第10話
これは夢だ。
間違いなく夢だと確信できる。それなのにどうして自分は目を覚ますことができないのだろう。
「カミサマは怖くないかい?」
クマのようなむっくりとした男が私に訊ねる。その表情はいかにも覇気のないもので、一つのプロジェクトを統括する長のものにはまるで見えなかった。
「怖い? 世界が終わろうとしているのに今更なにを恐れろというのですか?」
私は苛立ちを隠さなかった。男は「ははっ、そうなんだけどね」、と情けない苦笑いをするとゆっくりとした口調で言った。
「いや、妻が妊娠してね」
「だからなんだ。黙って仕事をしろ」、と言いそうになったが私は天才であり、見た目よりも大人だったのできちんと「それは、おめでとうございます」、と笑顔でいうことができた。男はいままでの情けない顔が嘘のように誇らしい顔で、ありがとう、と微笑んだ。
「でも、お子さんを生むのは奥様であって貴方の腹は痛めませんよ。怖い、と不安になるのは普通、奥様ではないですか?」
私のセリフの何が面白かったのか男は「わかってないね。カミサマは」、と笑った。
その姿が妙に腹が立ったので私は男の足をわざと踏みつけた。だが、私の足は小さすぎて男にあまりダメージを与えることはできなかった。まともなダメージを与えるためには私がぼんきゅぼんになるであろう二、三年後までまたなければならない。
「僕が怖いのは出産のことじゃないんだ。このプロジェクトが始まれば妻にも会えなくなるし、子供が生まれるのはプロジェクト中だ。まして急いで病院に駆けつけられる環境でもない。まぁ、その有体に言って、僕が不在の間に妻や子供になにかあることが怖いんだ」
照れくさそうに言う彼を眺めながら私はその意味を理解できなかった。
「……そんなに不安でしたらプロジェクトから下りればよろしいじゃないですか。出世欲旺盛な政務局の主査あたりがすぐに後任になってくれますよ」
「それは魅力的だが、それではプロジェクトが前に進まなくなる。政務局は会議の仕方とうまい報告書の書き方は教えてくれるが、実務をうまく回す方法だけは教えてくれない。彼らが長になれば、僕は世界が終わるまで妻子とは一緒にいられるが、世界は救われない」
まったく分からない。なら、一刻もはやく仕事を進めるべきなのである。それを怖いだの言って部下の労働力を低下させるとは無駄も甚だしい。私は自分の上司を無能とは思わないが、こういう必要のない会話や愚痴を向けてくる悪癖はどうにかしてほしい。
「なら、手を動かしてください」
「カミサマは冷たいね。オジサン、凍え死ぬよ」
いい年の男が口をとがらせて一回りも年下の部下にいうセリフがそれでいいのか、と私は思う。
「そもそも神様がいればその暖かい慈愛で私たちを救ってくれていると思いますけどね」
「そうだね。救いは自分の手で行うものだ」
男が何か言いかけたところで私の夢は中断された。
メイドが起こしに来たわけでもない。幼馴染が起こしに来たわけでもない。ただ、朝が来たのだ。だけど、私は夢が覚めたことが少し寂しいように感じた。旅人は一度は故郷を恋しく思うものだという。きっとこれもそういうものに違いない。
神様は寝台から身を起こすとしばらく動かなかった。
それは、懐かしい夢を見たということもあったが、妙に鮮明な夢だったせいで休んだ気がしなかった。今まぶたを閉じればすぐに寝付けるに違いない。跳ねあがった黒髪がいたるところで緩い弧を描いている。それらを緩慢な動作で押さえつけると神様はけだるげな声を出した。
「あー、なんか疲れた」
このまま二度寝してやろうか、という甘美な誘惑が頭をよぎる。
神が堕落する、という話はいくつかの神話に登場する。それらの多くの神は、最終的には邪神とされ英雄や他の神に滅ぼされる。神も堕ちることがあるのである。戒めなければならない。
神様は意を決して寝台からおりると寝巻のうえに薄い麻布を羽織った。
彼女が居候しているエリック・コーウェン邸は建築士という彼の職業を反映してかよくできている。上水と下水は明確に分けられており、魔法世界においても衛生観念があることが見受けられる。ただ、風呂場がないことだけが不満であるが町に出れば大衆浴場があるので贅沢を言わなければ問題はない。
中庭に出ると上水から木桶を使って水をくみ上げる。上水は水路を通ってきているせいか冷たさは大したことはない。神様は木桶から手で水をすくうと顔を洗った。ぼんやりした頭が少しだけすっきりするような気がする。
最後に跳ねた髪の毛を整えるといつもどおりの自分である。大きな鏡があればよいと思うのだが、男やもめのエリックの家にはそれらしいものはない。せいぜいが手鏡がある程度である。
「神様、おはようございます。はやいですね」
背後から声がして振り返るとエリックが眠たげに立っていた。
「おはよう。エリック」
神様は空になった木桶をエリックに手渡した。木桶を受け取ったエリックはまぶたを擦りながら水を汲むと、めんどくさげに顔を洗った。彼の髪は鉛色であり表情や肌が見えなければ年寄りの白髪頭に見えないこともない。腰をかがめて顔を洗う姿は老人のように見えたので神様は声を出さずに笑った。
「正直、昨日は食べ過ぎました。胃が重い」
「あれだけ肉ばかりを食べればね。私はその辺はきちんと節制しているからね。朝から爽快なものさ」
神様は少しだけ嘘をついた。
あんな夢を見たのは食べ過ぎで寝つきが悪かったのかもしれない。やはり、腹八分目が健康にも精神にもいいのかもしれない。とはいえ、成長途上であるはずの自分の身体はきっと肉を求めているはずである、と神様は自分に言い聞かせた。
目線を下に向けると胸元から腰にかけて平坦な広野が続いている。
健康と成長。どちらを取るべきか。神様は答えの出ない問題にため息をついた。
「朝食は軽いものでいいですよね」
「私は軽くて甘いものでいいよ」
「神様は、甘いものなら軽重(けいちょう)はどちらでもいいんじゃないですか?」
否定できないのが悔しいがそれはおおむね正解であった。
「女神は砂糖とスパイス。そして、素敵な何かでできているんだよ」
「なんですか、それは?」
エリックは呆れた顔で訊ねた。
「それは女神の秘密というやつだよ、エリック」
神様は勝ち誇った顔で笑った。だが、それは虚勢というやつである。神は神である。人間に対しては威厳と余裕を持たなければならない。彼女はその矜持のために胸を張った。
「それはそうと、俺が知らない間に何かを女中商会に注文しましたね」
「おや、耳に入ってしまったかい?」
おどけた調子で応じると神様はエリックの目を見ずに笑った。
「支払いは俺なんですから分かりますよ」
「まぁ、悪いものじゃない。高層建築に必要な材料だよ。まぁ、エリックが考えている建築とは趣が違うかもしれないけどね」
建築という言葉が出たとたんにエリックの目の色が変わる。まだ眠たげだった目には強い光が宿っている。神様は彼を素直に羨ましい、と思った。
「それで高層建築を作れるんですか? どういう材料なんですか? 神様、早く教えてくださいよ」
矢継ぎ早に質問をするエリックの額に手を当てると神様は「あとだよ。まずは朝食にしよう」と言った。エリックは露骨に残念な顔をしたがまだ材料が届いていないこともあり、しぶしぶ神様の言うとおりにした。
待望の材料が届いたのは神様とエリックが朝食を終えたころだった。
二頭立ての荷馬車がエリック邸に入ってきた。御者台にはチェルシー・ゴッドリッチと商会の若い衆が座っていた。若い衆はいかにも荷運びが得意そうな屈強な男性で、腕の太さだけでもエリックの二倍はありそうであった。
「ご注文の品。お間違いなく納品いたします」
チェルシーはそう言って品目と価格を書いた羊皮紙をエリックに手渡した。彼はそれらを一品一品見定めるようになぞっていく。建築資材としてよく見かける大理石や粘土などに混じって金槌や木枠といったものが含まれている。
その間にも若い衆は荷馬車から重そうな麻袋や木樽を次々と中庭におろしてゆく。
「よく見つかったね」
神様がにやにやした表情でチェルシーに語りかける。彼女は神様を一瞥して言った。
「まったくでございますよ。あっちも様々なものを商ってまいりましたが、今回は手間でございました」
言葉にわりに彼女の表情は明るい。それは商品に対して自信があるためであった。
「では、エリック。いまからコンクリートの作り方を教えよう!」
神様は自慢げに胸をそらすと強い声で言った。
「コンなんですか?」
「コンクリート。これはエリック達が言う迷宮の基本的な材料の一つだよ。すごく簡単に言えば人工の岩を作る方法かな」
岩を人工的に作る。そういわれてエリックがすぐに思いつくのは魔法による石材の結合や成形である。彼の師であるロナルド・ベーコンが王宮に作り上げた塔は大量の石材を建物に合わせて結合し、形を整えたものであった。だが、それはその質量を支えきれずに崩れ落ちた。
「人口の岩なら魔法でも作れますよ」
エリックはそういうと中庭に転がっていた石ころ五、六個を集めると『集まり一つの岩となれ』、と魔法を唱えた。青白い光とともに石ころは混ざりあい一つの岩になった。
「うん、そうだね。それも一つの方法だ。だけど、私が今からやるのは魔法を使わない。コンクリートは大きく分けて二つの材料からできている。一つは骨材と呼ばれる砂や砂利。そして、最後にセメントだよ」
「人口の岩を作るのに砂や砂利は分かりますけど、セメントって何ですか?」
「エリック。君がいま作った岩をよく見てみなよ」
魔法で作られた岩の前に立つと神様は岩の表面を指さした。エリックはその細い指が示す場所を目を凝らしてみた。
「一言に岩と言っても岩は混合物なんだよ。岩ができた場所や地層、環境によって岩を構成する物質は変わってくる。なじみ深いところで、建築によく使う花崗岩(かこうがん)だってよく見れば、石英や長石、雲母といった粒が見えるはずだ」
神様の言うとおり細かな粒のようなものが結びついているように見える。
「確かに粒のようなものがあります」
「その粒が砂や砂利だと思ってほしい。だけど砂と砂利だけではだめなんだ。砂山をいくら押し固めても岩にはならないからね。糊のように粒をまとめあげるものが必要なんだよ」
「それがセメント」
「そう。正解! では次はセメントが何でできているか説明しよう」
神様はそういうと神様は中庭におろされた麻袋の中から灰色の粉と駱駝色(らくだいろ)の粉が入った二つの袋を選んだ。
「火山灰と粘土ですね」
エリックは麻袋をのぞき込むと少しがっかりしたような声を出した。この二つは倉庫や庶民の家ではよく使う材料である。魔術師を呼ぶ金がない人々はレンガや木材で住宅を建てる。その際にレンガの繋ぎや壁の表面に塗りこむことがあるのがこの二つである。どちらも乾燥すると固くなるが、叩いたりすれば簡単に壊れる強度しかない。
「さらにこれ」
神様は木樽に詰められた小石を指さす。中には大理石の欠片が入っている。一般的に建物の化粧石として用いられる大理石であるが、これは相当質が悪いらしく床板や内壁の飾りには使えそうにもない。
「これで塔の重さを支えられるんですか?」
「材料は自然のままが一番いいとは限らないよ。渋い柿も皮をむいて天日に干すことで渋味が消えて甘くなるということもある。じゃ、いっちょ燃やしてみようか!」
神様は火山灰と粘土、そして大理石からできた小山を指さすとエリックに燃やすように促した。エリックはなぜこんなものを燃やすのか分からなかったが、彼女が言うとおりにした。
『炎よ熾れ』
魔力が生み出した炎が材料を焦がす。炎の勢いに粗悪な大理石はぼろぼろと砕けると粘土と火山灰に混ざり合って区別がつかなくなった。火が消えたあとには鼠色の岩のような塊が残った。神様は塊を満足そうに眺めと「これがクリンカだよ」、といった。
「クリンカ?」
「そう。これを破砕して石膏を加えるとセメントになる。はい、エリック。これを砕いてね」
手渡された金槌を見て、納品書の中にあった金槌(かなづち)はこれを砕くためか、とエリックは納得した。クンリカは金槌で叩くとボロボロと砕けた。ある程度、細かくなったところで神様が別の麻袋から石膏をすくうとクンリカに加えた。
「これがセメントです!」
「なんか糊っぽくないですね。これで本当に砂や砂利がまとまるんですか?」
「ほう、神を疑うか。ならば見るがいい!」
疑いのまなざしを向けるエリックが気に食わないのか、神様は勢いよく中庭の上水から木桶に水を汲むと神様はそのなかにセメントを入れた。水を吸ったセメントは粘度が上がるのか木桶をかき回す神様の動きがぎこちなくなる。神様の自信とは裏腹に危うさを感じる彼女の動きに最後にはエリックが混ぜることになった。
「これをどうすれば固まるんですか?」
必死にセメントをかき混ぜながらエリックが訊ねる。神様はあがっていた息を整えると「あとはほっとくだけだよ」、と言った。
「えっ!? 結構、水っぽいですけど大丈夫なんですか?」
「大丈夫。セメントは乾燥して固まるわけじゃないから」
エリックは木桶を混ぜていた手を止めると神様と木桶を交互に見た。木桶の中は、灰色の泥
で満たされている。
「えっ、乾かさないとずっとこんな感じなんじゃ……」
「セメントは乾くことで固まるわけじゃない。水と接触することで水和反応(すいわはんのう)をおこすことで硬化するんだよ」
「水和反応?」
聞きなれない言葉にエリックが首をひねる。
「セメントと水が触れ合うと熱と一緒に全く新しい物質が生じる反応のことだよ。厳密には水酸化カルシウム、エトリンガイド、モノサルフェートという結晶状の物質とC-S-Hゲルと呼ばれる水を含む水和物を生み出すものなんだけど……。まぁ、いまはセメントは水と触れると固まる、と覚えておくといい」
「……分かりました」
仕組みが分からぬままエリックは頷いた。
「あとはこのまま半日も待てばこの木桶の中は岩のように硬く固まるよ」
木桶を指さす神様を見ながらエリックはとても単純な疑問を口にした。
「木桶の中で固まったら明日から俺たちは何で水を汲めばいいんですか?」
数秒の沈黙があったあと神様は満面の笑みを浮かべて言った。
「木桶も追加で注文しとくね!」
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