことを嘆いている人。

 少しでも集中を切らせば、自分まで持っていかれそうな勢いだった。

「私の娘が四階に取り残されているんです! 助けてください!」

 疲労困憊の様子だった一人の主婦が、野次馬の一人にしがみついて懇願している。

「そう言われてもねえ……。私だって助けてやりたいが、あの中に戻るのはな……」

 本当は助ける気など毛頭なさそうな表情で、相変わらず燃え続けるビルを見上げる男性。

「お願いですっ……。けほっけほっ、早くしないとあの子の命が……ごほっ」


「聞いたか今の。どうやら、オレたちの出番みてーだな!」

 うずうずしていた体が留まることは知らず、足はビルの方向へ弾かれた。

「待てよ神代!」

「……んだよ、急がねーと! 中に子供がいるんだとよ!」

「そりゃわかってるけどさ……」

 そのときオレははっとする。

 吉祥の目が死んでいた。

 さっきまでの強い意志を持った吉祥がそこにはいなかった。

「なんだよオメー、またビビってんのか」

「そうじゃなくってさ……」

 勢いを失った吉祥は弱弱しく続ける。

「本当に助けに行くのか? それで、俺たちまで助からなかったらどうするんだよ。……じきに消防隊が来るはずだ。俺たちは外でできることをやった方がいいんじゃないか? ほら、飲み物を持ってきたりとかさ――」

「なあ吉祥」

 吉祥はまた目を逸らしてオレを見ようとはしなかった。

「お前は本当にそう思ってんのか」

「…………」

「周りを見ろ。みんな憔悴しきってる。火の中に飛び込めるような若い男なんてオレたちぐらいしかいねー。消防隊の到着を待っていたら取り返しのつかないことになるかもしれねーんだ」

「そんなんわかってるけどさ……」

 やっぱりダメか。

 どうやらさっき見た吉祥の目つきはオレの勘違いだったようだ。

 そもそも、マンションで話してくれた内容が本当なら、吉祥がここで一歩を踏み出せるわけがなかったんだ。ましてや今回に限っては、自分の命までかかってくる。命を危険にさらすくらいなら、ここで大人しくしている方がこいつにとっては懸命なのかもしれない。

「いいよ……わかった。オレ一人で行く。吉祥はここにいる人たちの様子を見ていてくれ」

「そんな……ずりぃなあ神代」

 なんでお前は、そんなに前に進めるんだよ……。

 不確かだけど、吉祥が消え入りそうな声でそんなことを言ったような気がした。


「吉祥君! やっぱりここにいたー!」

 ビルの中に入ろうとしたところで、聞き覚えのある声に手が止まる。

「伊吹か……よくここにいるってわかったな」

 どうやら伊吹も現場までやってきたようだった。

 口を出せる空気ではないと悟ったので、しばらく会話を聞くことにした。


「だって、吉祥君なら真っ先に火事の現場に行くかなって思って」

「真っ先、か……。別に俺は神代の後を追っただけだよ」

「そういえば神代君は? ここにはいないの?」

「……ああ、あいつなら一人でビルの中に入っていったよ。取り残されている子供を助けに行くってさ。お前はここで待ってろって……」

「吉祥君は、それで神代君を止めなかったの?」

「止めたけど……俺にはどうしようもなくて……」

「そっか……無事だといいんだけど」

「…………」

「……無理しなくてもいいんだよ」

「え?」

「吉祥君まで行かなくてもいいんだよ。私は、吉祥君には危険な目に遭ってほしくないし」

「何言ってんだよ。まさかお前は俺がこの火の中に飛び込むと思ったのか? 何の装備もつけずに、そんなバカなことをすると思ったのか?」

「それならいいんだけど……そうは見えなかったからさ。それにすごく汗を流してるし」

「汗って……。こんなの、ただこの暑さにやられただけで――」

「よし! それじゃ私たちは、私たちでできることをしよう」

「……悪い、伊吹。やっぱり俺も行くわ」

「え?」

「多分お前の言うとおりだ。俺は真っ先に現場に行きたくって、神代の後を追って一生懸命走ったからこそ、こんなにも汗をかいたんだよな」

「…………」

「俺、やっぱり助けたいよ。取り残されている子供も、一人で突っ走ったバカ野郎も。俺がちゃーんとまとめて助けてくる」

「……そっか。そうだよね、私の知っている吉祥君はすっごく優しい人だもんね。他人よりも自分を犠牲にしちゃう、ヒーローみたいな人だもん」

「ま、だからオト部に入ったんだもんな」

「うん……」

「行ってくるわ。ここで待っててくれるか」

「無理しないでね」

「おう!」


 吉祥がビルの入り口までやってきた。

「説得されるのに随分時間がかかったな」

「聞いてたのかよ……趣味の悪い奴だ」

「うじうじしていたヤツに言われたくはないね。急がねーとマジで助からなくなる」

「ああ、わかってるさ」

 強い意志のこもった目がオレを貫く。

 やっとやる気になったかこいつは。

 本来の吉祥を見れた気がしてオレは心底嬉しかった。

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