第2話
「はぁ……」
大きなため息をつくとエリック・コーウェンは、人は落ちるときはとことんまで落ちるものなのだと悟った。皇帝であるセシリア・ルークラフトから調査官に任じられてから三日後、彼の姿は双角の塔――第一迷宮の薄暗い地下にあった。
真っ暗な地下室で彼はボロボロになった体を起こすと天井を見上げた。天井からは小さな光が差しているが、とても登れるような高さではない。このまま死んだほうが楽かも知れない、と思いながらもエリックは立ち上がろうとしていた。それは意地と自負からであった。まだ自分は這い上がれる。
彼はこの三日間に起きたことを思い返し、心の中で叫んだ。
エリックがセシリアから不興をかった。この事実は瞬く間に王都を席巻した。
その結果、彼は一気に窮地(きゅうち)に落とされた。
彼に屋敷や店舗の設計を依頼していた貴族や富家からは注文の取消が殺到し、彼にたいして石材や木材など諸々の建築材料を納めていた商人たちからは期日を待たずに支払いを求める声が殺到した。前者はセシリアに対するはばかりから、後者はエリックが迷宮の調査中に落命するのでは、という危惧からであった。
「どうしてこんなことになったんだ」
一夜にして仕事を失い。多額の負債を抱えた彼にできることは一刻も早く第一迷宮の構造を解明することであった。とはいえ、ルークラフト帝国初代皇帝モルドレッドでさえ百人の仲間と攻略した第一迷宮をエリック一人で調査することは不可能であった。
「旦那様もとんでもない尻尾を踏まれたものです。猫。いえ犬ならまだどうにでもなりましたのに、よりにも虎のなかの虎である陛下の尻尾を踏むなんて、旦那様はとんだマヌケでございます」
仲間なし、資金なし、権力なしのエリックにそう言って声をかけたのは、女中すがたの女であった。
女は口元に手を当てて笑う。金色の髪に血色の良い肌は健康的な美しさを彼女に与えていた。エプロンドレスを身につけた彼女はチェルシー・ゴッドリッチという。エリックを旦那様、と呼ぶ彼女は女中ではない。
「そのマヌケから金を取立てに来たんだろう。いくらだよ、『幸せの女中商会』は俺にいくら払えって言うんだ?」
曇天のような灰色の髪をかきむしりエリックが半ばヤケのような声でチェルシーに訊ねる。彼女はエプロンの端に組紐で結びつけた算盤を取り出すと珠を弾いてみせた。そして、そっとエリックの目の前に算盤を差し出した。そこには彼を卒倒させるほどの金額が示されていた。
「チェルシー……。俺はいままで君たちと良い関係を築いてきたと思っているし、君たちもそうじゃないかと信じている」
「ええ、そうですわ。旦那様にはアディソン伯の私邸にメイスン商会の商館と様々な建物の材料をお買い上げいただいております。あっちらは咲き誇る花々のごとく美しい関係でした」
チェルシーは両手を胸の前で結び、うっとりとした表情で宙を見つめた。そして、「ですが、美しい華はいずれ枯れるものです。恒久に輝きを失わない黄金の美しさにいたれなかった事が悔やまれます」、と冷たい声で言った。
幸せの女中商会は『死合わせ』の女中商会だ、と言ったのは誰だったか。そんなことを思いながらエリックは自分の商売相手がいかなるものかを考えざるをえなかった。
「いや、第一迷宮の調査官だといっても俺がすぐに死ぬと決まったわけじゃない。いくらなんでもすぐにツケを支払え、というのはあまりにも性急な請求だ!」
「別にあっちは今すぐに払え、とは一言も申しておりませんわ。あっちは旦那様にご融資できる金額を提示しただけでございます」
さっきと打って変わった優しい声でチェルシーは微笑んだ。
「……どうして? 君も俺が迷宮の調査中に死ぬと思ってツケを回収にきたのじゃないのか?」
「旦那様のツケを回収するよりも欲しいモノがあっちらにはあるのです。もし旦那様が奇跡的に調査を遂行されたあかつきに手に入れられるものはなんでしょう?」
彼女の問い掛けにエリックは少しだけ考えて答えた。
「新宮殿の建設事業か」
「そう、新宮殿の建設です。旦那様は新宮殿建設の任を与えられ、それに必要な資材や人材を手配することになります。なんといっても帝国の新宮殿です。資材は一級品が求められ、それに従事する人間は一つの町ほどになりましょう。あっちらはそのすべてを注文を頂きたいのです」
確かに建設は過去に類がないほどの規模になることは間違いない。また、質も至上をものが求められる。これを一手に受注することができれば、商会へに入る利益は膨大なものとなる。だが、いまのエリックは本流ではない。間違いなく本流は帝国学術院の顧問であるロナルド・ベーコンである。
「天才建築家である俺に声をかけるより顧問殿に声をかけたほうが建設的だと思うよ。どう考えてもこっちに賭けるのは分が悪い」
自嘲を交えてエリックは言った。皇帝であるセシリアの怒りを買った彼に助力を申し出ること自体、正気とは思えない。立場が逆であれば、いくら付き合いのある相手だからといって大穴のエリックに声をかけることはしない。どう考えても帝国学術院の顧問であるロナルドが新宮殿建設の責任者になる公算が大きいからだ。
目端のきくものなら今頃、ロナルドに接触をはかっているに違いない。そう考えて、エリックは違和感を感じた。チェルシーら『幸せの女中商会』は大商会ではない。だが、この王都で手広い商売を行うほどには目端は利くのである。その『幸せの女中商会』がわざわざ自分に肩入れする理由はなにか。
エリックは答えに行き着いた気がして、ニッと笑った。
「そうか、顧問殿には断られたな。そこであえての大穴狙い、というわけか」
「そうです。大本命には手堅い商売のしたい大商会が手を回しています。そこにうちが入り込むのは難しい。それよりは旦那様に賭けてみよう、それが祖母の考えです」
チェルシーの祖母はかつて王家に仕えた女中であった。それが何の因果か旅の商人と恋に落ちた。彼女らは急速に領土を拡大するルークラフト帝国と同じように事業を拡大し、王都で店を開くまでになった。屋号が『幸せの女中商会』となったのも彼女が王家付きの女中であったからである。
「婆さんも老いてなお欲が深いな」
エリックは老商人の顔を思い浮かべて苦笑した。シワだらけの好々婆のような顔をしながら口を開けば、憎まれ口と金ばかりの守銭奴が融資までして新宮殿建設に一口かもうとしている。エリックは自分が考えているよりも多くの人が、この新宮殿建設に関心を示していることに今更ながらに驚いた。
「さぁ、どうなさいますか?」
「その融資ありがたくいただくよ」
エリックはチェルシーに右手を差し出した。その右手を彼女が握り締める。こうして、エリックは『幸せの女中商会』からの融資を受けて方々への支払いを済ませ、モルドレッドと百人の仲間には劣るが、頼もしい二十人ほどの傭兵団を雇うことができることになった。
これまでの調査によってルークラフト帝国初代皇帝モルドレッドによって攻略された第一迷宮は、いくつかの特徴があることが分かっている。
一つは、その長大な高さである。雲に届くといえば誇張になるが、人の身の丈であれば百人を縦に積み上げても足りないほどに高い。これほどまでの高さの建物は、この世界に存在しない。
二つは、建物が階ごとにひとつの岩のような物体でできていることである。第一迷宮の床や壁にはいたる場所に大理石や金属の板がはめ込まれているが、それらは表層を飾っているに過ぎない。それらを外した内部は灰色の岩のような物体で構成されている。そしてこの岩のような物体は階ごとに一枚岩なっている。
三つは、どこにも燭台を置く場所がないことである。外壁に面した場所にはかなり巨大な窓が作られているために明るいが、中央部などには太陽光は届かない。普通の建物であれば、どこかに燭台を置く場所があるはずなのだが、それがこの迷宮にはない。
四つは、第一迷宮のいたる場所に管や線が張られていることである。管や線はすべて金属で出来ているのだが、それらは巧妙に壁の中や床下、天井裏に隠されていた。だが、これらの管や線は何のためにあるのか分からない。
五つは、巨大な地下室が三階にわたって存在していることである。迷宮の最上階を目指したモルドレッドらはこの地下室に興味を示さなかった。また、その後の調査でも地下には部屋らしい部屋はなく広大な空間に多数の柱が並んでいるだけであった。
多くの謎を抱えた第一迷宮であるが、このなかでエリックが興味を持ったのは、地下のことであった。地下室がない方が建物は堅固になる。地下室がない場合、建物の重さはすべて地面に分散される。だが地下室がある場合、地上にある建物の重さは地下にの柱に集中してかかることになる。もし、柱が折れて建物の重さに耐えられなくなれば、建物は簡単に崩落する。
だが、第一迷宮には地下室が三層にもわたって存在する。理にかなわない事には理由があるはずである。ゆえにエリックは調査を地下に定めたのであった。
「どうなってるんだ?」
エリックは迷宮の地下で怪訝な顔をした。その周囲ではエリックを守るように傭兵たちが動く屍たちに警戒を向けている。モルドレッドの時代には湧き出すほどいた動く屍もいまでは数を減らしている。それは動く屍が、魔物や野獣と異なり生殖によって数を増やすことがなかったからである。
動く屍は、人間と同じような容姿をしている。しかし、肌は死体のような赤紫色に変色し、その眼は白濁しておりそこに生気や感情は見て取ることはできない。動きも素早くはない。しかし、力は強い。噛まれたり掴まれるすれば、骨は砕かれ、肉を引き裂かれる。また彼らの姿は老若男女、と様々である。服を着ているものも多く、何らかの魔術の失敗によって人間が変化したという説と魔術的に造られた人造人間の成れの果てだという説が主流である。
「調査官殿、早くやってくださいよ。あいつらは一匹二匹ならどうとでもなるが複数で来られると骨だ」
最近、子供が生まれたという傭兵がエリックに苦情を述べる。彼らにとってこの第一迷宮はなんの魅力もない。この世界に現れてすでに百年、第一迷宮はモルドレッドに始まり多くの者が探索を行っている。その中で金になりそうな物は持ち去られ、いまここに残っているものは価値のないものばかりである。
おかげで、いまとなっては第一迷宮に挑むものはエリックたちの他は誰もいない。いるのは迷宮を彷徨う動く屍だけである。
「すまない。だが、もうしばらく待ってくれ」
エリックは壁に石筆で魔法陣を書くと小さく呪文を唱えた。
『固く結ばれた絆、ここに分かち姿を変えよ』
魔法陣を中心に鈍色の光が灯ると岩のような物体がサイコロのようないくつもの塊に分かれた。その断面はなめらかで小石や砂利がほぼ均一に並んでいるように見て取れる。ここに来るまでエリックはこのような作業を繰り返し行ってきた。だが、どの場所からも取れるのは同じである。
魔法によって巨大な一枚壁をつくる場合。
材料となる大量の岩を魔力によって強引に結びつける。そのため岩同士の接合面は魔力で無理やり繋ぎ合わされる。そのため、断面は非常に歪でがたついたものになる。だが、この建物には魔力で繋ぎ合わせた痕跡がないのである。
切り出した岩をエリックが見つめていると、後方で傭兵たちが騒ぎ出した。
「屍だ! 屍が出た」
「騒ぐな。あいつらは近づかなければどうにでもなる」
「弓兵は足を狙え、魔術師は炎だ。焼き尽くすんだ!」
傭兵はすばやく隊列を整えると動く屍に矢を射かけた。足を撃ち抜かれた動く屍はその場にどっと倒れこむと言葉にならぬ悲鳴をあげた。そこへ魔術師が火球を降り注ぐ。あっという間に動く屍は真っ黒な灰になった。
「終わったか……。一匹でよかった」
傭兵の一人が安堵の声をあげた時だった。地下室にひたひた、と素足で石畳を歩くような足音が響いた。その足音はだんだんと数を増やしてゆく。ほどなくしてエリックたちは自分たちがいつの間にか動く屍に囲まれていることを理解した。
「調査官殿……」
地下にあふれた動く屍はざっと百体ほどであった。傭兵たちは二十人に満たない。とてもではないが殲滅することはできそうにない。エリックとて魔術の心得はあるが、そのほとんどは建築に特化したもので戦闘には向かない。だが、できることはある。
「俺が魔法で天井を崩す。あいつらが瓦礫に潰されているあいだに逃げるぞ」
エリックは傭兵たちに声をかけると石筆で床に素早く魔法陣を描いた。
その間に、傭兵たちは弓矢や魔法で動く屍を牽制する。死体が焼ける悪臭が鼻をつく。だが、そんなことを気にしているものは誰ひとりいなかった。
『それは人の立つ場所あるいは届かぬ場所、重く結びつくその繋がりを砕け』
呪文に反応して魔法陣が鈍い光を放つ。光は一直線に天井を走り天井の一部が豪音と共に崩れ落ちる。建築士が使う建築物を破壊する魔法の一つであった。土煙が周囲に立ち込める。動く屍の頭上に落ちた天井の破片は彼らを下敷きにしている。
「いまだ!」
傭兵たちが一気に駆け出す。エリックもそれに合わせて走り出す。広い地下室を駆け抜け、上階へ向かう階段を傭兵たちが駆け上がる。エリックもそれに続こうとしたとき、彼の足首が掴まれた。瓦礫のしたから突き出した赤紫色の手はエリックの足首を力任せに引っ張る。その力に負けて彼の身体は地面に叩きつけられる。
「くそ、放せ!」
エリックは地面から突き出た手に瓦礫を叩きつけるが、その手は離れるどころかさらに強く握り締められる。足首の骨が軋む鈍痛が彼をおそう。言葉にならない叫びが彼の口からあふれた。
『っ、砕けろ』
痛みに堪えて発することができたのは、最も単純な魔法であった。方向も威力も指定できない。ただ魔力を込めた場所を砕くそれだけであった。それゆえに威力はあった。エリックの手元から広がった魔力の輝きは彼がはいつくばる床を大きく砕いた。
一瞬の浮遊感、そして強力な衝撃がエリックを襲った。視界は大きく揺れ、全身のいたる場所から痛みが走る。だが、足首にあった感触だけは消えた。瓦礫に半分埋もれるような形で起き上がったエリックは頭上を見上げる。彼の魔法は地下一階から二階と三階を貫いていた。そこはこれまで発見されていない地下四階であった。
「はぁ……」
ため息とともにエリックは身体を起こす。地の底まで落ちたがまだ生きている。ここからだって這い上がれる、そう自分に言い聞かせると彼は天井に目を向けた。彼が落ちてきた穴は遥か彼方で、とても登れるような高さではない。
『灯りよ』
エリックは魔法で小さな光球を生み出す。照らされた周囲は、大小の用途不明の金属、そして見たこともない文字が書かれた書物が散乱していた。そこにかつて天井だったものが散らばり、さながら戦争のあとのようだった。
身体に力を込めて立ち上がろうとすると、足首から激痛という拒否の言葉が帰ってくる。見ればさきほど動く屍に掴まれた足首が腫れ上がっていた。片足を引きずるように柱にもたれかかるとエリックは瓦礫のしたから何かが動くような音がしていることに気づいた。
「まさか、まだ動けるのか」
魔法で生み出した光球を左右に動かすと、すでに動く屍が上半身を瓦礫からだしていた。下半身は先ほどの落下で潰されたのか、両手だけで地面を這いずって近づいてくる。エリックは急いで逃げようとするが思うように歩けない。
なんとか動く屍からつかず離れずの距離を保って逃げ回っていると彼の視界に場違いなものが見えた。
それは、黒髪の若い女性だった。
柱を背に目を閉じた彼女は、まるで眠っているように見えた。
手足も顔も肌色で動く屍のように赤紫に変色していない。着ている衣服は襟つきの白いシャツの上に黒い上着をはおり。ひざ下までしかない短いスカートのしたには足のラインが見えるぴったりとしたタイツをはいていた。エリックの知る限りこのような服装は王都でも見たことはない。
「どうなっているんだ! 俺は恐怖で幻覚でも見てるのか!」
その声に反応したのか女性のまぶたがわずかに震える。そして、アサガオの蕾がゆっくりと開くようにその瞳が開かれた。まどろむように焦点が合わなかった目にエリックの姿がうつる。彼女は首をかしげると「だれ?」と言った。
「エリック。俺はエリック・コーウェン!」
自分でも馬鹿だと思うようほど大きな声で彼は名乗った。
黒髪の女性はそれが聞こえているのかいないのか、こくんと小さく頷いた。
「君は? 君は誰なんだ?!」
「かみさまよ」
「神様……?」
彼女の口から出た最初の言葉は、それだった。そして、これが神様とエリックの出会いであった。
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