第4話
「ごめんくださいまし。旦那様、いらっしゃるんでしょう?」
チェルシー・ゴッドリッチはいつもと変わらぬ姿で、ベルも鳴らさずにエリックの屋敷に入り込むと自分の家の中を行くような気軽さで部屋の扉を開けていった。しかし、玄関を抜けて広間や食堂、その奥にある厨房を覗いても屋敷の主であるエリック・コーウェンの姿は見当たらなかった。
エリックが天才と評される新進気鋭の建築士といえども彼の屋敷はさほど広くはない。食堂や広間などを除けばあとは書斎と寝室そして客間がある程度である。チェルシーは可能性の高い書斎から扉を開ける。扉の向こうにはエリックの姿はない。だが、開きかけの本に蓋の開けられたインク壺、広げられた羊皮紙には設計図が書きかけの状態で放置されていた。
「これはいなこと。もしや、夜逃げでしょうか?」
これが夜逃げであればチェルシー――『幸せの女中商会』は全力をあげてエリックを捜索しなければならない。彼女らが彼に融資した金額はこの屋敷を差し押さえても余りあるのである。とはいえ、エリックが夜逃げをしなければならないほど現状が切迫しているとも思えない。
第一迷宮の調査は動く屍との戦闘で中断されたことは傭兵団からの知らせでチェルシーも知っている。だが、地下に落下したエリックを救い出した傭兵団によれば、右足首の怪我だけで数日もすれば元通り動けるという。動く屍に押されて撤退した傭兵団もいまでは人数を増やしていつでも探索にでられる状態にある。この状況で彼に逃げられればまったく採算があわない。
彼女は脳裏に浮かんだ嫌な予測を振り払うとエリックの寝室を開け放った。
寝室にはエリックの外套が投げ出されるように卓に置かれ、持ち主が先程までいた痕跡を残していたが本人の姿はない。これはもしかして、とチェルシーが最悪の場合を再度、思い浮かべたときであった。寝室のとなりにある客室で何かが倒れるような音がした。
彼女は足早に客室に向かうと、「旦那様、ここにいらっしゃいましたか?」と言って扉を開いた。
扉を抜けると寝台に横たわる黒髪の女にまさにおおかぶさろうとしている屋敷の主がいた。彼の両手は寝台で眠る女性の顔のすぐそばにつかれ、顔は薄紙一枚という距離にまでせまっていた。
「第一迷宮で怪我をなさったと聞いて駆けつけてまいましたが、随分とお元気そうでなりよりですわ」
声に反応してエリックの顔が黒髪の女性からチェルシーの方に向く。
「いや、誤解なんだ! チェルシー、これにはいろいろ事情があるんだ」
エリックは脂汗を額に溢れさせながら反論する。だが、その姿は夜這いそのものであり彼の口から出るような事情があるようにはとても見えなかった。
「ええ、旦那様。そりゃーたいそうな事情ってものがあることくらいあっちにも分かります。ですが、言葉は正確に使うのが誤解のない日々につながると思うのです。旦那様の言う事情は、情事のお間違いじゃございませんか?」
「これはそんなのじゃない。本当だ。事情なんだ。決して情事じゃない」
慌てたエリックが両手をあげて上体を起こそうとした。だが、焦った彼は自分の右足が動くと思い込んでいた。第一迷宮で動く屍に掴まれた右足の怪我は一晩で治るようなものではなかったにもかかわらず、いつものように足に力を入れた瞬間、激痛が彼を襲った。上体を崩した彼は、藁をも掴む思いで手を動かしたが、何も掴めぬまま女性のうえに軟着陸した。
そこは柔らかではあったが豊かな場所ではなかった。彼女のささやかな双丘に両手をつけたエリックはこわばった表情でチェルシー、そして黒髪の女性へと視線を動かした。チェルシーはあからさまな軽蔑の眼差しを彼に向け、黒髪の女性は軟着陸の衝撃で目を覚ましたのか、驚きで見開いた大きな瞳で彼を見ていた。
驚愕が怒りへと変わるまでの数秒の空白ののち、エリックは突き飛ばされる形で地面へと叩きつけられた。
「な、なにをしている!」
寝台から跳ね起きた黒髪の女性は、地面でもがくエリックの頭を脚で踏みつけると「ギルティ一択」、と一言だけ呟いた。
「ちょっとお待ちくださいませ!」
チェルシーは殺意に燃える黒髪の女性とエリックの前に立つと声をあげた。黒髪の女性はチェルシーが誰かわからないようで、ピタリと動きを止めた。チェルシーとしてはここで不埒(ふらち)なこの男が簀巻(すま)きにされようが、めった刺しにされても構わなかった。だが、それは彼に融資した金を回収してからにしてもらわなければ困るのであった。
「えっとあなたは?」
黒髪の女性はチェルシーの頭からつま先までゆっくりと観察すると「メイドさん! 生メイドなんて初めて見た」、と微笑んだ。
「……メイドさん? あっちはチェルシー・ゴッドリッチですけど?」
誰かと勘違いされているのかと思いチェルシーはまじまじと黒髪の女性を見つめた。仕立ての良い黒い上着に白いシャツには細かな模様が縫い込まれている。市場で購入すればさぞ値が張るものに違いない。一方でスカートの丈は娼婦の着るものより少し長い程度で膝上までしかない。その下にはかれた黒いタイツは彼女の白い肌が透けて見えるほど薄くぴったりと脚にあっている。だが、そこに転がる男に破かれたのか、いたるところが裂けていた。
王都では見かけない服装である。
「あ、違う違う。あなたの服装のことを言ったの」
黒髪の女性はそう言うとチェルシーの服を指差していった。チェルシーは自分の衣装を再確認してみる。別段、変なところがあるようには彼女には思えなかった。黒いワンピースの裾は脚が見えないようにくるぶしほどまである一般的なものである。うえに着ているエプロンドレスもあまりレースなど装飾のない簡素なものである。女中服と呼ばれることはあってもメイドと言われたことは一度もなかった。
「変でしょうか? 普通だと思うのですが?」
「ごめんなさい。私のいた場所ではその衣装をそういうものだからつい」
困ったような顔で彼女はチェルシーに謝った。チェルシーは分かったとも分からないとも言えず、小さく頷くと微笑んで見せると話を戻した。
「で、あなたはどなた様なのでしょうか? あっちは幸せの女中商会のチェルシー・ゴッドリッチと申します。こちらの旦那様には石材や木材といった建築資材を多く納めさせていただいております」
「私は」
黒髪の女性が名乗ろうとしたとき、彼女の脚の下敷きになっていたエリックが跳ね起きて言った。
「この人は神様だ! 俺にあの第一迷宮を超える建物を建てさせてくれる!」
「……神様ですか?」
チェルシーは途端にうさんくさそうな顔でエリックと神様と呼ばれた女性を見た。鰯の頭も信心から、というが目の前にいる女性が神様とはとても思えない。
「そうなんだ。迷宮の地下四階で出会った」
「それは傭兵団から聞いております。動く屍に囲まれて床を破壊したところ前人未到の地下四階を見つけた、と。ですが、旦那様はその衝撃で頭でも打ったんじゃないですか。商売の教訓で申し訳ございませんが、神を名乗るやつと絶対を口にする奴は詐欺師と相場で決まっているんです」
「言い得て妙ね。私もそう思うわ」
他人事のように神様が笑う、とチェルシーはむっとした表情で「あなたのことですよ」、と言った。
「でもね。チェルシー、俺は決めた。神様を信じる。それ以外に俺が未知の世界へ進む方法はない。君たち商会が分の悪い俺に賭けてくれたのと同じように俺は彼女に賭ける。ただそれだけだ」
諭すような声でエリックが言う。そして彼が救出されるまで地下四階で何があったかを話した。チェルシーは苛立った様子でそれ聞いたあと「ならなにか見せてくださいまし。あなたを神だと思えるなにかを」、と言って神様の顔を睨みつけた。
「私は建築の神様だから。いまぱっとできるようなことはないよ」
神様は片手をひらひらと振った。それを見てチェルシーは目を細めた。
「建築の神様? 聞いたことありませんよ。なら、この屋敷を複製見せるとか。それこそ迷宮みたいな建物を作ってみせるとかできないのでしょうか?」
「できないことはないけど、材料をプリーズ。無から何かを生み出すなんて出来るわけないじゃない」
チェルシーの前に神様は合わせた両手を差し出した。そこに材料をのせろ、と言わんばかりの行為にチェルシーはさらに目を細めた。
「そもそも神様は全知全能ではないのですか? 材料を求めるなんて本当に神様って言えるのでしょうか?」
「そう言われてもそういう神様なんだから仕方ないじゃない。そもそも神様に何かしてもらおうっていうのに無料でしてもらえる、と思ってる時点で気に食わない」
神様はふてくされたようにそっぽを向くと口を尖らせて不平を述べる。
「……旦那様。これでも分かりませんか? この女は詐欺師です。しかも質の悪い」
「いや、チェルシー。そうは言うけど神様は神様なんだ。……そうだ!」
エリックは何か閃いたとばかりに神様に近づくと何かを耳打ちした。神様はそれを聞いて露骨に嫌な顔をしたが、エリックに繰り返し説得されて「分かった」と気乗りしない様子で頷いた。
「相談は終わりましたか? 旦那様の胴元であるあっちには詐欺に払うお金はびた一文たりともございません。これで納得いくものが見えなければ旦那様にはもう一度、迷宮調査に出ていただきます。そして、あなたはこの屋敷から出て行っていただきます」
「わかったわよ。ホント、お金お金小うるさいなぁ。まぁ、ちょうどいいか。なんでもいいからコインを出しなさい」
神様は右手の親指と人差し指で丸を作って見せた。
「コイン? 通貨のことですか?」
チェルシーは渋々という様子でエプロンから使い込まれ磨り減った銅貨を取り出す。銅貨を見た神様は「もっといいのを出しなさい。しぶちん」と文句をつけた。それを聞いたチェルシーは嫌そうに銀貨を取り出した。
「金貨じゃないけどいいか」
神様はチェルシーの手から銀貨を受け取ると、ぱん、と両手で挟んだ。その瞬間、彼女の手から青白い光が起こる。光が消えると神様はチェルシーに手を出すように言った。チェルシーが手を差し出すと神様はそっと閉じていた両手を開いた。
キラキラと光り輝く銀色の粉と赤茶色の粉がこぼれ落ちた。
「これはまさか……」
「そうよ。銀貨を分解したの。ざっくり銀が六割二分、銅が三割ってところかな。鉛とビスマスが八分ほどあるけど気にするほどじゃない。贋金作るならこの比率で作ればバレないんじゃない」
神様はそう言って笑うと、手についた粉をパンパンと払った。チェルシーは手に残された銀粉と銅粉を驚いたように見つめた。
「どう? 驚いた? 神様は詠唱も魔法陣も使わずに魔法が使える」
魔法をおこすためには必要なものがある。一つは魔法の元となる魔力である。これは術師の体内にもあれば石にも空気にも水にもわずかばかり含まれている。次に必要なのは魔力にどのような現象を引き起こさせるかを決める呪文や魔法陣である。魔力だけではどのような現象も起きない。だが、呪文や魔法陣で道筋を作りそこに魔力を込めれば、魔力は活性化し炎なら炎を、水なら水を生じさせる。
ゆえに魔力に道筋を示す呪文や魔法陣を使わずに魔法を使うことはできないのである。
「どこかに魔道具を隠し持っているとかはないのですか?」
半信半疑といった顔でチェルシーが訊ねる。
神様は黒い上着を脱ぐとチェルシーに手渡し、さらに白いシャツの袖をまくりあげてどこにも魔法陣や道具がないことを見せつけた。魔道具はあらかじめ決められた魔法を複数回行使するために作られた道具である。だが、魔道具はその複雑な構造からかさばる。ゆえに杖や剣に模して作られることが多い。
「チェルシー、信じてくれる?」
「……どうにも狐のつままれた気がしますが……。信じましょう」
エリックに促されてチェルシーは不承不承といった様子で神様を認めた。そんなときであった。屋敷の玄関に置かれたベルを鳴らす音が聞こえた。
「だれだろう?」
慌てて彼が玄関へ向かうと、一人の兵士が立っていた。
「エリック・コーウェン様ですね。我らが陛下の命をお伝えします。五日後、正午に王宮の南宮庭に出頭せよ、とのことです」
「五日後? 一体何があると言うんだ?」
今更ながら皇帝であるセシリア・ルークラフトがエリックに新たな罰を与えようとしているのではないかと思い身構えた。だが、兵士の口から言葉はエリックの想像を超えるものであった。
「はい。帝国学術院顧問であるロナルド・ベーコン様が新宮殿建設に用いる新しい工法を披露されるとのことです。たいそう、自信がある様子で『私は第一迷宮の構造はすでに解明しております』、とおっしゃいました。陛下はそれを聞いて『ならば余やエリックに見せてみよ』、と言われました」
エリックは、ロナルドに先を越されたことに驚き、足元から崩れ落ちそうになった。そして、自分が完全に追い詰められていることを悟(さと)ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます