第18話

 開かれた扉の先は青白い光に照らされた狭い部屋だった。左右の壁には拳くらいの丸い穴が無数に空いている。


「エリック。早く入って」


 神佐真夜に促されてエリック・コーウェンが部屋に入ると扉が急に閉まった。閉じ込められた。彼はそう思って焦りにまかせて扉を叩こうとした。しかし、彼が殴るより先に壁の穴から空気が吹き付けた。


「なんだ!? 風が」

「慌てなくていいよ。エアーシャワーだから」

「エアーシャワー?」


 神佐は慌てるエリックを尻目に衣服についた埃を払うような動きをした。エリックも彼女に合わせて衣類を払ったがこれにどのような効果があるのかよく分からなかった。壁から出ていた空気が止まると次の部屋への扉が開いた。


「ここが反物質量子コンピューターがある。中央演算室だよ。君たちが第一迷宮と呼ぶこの建物においてもっとも重要な設備がここにあるんだよ」


 中央演算室の中には青白い光を放つ金属の箱が無数に並んでいた。その整然と並べられた姿はどこか墓地に似ていた。その光り輝く墓標の中央に一際巨大な箱があった。箱にはいくつもの太い縄のようなものが規則的に繋げられている。二人がその巨大な箱に近づいたときどこからとなく女性の声が響いた。


『八十七万六千九百五十時間ぶりです。神佐真夜』


 エリックは周囲を見渡したが、声の主はどこにも見当たらない。様子を察してか神佐が巨大な箱を指差していった。


「あれが反物質量子コンピューター『ICO(イコ)』。イコには同名の人工知能が搭載されている。だから喋っているのは人ではなくイコという人工知能であり量子コンピューターそのものだと思っていいんだよ」


 人ではないものが知能を持つ。それはそのまま神の所業(しょぎょう)のようにエリックには思われたが、神佐がいた世界ではこれが普通にありえることのようであった。


「イコ。久しぶりね。早速だけど私以外のプロジェクト参加者に再構築に深刻なエラーが出ている。それは確認している?」


 神佐は漆黒の髪をかきあげながら尋ねる。巨大な箱は少しの沈黙のあと答えた。


『確認しています。パーソナルデータを表示します』


 ポン、という軽い音と一緒に巨大な箱の前面が明るく光り輝く。それは初めてみる文字が表示されていた。エリックはそれを読めなかったが、文字の多くは赤字なっており直感的に良くないことのように思えた。


「……なんなんだよ、これは」


 神佐が低い悲鳴にも似た声を上げる。


『パーソナルデータです。説明します。プロジェクト参加者千五十七名のうちボディーデータに深刻な損傷があるものは千五十六名。メンタルデータは千五十五名です。第一次転移においての成功者は神佐真夜あなただけになります』


「損傷を修復することは?」

 神佐は目の前が暗くなりそうになるのを堪えていた。千五十六名の命の果に生き残ったのが自分一人とは信じたくなかった。いや、信じるわけにはいかなかった。


『不可能です』


 イコの感情のない声が響く。それは神佐を不快にさせるものだった。


「待ちなさい。メンタルデータだけはあと一人正常に残っているはずよ。メンタルだけでも人工知能として再生できないの?」


『メンタルを再生できても記憶領域はボディーデータの大脳辺縁系に残されているために、それは該当個人との連続性は維持できません。また、新たな人工知能の追加はICOの処理能力を低下させるだけでプロジェクト進捗に影響を与えますがよろしいですか?』


「……っ」


 神佐は悔しそうに唇を噛むと、髪をかいて大きく目を閉じた。エリックはその様子を黙ってみるしかできなかった。彼女はふー、と大きく息を吐くと眼を開いた。


「バックアップデータからヒトとしての共通データを選別、損傷したデータにパッチを当てることは?」


 転送前に保存されたデータは事故の可能性を含めて正と副の二つが保存されていたはずである。例え、正のホストデータがダメでも副であるバックアップが生きていればそこから復元ができるかもしれない。彼女はそう考えた。


『すでにバックアップデータは既に失われています』


「なぜよ!」


 神佐はICO本体を叩いた。鈍い金属音が寂しく部屋を包む。


『神佐真夜。あなたを再生するためにそれらのデータは使用されました』


「わ、私を再生するため?」


『あなたのボディーデータは他の誰よりも深刻なダメージがあった。故に上位権限者から与えられていた命令に従いバックアップデータを用いてパッチを作成。神佐真夜のボディーデータを補完した。人間一人を六十億ビットとして千五十六名から獲られたデータ。六京三百六十六兆ビットから共通する項目や欠落部を補填するためにデータを同時存在的に演算を実施した。あなたが私の前に立っているということはパッチは正常に作動。再構築を成功させたものと判断できる』


 膝から崩れ落ちるように神佐は座り込んだ。

 一人のために千五十六名が犠牲になった。彼らは魂といえうべきメンタルデータを破損していたとは言え生贄のように身体まで奪われる必要はなかったのではないか。なぜ、自分にはその価値があるのか。参加者の誰もが生きたかったのではないか。


 彼女の思考はまとまりを持たずにぐるぐるとまわり、最後には一つの疑問に行き着いた。

 誰が神佐真夜を生かそうとしたのか?


「……イコ」


 次の言葉を続けるのが怖かった。しかし、彼女は訊ねずにはいられなかった。


「あなたへの命令を変更したのは誰?」


『眞鍋保(まなべ・たもつ)次長です。変更は転移の十五分前に行われました。その際の映像が記録として残っています。再生しますか?』


 その名前が出ることを彼女は予測していた。


 しかし、彼は生き残りたかったはずなのだ。愛する奥方、生まれてくる子供。それらと生きる日常を求めていたはずなのである。それがどうして自身の命ではなく。彼女の命を優先したのか。神佐には理解できなかった。


 ICOの中央モニタがデータの羅列から映像へと切り替わる。今彼女がいる場所と同じ場所に彼は立っていた。それは階下で見た死体のように青白い姿の彼ではない。眼には強い意志を宿し、未来の継続を諦めていない彼女の上司の姿であった。


『あー、転移後の人体再構築に関して問題が生じた場合。神佐プロジェクト。M(マテリアル)四(よん)。神佐真夜を優先する。プロジェクトの最上位権限者として命令する』


 真面目な顔で眞鍋はそう言うと、背後でイコが『承認しました』、と無機質に答えるのが聞こえた。それを聞いた眞鍋は綺麗にヒゲを剃り上げた顎を撫でて微笑んだ。


『カミサマは怒るかも知れない。だが、君という命を人工的に作った人間の一人として責任を果たしたかった。反物質を用いて世界を崩壊へと導いた世代の人間として君には辛い思いをさせた。反物質の権威。天才神佐博士と同じ頭脳を求め我々は君を作った。クローン人間である君は本来の人間が体験するべきことを何一つ体験できなかった。

 家族との生活も友達と遊ぶことも君にはなかった。ただ、私たちが与える知識を蓄え。計画に必要な計算や解析を行う日々。きっと辛かっただろう。君は文句を一つも言わなかった』


 やめてくれ。


 神佐はそう思った。

 確かに彼女は天才科学者のクローンとして生を受けた。そして、周囲が求める天才であった。世界が破滅に向かっていることは幼い彼女にも容易に理解できた。それを回避するために力を使うことは正しいことだ。それは、同じように生まれた姉妹たちもそうであるはずだ。


『自分に子供が生まれる、とわかったとき僕は思ってしまった。この子は天才ではなく凡人であってほしい、と……。これほど酷い考えはない。そうだろ? 天才を人工的に作りながら自分の子にはそんな重荷は背負って欲しくない、と考える。どこまでも利己的だ。

 だから、これは贖罪(しょくざい)であり、僕のとても利己的な願いだ。普通の人として君が異世界で生きられることを願う。まぁ、問題なく転移できればこの命令は日の目を浴びることもなく。君には仕事を続けてもらうことになるんだけどね』


 そう言って眞鍋は自嘲(じちょう)的に笑った。


『では、カミサマ。無事に会えることを願っている』


 映像はここで終わった。演算室は再び暗闇に戻る。量子コンピューターが発する青い光だけが部屋を満たしている。深海から水面を見上げればこういう風に見えるのかもしれない。神佐はわずかに歪んだ視界をこすった。


 手に液体がついていた。

 彼女はようやく自分が泣いていることに気づいた。涙を流したことなんて今までに一度もなかった。もしかしたらあるのかもしれないが、記憶には残っていない。涙がでるときにはパターンがあることを彼女は学んでいた。


 嬉しいとき。

 悲しいとき。

 怒っているとき。


 これはどれなのだろうか。


「エリック。私はいまどういう気持ちなんだろう? 嬉しいのか? 悲しいのか? 怒っているのか?」


 この世界であった第一村人は変わった奴だった。神様を騙ればそれを信じるといい。それが嘘だといえばそれでいいという。そのくせに建築にだけは妙に知識を欲する。本当に変わっている、神佐は冷たい床の上でそう思った。


「全部です。神佐は怒って悲しんで、そして嬉しいとも思っている。だから、涙がであるんです。彼は勝手な人です。でも、きっと優しい人だったんですね」


「勝手な奴が優しい人ではたまらない。残される側としては迷惑だよ。本当に迷惑だよ」


 神佐はゆっくり立ち上がった。ここで泣いているわけにはいかないのだ。階下では仲間が時間を稼いでいる。ICOはエラーデータを再構築し続けているのだ。殺しても殺しても生き返る不死者の王。その正体は、ただ何度も繰り返し再生される音楽のようなものだった。


「神佐」


 エリックが手を貸すと神佐は素直にその手をとった。温かい手だった。そういえば、目覚めたときもてを握っていた気がする。そのときはどうだっただろうか。そう考えて彼女は自分がセンチメンタルになっていると笑った。


「イコ。結果は出た。すべての再構築を終了させて。計画は私以外の死亡で終わった」

『それはできません』


 神佐はその意味が分からなかった。


「どういうこと? エラーが起きているの?」

『いいえ、エラーはありません。Cプロジェクトは完了しました。しかし、Cの完了はSプロジェクトの開始です』

「Sプロジェクト? そんなもの私は知らない!」

『Sプロジェクトの概要はCプロジェクト参加者には開示されていません』


 神佐は叫んでいた。


「教えなさい。Sプロジェクトとはなに?」

『Sプロジェクト。それは隷属(subordination)プロジェクト。人類が新たに転移した世界での危険を減らすために現地人を隷属させることが目的です。そのためにジャンクデータは一つにまとめられ不死のキメラとして活用されます。故に再構築を止めることはできません』


 新天地に渡ったものが最初にぶつかるもの。それは現地人との軋轢。文化の違いによる嫌悪である。それは多くの歴史が示していた。神佐だってそれは知っている。だが、それを理性によって乗り越えるそれが人間であるはずであった。


 しかし、彼女よりもはるかに高い地位にいた者たちは人類救済という道を最短で進むことを良しとしていた。


「権限者として命令します。Sプロジェクトをすぐさま凍結しなさい」

『神佐真夜。あなたにはその権限はありません。局長クラスの権限のみが凍結を命じられます』


 イコの機械的な反応は神佐に一つの決断をさせた。


「そう。イコ。あなたは忘れているんだよ。あなたを作ったのは私。天才美少女で、ときどきおっちょこちょいな神佐真夜であることを!

 STOP――D 653#521。 SWSVACCONTROL!」


 部屋を満たして青い光が点滅する。

 かわりに赤い光が部屋を怪しく照らし出す。


「神佐、これは?」

「イコいえICOを強制的に停止させた。これで彼。いや、不死者の王はただの王になった。いまなら傷はふさがらず。燃えれば灰となる。ただの利己的で優しい私の上司だった人だ」

「いいんですか? 彼は……」


 エリックはうかがうような表情で彼女を見た。


「いいんじゃない。救いは自らの手で行うものだよ」


 それはかつて上司が言ったものであった。神佐は既に決めていた。新しい仲間を救うのだと。

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