この街は銀河
夏拍子。
第1話
海底坂という坂がある。起伏の乏しい大阪の街で隘路のようにひっそりと、しかし確かに存在するその坂を、僕は煎夏と並んで歩く。
「ねえ、銀河の五つ子を知っている?」
煎夏はふっと憑かれたように顔を上げ、その発問を僕にぶつけた。
彼は文庫サイズの本を、右肩に下げたトートバックにしまい、僕の返答を待つ間に辺りをぐるりと見渡した。洒落た雑貨と衣類の並ぶセレクトショップ、雑然と放置されることによって異様な圧を醸し出す古書店、たまやの名を持つ金魚屋。狭い通りには千変万化の波を避け、なお生き長らえてきた商店が軒を連ねている。堤防のようなそれらには様々な紋様があるようで、煎夏の興味はそちらに引かれつつあった。
「銀河の五つ子。ステファンの五つ子、みたいな名前だっけ」
坂を上りきった時、僕はようやくその名を口にした。詳しいことは覚えていないけれど、銀河群の密集度が高いコンパクト銀河群と呼ばれるものの一つ、確かペガサス座に所属しているとか。
今まで散漫に注意を張り巡らしていた煎夏ははっとして僕を見ると、表情を弛緩させて曖昧に笑った。
「そう、重たい銀河なんだよ。星の寿命が短いって、ステファンの五つ子の中で生まれた子供たちは、長く生きられないんだって」可哀そうなだよねえ、落下点を見失ったのか、煎夏は目を泳がせて話を濁した。
「でも、死に際には爆発を起こして、また新しい星が出来るんだろう?」
「そうなの、超新星爆発のことだよね。ステファンの五つ子はね、百万個の星を生むんだよ」
僕と煎夏はのらりと細道を抜けていく。けして公道には出ようとしない。僕らは互いの価値観というか感性というか、共感を持つ部分が多くあるから、興味が高じて一部屋に同居できる仲にまで過程が進んでいる。いくら社会人といえ、金の工面にはどちらも難しいところがある、というのも動因といえる。煎夏は七か月前から始めた芽の出ない創作活動に勤しんでいるし、僕も一介の社畜に過ぎない。こうして共に暮れかけの街を散策できる友人がいるだけ、幸せだ。
「この街は銀河」
一心寺の門前を過ぎようとしたとき、煎夏が唐突に呟いた。いや、僕に向けて言ったのだ。彼の大きな双眸が、逃すまいとして僕を捉えている。
「なんの創作?」僕は茶化すように、煎夏の小さな肩を叩いた。
「この街は銀河、って良い響きだとは思うけど」
「創作なんかじゃないよ。銀河だったんだ、本当だよ」
煎夏はすっと左腕を持ち上げて、今まで僕らが歩いてきた方角を一本、人指ゆびで示した。
石畳の地面に、だいだいの夕日が射している。古い町並みは時代の流れに圧制され、僕の視界に人は存在していない。ただ、いるかもしれないというだけの、商店の内に籠りきる人たちの顔を想像していた。ぼこぼこと坂の下に広がる建設物の海、それが昔、銀河であったというなれば地球も堕ちたものだ、と思わずにはいられない。柔らかなコントラストを現す風景は、これだけで確かに美しいけれど。
「海底坂には、その残滓がたくさんあったのに」気付かなかったんだね、煎夏はどこか寂し気に言う。僕にはその、彼の言葉の意味するところは分かりかねるが、分からなくても良いだろう、というのが、正直に思うところではある。
煎夏にも、煎夏の思い描く世界というものがあって、僕がその内容を上手く汲み取れないということがあれば、その事実は彼を深く傷付けるだろう。
煎夏には、僕しかいないんだから。
「素敵な街だな。此処は」
「そうだよ、とっても素敵」
煎夏はあどけない笑顔で僕に微笑み、また足を進めた。
この時に気付いておくべきだった。煎夏はこの街の行く末を、正確に示唆していたというのに。
初夏、やわらかな雨が降った日、大阪に位置する湊英研究所が或る研究に成功したという旨のニュースが速報で流れた。
大阪という銀河で、星の子供が産まれたのだという。
この街は銀河 夏拍子。 @natuhyoushi
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