41.霧の谷にて、彼女たちは(5)


 ディスは呆然と尻餅をついたまま、エナたちの顔を見ていた。かつての教え子たちが一様に険しい表情を浮かべていることに気付くと、にわかに落ち着きを失う。


「くそっ……くそう! 奴らは、いったい奴らはどこへ行ったのだ! 使えない奴らめ。くそう!」

 彼の口から出てくるのは、ひたすら呪詛の言葉だけだった。


 アトロが一歩前に出る。ディスは大げさすぎるほど過敏に反応し、後ろにひっくり返って後頭部を打った。

 無様な姿に、エナは顔をしかめ、イスナはそっと視線を外す。


「ディス殿。私たちは取締官ではないし、その権限もない。だからしかるべき場所にあなたを突き出す。弁解があるなら、そこで告げて欲しい」

 アトロが言うと、ディスは一転、引きった笑い声を上げ始めた。

「お、お前ら。俺たちに刃向かって、どうなっても知らんぞ。はは……お前らなんぞなあ、うちのボスにかかればひとたまりのないのだ。ざまあみろ。もうボスからは逃げられないぞ。はははっ」

「……最悪」

 エナが吐き捨てる。


 カミーノが首を傾げた。

「ボス、とはどういうことなのかね」

「おそらく、黒尽くめの頭領のことでしょう。アラードラでも組織の存在は問題になっている。もし彼の言うとおり近くにボスがいるのなら、早めにディス殿を街へ――」

 アトロが答え終わる前、だった。


「失敗したのかい」

 その、若い男の声が全員の耳に届いたのは。


 ディスの背後。二メートルと離れていないところに、ふたつの人影が現れた。

 ひとつは、エナやイスナと同年代の、黒髪小柄な青年。

 もうひとつは、青年の背後に彫像のように立つ、美しい金髪の天使。背中から純白の翼が生えている、文字通りの、人ならざる存在だ。


 エナたちの背筋がぞくりと粟立つ。彼女らは同時に思った。

 まったく気配を感じなかった。いったい、いつ近づいた?


「おおおっ、これはボス! ちょうどいいところに」

 ディスが顔を上げ、喜色を浮かべてごまをする。かつて教師だった男は、犯罪組織の長に矢継ぎ早に訴えた。

 いわく、どれだけ自分が努力したか。

 いわく、どれだけ黒尽くめが役立たずだったか。

 いわく、どれだけエナたちが邪魔をしたか。

「ですから! 今回の事態は私の責では――ボス?」

 それが最期の言葉となった。


 青年がおもむろに突きつけた指先から、高速の魔力弾が撃ち出され、ディスの眉間を容赦なく、躊躇なく、無抵抗のまま、貫いた。

 地面に倒れるより先に、ディスの身体は青白い炎に包まれ、わずかな装飾品を残して焼け崩れた。

 止める暇など、皆無であった。


 青年はエナたちを見た。彼の目は、まるでそこに血が溜まっているかのように深紅しんくに染まっていた。

「ひとり。ふたり。さんにん」

 エナたちの人数を数えながら、視線を動かす青年。苦虫を噛みつぶしたような渋面を浮かべている。

 エナは唾を飲み込み、イスナは顔面蒼白になった。

 アトロは生徒たちを守るように手を掲げた。

「彼女らには……手を出すな」


 青年はまばたきした。アトロをじっと観察する。

「君たちみたいな……美人で格好良い子を従えている奴って、どんな男だろう」

 声量自体は、ぼそぼそとつぶやくような、小さなもの。

 だが、込められた禍々しい気配は尋常ではない。


 エナ、イスナ、そしてアトロすらも、靴裏が地面に縫い止められたように動かなくなった。

 エナはこのときになって、自らの不覚を悟る。もっと早く、この場から離脱するべきだった。あの黒尽くめたちが、目的も果たさずに一目散に逃走した理由を、もっと考えるべきだった。

 聖獣など目ではない、もっと恐ろしいモノの怒りに触れないようにするためだ。

 そしてディスは、彼の怒りに触れたために、無慈悲に殺された。


「可愛い子はみんな、誰かのモノ。そうなんだろう?」

「……?」

 冷や汗を流しながら、エナは眉をひそめた。

(それにしても、この人はさっきから……何を言っているのだろう)

 理解ができない。美人を従えるという意味ならば、目の前にいる青年こそ最も適当な存在だろうに。彼の背後に控える天使は、まさにこの世を超越した美しさ、神々しさを持っている。


 言動も、容姿も、状況も。すべてが理解の外。

 だからこそ、この男の一挙手一投足から目が離せない。彼が動けば殺される――本気でそう思った。


 そのとき。


 霧に包まれた周囲の景色が一変した。

 



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